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ガラテヤ人への手紙

私たちが蒔く種

私は、良い農家にはなれなかっただろうと思います。子どものころ、みかんの種かリンゴの種を蒔きましたが、すぐに成長してほしいと思っていました。1~2日経っても何も変化がなかったので、すぐに諦めてしまいました。

農業には忍耐が必要ですが、当時の私には全く忍耐がありませんでした。

とはいえ、ある意味で私たちは皆、種を蒔く者です。そして、私がかつて蒔いた種とは違い、最終的に私たちは自分の蒔いたものを刈り取ることになります。

そして、パウロはこう書きました。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ人への手紙6:7-8)

ガラテヤの教会や他の教会でも、ある人々はパウロの教えを曲げました。パウロは恵みによる救いを教えましたが、彼らはこう言いました。

「パウロの言うことは、私たちが好き勝手に生きてもよいという意味です。あえて罪を犯しても、どうせ赦されるのだから。」

しかし、パウロは答えました。「神様は愚かではありません。あなたたちは神様を侮ることはできません。神様はあなたたちの心と行いをすべてご存じです。あなたたちがイエス様を信じると主張しながら、自分勝手に生きるなら、神様はその本質を見抜かれるでしょう。

だから、この世では罪の結果を何とか避けることができても、裁きの日に神様の前に立つとき、あなたは滅びます。」

その一方で、もしあなたが本当に神様を愛し、聖霊様を喜ばせようとするなら、永遠の命を刈り取ることになるのです。

そして、パウロは私たちを励まします。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(9)

神様の働きの成果をすぐに見られないと、私たちは簡単に落胆してしまいます。私たちはファストフードの文化に生きており、すぐに結果を見たいと思ってしまいます。けれども、種が成長するには時間がかかります。一朝一夕で育つものではありません。

同じように、御霊を喜ばせるために蒔く種も、すぐに成長しないことがあります。時には、一生をかけてもその実を見ることができない場合もあるでしょう。

それでも、パウロは私たちを励ましているのです。

「その種は必ず成長します。あきらめてはいけません。失望してはいけません。蒔いたものから成果を刈り取ることができます。さらに、永遠の命を刈り取るのです。」

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。パウロはこう語ります。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(10)

御霊を愛し、喜ばせる方法の一つは、周りの人々を祝福することです。神様は私たちを、家族、友人、同僚、そしてクリスチャンの兄弟姉妹に対する祝福となるように召されました。

そのように歩むとき、神様は私たちが蒔いた種の実を刈り取ることを約束しておられます。

あなたはどのような種を蒔いているでしょうか。

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マルコの福音書 マルコ4章

イエスのたとえ話:御国の種

このたとえ話には、前回のたとえ話と大体同じ意味があると思います。前にも言いましたが、私たちは神様の言葉を人々の心に蒔くかもしれませんが、その種を成長させることができるのは神様だけです。

例えば、私たちが福音を伝えるとき、相手は無関心かもしれません。または、彼らが本当に怒るかもしれません。それでも、私たちが意識しなくても、その種は根を張っているかもしれません。

私たちの力がなくても、神様は聖霊様を通して、相手の心の中で働き始めます。神様は状況や他の人々を用いて、その人を近づけてくださいます。

そして、いつの間にか、その人はあなたのところに来て、微笑みながらこう言うのです。「イエス様のことを教えてくださって、本当にありがとうございます。あなたのおかげで、私はクリスチャンになりました。」

しかし、このたとえ話はまた別の解釈もできると思います。

時々、私たちはこの世を見てフラストレーションを感じます。「神様の国は本当に来るのだろうか。そうは見えないなあ。この世界はだんだん悪くなっているようだから。」

でも、このたとえ話では、私たちはいくつかのことを学ぶことができます。

イエス様とその弟子たちを通して、神の国の種はすでに蒔かれました。今でも、人々の心にたくさんの種が蒔かれています。そして、その種は成長し続けています。

とはいえ、多くの場合、私たちはその成長に気づきません。けれども、振り返ると、その福音の種がどれほど成長したかに気づくことができるのです。

イエス様が天に戻られて以来、福音がどれだけ広まったか考えてみてください。一つの都市から始まり、世界中に広まりました。今でも、その福音は広がり続けています。

そして、神様の国が打ち勝つことは確かなものです。誰もその成長を止めることができません。ソ連もそれを学びました。福音を滅ぼそうとした他の国々も、それを学びました。

だから、最終的に神様の国が来て、すべての人々がその国を見ることになります。その日、イエス様はすべてを治められます。そして裁きの日に、イエス様に従う人々は報いを受け、自分の道を選んだ人々は滅びるのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。

1.希望を持って待つこと。 周りの悪を見て、失望するのは簡単なことです。でも、勇気を持ってください。神様の国は確かに来ています。そして今も成長を続けており、誰もその成長を止めることはできません。

だから、たとえフラストレーションを感じたり苦しみを経験したりしても、待ち望み続けてください。この邪悪な世界は永遠に続くことはありません。そして裁きの日には、あなたは必ず報いを受けます。

2.ちゃんと準備をすること。 いつイエス様が戻られるかわかりませんが、その日まで私たちは天の父のご用を果たさなくてはなりません。

イエス様が戻られる時期は重要ではありません。重要なのは、イエス様が戻られるその時に、私たちがちゃんと準備を整えていることです。

あなたはどうでしょうか。あなたは準備ができていますか。

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マタイの福音書 マタイ13章 マルコの福音書 マルコ4章 ルカの福音書 ルカ8章

種まきのたとえ話:種を蒔こう

前回、この箇所についてお話ししましたが、今日は同じ箇所から別の視点についてお話ししたいと思います。

この話を見ると、農夫がイエス様を象徴していると考えることがよくあります。それも確かにそうかもしれませんが、イエス様が農夫について語られたとき、私たちのことを考えていた可能性もあります。

イエス様がこの世におられた時間は非常に短いものでした。その間に、イエス様は神様の御言葉を人々の心に蒔きましたが、今や私たちがその種を蒔く役割を担っているのです。

このたとえ話から、本当に重要なことを学ばなければならないと私は思います。

私たちが神様の御言葉を蒔くとき、その種が固い心に落ちることがあります。相手がその言葉を聞いても理解せず、また理解しようともしないため、サタンがその言葉を奪ってしまいます。

また、別の人々はその言葉を聞き、喜んで受け入れ、自分の信仰を宣言します。その姿に私たちは大変喜びます。けれども、困難や迫害が訪れると、彼らはその信仰を簡単に捨ててしまいます。

ある人々は、その言葉を信じ、クリスチャンとして成長し始めます。しかし、彼らの仕事や生活の忙しさが、神様との関係を妨げてしまうことがあります。

おそらく彼らは、お金や物を優先しすぎるのかもしれません。教会には通っているかもしれませんが、それ以上の霊的な成長は見られず、霊的な実を結ぶこともありません。

けれども、他の人々はその言葉を聞き、神様の国のために豊かな実を結び始めます。

私のポイントは何でしょうか。その結果は私たちの責任ではありません。私たちは相手の心を変えることはできません。では、私たちにできることは何でしょうか。

私たちは、種を蒔くことができます。そして、水を注ぐことができます。さらに、祈ることができます。パウロはこう言いました。「植える人もいるし、水を注ぐ人もいるけど、成長させたのは神です。」(第一コリント3:6-7)

蒔いた種が成長せず、実を結ばないとき、がっかりした経験があるでしょうか。その結果をコントロールすることはできません。

私たちにできることは、ただ種を蒔き、水を注ぐことです。その後、その人を神様に委ねるしかありません。

あなた自身はどうでしょうか。その種を周りの人々に蒔いていますか?

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種まきのたとえ話:私たちの心の状態

以前、イエス様はさまざまなたとえを用いられましたが、これはイエス様の最初の本格的なたとえ話です。

このたとえ話では、農夫が多くの種をあちらこちらに蒔きました。おそらく、もっと効率的な方法があったかもしれませんが、その時代の農夫たちはこのようにして種を蒔いていました。

道に落ちた種もありましたが、鳥が来てその種を食べてしまいました。イエス様によれば、その道は、神様のみ言葉を聞く人を象徴しています。けれども、残念ながら、その人はその言葉を理解できず、理解しようとも思いませんでした。

私は前に述べたように、たとえ話は本当に学びたいと思った人と、ただエンターテインメントを求める人とを区別しました。

イエス様の弟子たちのように学びたい人々は、イエス様にそのたとえ話の意味を尋ねました。一方で他の人々は意味が分からないまま帰りました。

彼らはイエス様の話を楽しんだかもしれませんが、そのたとえ話の意味を理解せず、理解しようとも思わなかったのです。その結果、サタンがその言葉を奪い、彼らはその言葉をすぐに忘れてしまいました。

また、他の種は岩地に落ちました。岩地とは、石灰岩の上に薄い層の土がある場所です。その土は浅かったため、種はすぐに芽を出しましたが、日が昇ると、根がないためにすぐに枯れてしまいました。

このような人々について、イエス様は次のように言われました。「み言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れます。しかし、み言葉のために困難や迫害が起こると、彼らはすぐにつまずいてしまいます。」(マルコ4:16-17)

彼らはそもそもクリスチャンだったのでしょうか。おそらくそうではないと思います。なぜなら、彼らには根がなかったからです。

もしかすると、彼らには一時的な感情的経験だけがあったのかもしれません。けれども、その感情がなくなり、「信仰」のために迫害が訪れたとき、彼らはすぐにキリストに背を向けてしまいました。

また、他の種はいばらの中に落ちました。ところが、「いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。」(マルコ4:7)

このような人々について、イエス様はこう言われました。「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」(マルコ4:19)

多くのクリスチャンがそのような生き方をしています。この世を愛しすぎるあまり、イエス様に対する愛を忘れてしまうのです。

最後に、ある種は良い地に落ち、たくさんの実を結びました。このような人々は、神様の言葉を聞き、理解し、受け入れ、そしてずっとその言葉を覚え続けます。そのため、彼らは神様の国のために豊かな実を結びます。

あなたの心はどのような状態でしょうか。

神様の言葉がわからないとき、あなたはその言葉をただ置いておくだけでしょうか。それとも、その意味を求めるでしょうか。誰かに尋ねるでしょうか。

私たちは質問することで成長します。けれども、もし私たちが尋ねないままでいるなら、全く成長することはありません。そして、サタンが神様の蒔いた種を盗んでしまいます。

教会に行くとき、ただ感情的な経験だけを求めていませんか。感情は移り変わるものです。もし感情に基づいて信仰を築こうとするなら、その信仰はすぐに崩れてしまいます。むしろ、あなたの信仰はイエス様とそのみ言葉に基づいて築かなければなりません。

あなたは毎日、何を求めているでしょうか。

すべてに優先して、神様を求めていますか。それとも、お金、快楽、持ち物を求めるあまり、神様のために時間がなくなってしまっていますか。また、あなたはもう神様の御心と御国を求めることを忘れてしまっていませんか。

それとも、あなたは神様のみ言葉を聞き、その意味を理解しようとしていますか。その言葉を受け入れ、信じ、心に刻んでいることで、豊かな実を結んでいますか。

あなたの心の状態は、今どのようなものですか。