愚かな者が口にする箴言は、 足の萎えた者の垂れ下がった足。(箴言26:7)
愚かな者が口にする箴言は、 酔った人が手に取り上げる茨。(9節)
箴言を読むときに、多くの人々はどのように箴言を解釈するべきか分かりません。
でも上記の箴言が指摘するように、もし箴言の使い方が分からなければ、最善の場合でも箴言は役に立たないものになります。最悪な場合、箴言によって人は傷ついてしまいます。
ヨブの友達をちょっと考えてみてください。彼らはいつも箴言を語りました。さらに、パウロはその友達のひとつの箴言を引用しました。
だから、その言葉自体は間違っていませんでした。(ヨブ5:13;第一コリント3:19)
でも、その友達は愚か者で、その箴言によってヨブを傷つけてしまいました。
だから、箴言を読むときには、二つの大切なことを心に留めておきましょう。
1. 箴言は神様の約束ではありません。むしろ、箴言は、神様が造られた世界に関する一般的な原則を表現しています。でも、心に留めておいてください。一般的な原則にはいつも例外があります。
例えば、ヨブの友達がいつもヨブに語った一般的な原則は何でしょうか。それは、神様が良い人々を祝福され、悪い人々を呪われるということです。
でも、すべての金持ちが神様に祝福されているとは限りません。また、すべての苦しんでいる人々が神様に呪われているとは限りません。
この壊れた世界では、良い人も苦しむし、悪い人も栄えます。でも最終的に、神様が正義をもたらされて、良い人は栄え、悪い人は苦しみます。
また、箴言22:6をちょっと考えてみてください。
若者をその行く道にふさわしく教育せよ。 そうすれば、年老いても、それから離れない。
それは神様の約束でしょうか。
それは約束ではありません。それは一般的な原則です。
でも、自分の子供が悪い道を行ってしまう時、どれだけ良い両親が自責の念に苦しむでしょうか。
だから、箴言を読むときには、相手を責めること、また自分を責めることに注意しましょう。
2. 箴言には、適切な時も、不適切な時もあります。
例えば、箴言26:4〜5をちょっと読んでみましょう。
愚かな者には、その愚かさに合わせて答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。
愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ。そうすれば彼は、 自分を知恵のある者と思わないだろう。
では、どうすれば良いのでしょうか。愚かなものにはその愚かさに合わせて答えるべきか、答えるべきではないでしょうか。
事情によって違います。あるとき、議論に巻き込まれたら、たくさんの熱は出てくるけど、光はあまり出ません。だから、何も言わない方が良いです。
でも、ある場合には、もしあなたが何も言わなければ、相手が自分の意見に固執し、自分や回りの人々を傷つけてしまいます。
だから、どうすれば良いか考えるときに、神様の知恵が必要です。
5節にも、6節にも知恵のある言葉があります。。。適切な時に使えば。
とにかく、箴言を読むときには、知恵を持って、その箴言を私たちの人生に当てはめましょう。
