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ヤコブの手紙

私たちの益のため

「どうして神様はこの試練を許しているの?神様は僕が躓くことを望んでいるの?」

試練に直面するとき、私たちは時々そう感じるものです。私たちは、神様が自分が躓くことを望んでおられると考えてしまいます。また、神様がいつも私たちに怒り、罰したいと望んでおられると考えることもあります。

しかし、そのような考え方は誤りです。確かに神様は試練を許されます。けれども、それは私たちを罰するためではありません。むしろ、神様の望みは、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した完全な者となることです。(1:4)

だからこそ、ヤコブは私たちにこう言います。

だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。

人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブの手紙1:13-15)

原語では、「誘惑」と「試練」は同じ言葉です。もしかしたら、ヤコブの読み手たちはその言葉を読んだとき、少し混乱したかもしれません。彼らは、「神様は私たちを誘惑するの?」と考えたかもしれません。

現代でも、多くのクリスチャンがそれを疑問に思います。

以前に言ったように、神様は試練を許されます。神様はその試練を通して私たちの心を探りたいと望んでおられます。また、その試練を通して、神様は私たちの信仰を強めたいと望んでおられます。

しかし、神様は私たちに罪を犯させるために決して誘惑されません。神様は決して、「情欲に負けなさい」とか、「妻を虐待しなさい」とか、「私を呪いなさい」とは言いません。

ヤコブによれば、その誘惑は神様からではなく、私たちの罪深い心から来るのです。私たちは、自分の欲に引かれます。そして、その欲に負けると、その欲は罪を生み、罪が熟して死を生みます。

しかし、それは神様の私たちのための望みではありません。

むしろ、ヤコブはこう言います。

私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。

父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。(16-18)

要するに、神様は私たちに良い物だけを与えてくださいます。そして、そのすべての賜物は完全なものです。その賜物は不良品ではありません。また、神様には隠れた腹黒い意図はありません。

私たちの救いはその一つの例です。神様は、私たちを自分のために死なせることもできました。しかし、逆に、神様はイエス様を通して私たちに永遠の命を与えてくださいました。

また、神様には移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。神様はある日私たちを祝福し、次の日に滅ぼそうとすることは決してありません。

むしろ、神様の目的は、私たちが完全な者になることです。神様は私たちが神様の聖さにあずかることを望んでおられます。(へブル12:10)

だから、どんな試練に直面しても、神様があなたを滅ぼそうとしているのではないことを心に留めておきましょう。神様はあなたの人生を壊そうと思っているのではありません。

むしろ、私たちは自分の選択と行為によって、自分の人生をめちゃくちゃにすることがよくあります。

しかし、その試練を通して、神様は私たちに神様に信頼することを教えたいと望んでおられます。そして、その時、私たちは神様の良さと忠実さを悟ります。

また、私たちはその火を通過し、精錬された金のように出てくるでしょう。その時、私たちは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となるのです。