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創世記のデボーション

神の祝福を受け継ぐ者

あなたを祝福し。。。あなたは祝福となりなさい。。。地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。(2ー3)

もうすぐクリスマスがやってくるなんて、信じられないですね。

今日の箇所では、私たちは最初のクリスマスの約束の一つを読みます。

神様は、アブラハムによって地のすべての部族が祝福されると約束されました。

最終的に、その約束はアブラハムの子孫であるイエス様によって成就されました。

そして、私たちはその祝福を受け継ぐ者たちです。(ガラテヤ3:8–9、エペソ1:3–14)

でも、アブラハムのように、私たちはただ神様の祝福を受けるように召されているわけではありません。むしろ、私たちは周りの人々を祝福するように召されています。

私たちの周りの人々も、私たち自身が受けた恵みを受けることができるように、私たちはイエス様の光を照らすべきです。

だから、キリストの教会として、この世界に出て、私たちの周りの人々に対して祝福となりましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ14章

驚くべき約束

この箇所で、イエス様は驚くべき約束をされました。もしかすると、その約束を聞いたあなたは、「本当ですか?イエス様は本気なのですか?」と思うかもしれません。

イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネの福音書14:12)

イエス様はさまざまな驚くべきことを行われました。病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせ、何千人もの人々に教え、福音を通して希望を与えられました。

では、イエス様を信じる人々もそのようなことをするのでしょうか。さらに大きなわざを行うのでしょうか。

もしかすると、使徒の働きを読んで、イエス様が弟子たちだけについて語られたのだと思うかもしれません。なぜなら、彼らはイエス様が行ったような奇跡を行い、福音をイスラエルだけでなく全世界に広めたからです。

しかし、イエス様は「わたしを信じる者」と言われました。

弟子たちだけではなく、イエス様を信じるすべての人々のことを指していたのです。新約聖書の時代に生きていた人々だけではなく、イエス様を信じる者がさらに大きなわざを行うと約束されました。

では、なぜイエス様はそのようなことを言われたのでしょうか。それは、イエス様が天の父のもとへ帰り、私たちに聖霊を送られたからです。その聖霊が私たちの心の内に住んでおられるため、聖霊の力を通して私たちはこの世を変えることができるのです。

では、私たちはイエス様のように病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせることができるのでしょうか。

時々、私はこう考えます。「私たちは不信のゆえに、どれほど神様の働きを制限しているのだろうか。」

私は発展途上国のクリスチャンたちの素晴らしい証を聞いたことがあります。彼らは「現実」を気にせず、イエス様の言葉をそのまま受け入れ、信じました。その結果、神様は驚くべき奇跡を行われました。

正直に言うと、私はしばしば懐疑的な態度を持っています。日本で癒しの話を聞くこともありますが、「本当にその人は癒されたのだろうか。その健康状態はどれくらい続くのだろうか」と思うことがあります。

それでも、私は神様が今もなお働いておられると信じています。この瞬間も、神様は確かに働いておられます。

だからこそ、私たちはイエス様の言葉をもっと信じるべきだと思います。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。(13-14)

もちろん、私たちがスポーツカーを求めて祈ったとしても、イエス様が必ずその祈りに答えるわけではありません。

しかし、私たちが自分自身の栄光を求めるのではなく、神様の栄光を求め、自分の願いではなく神様のみこころを求めるなら、多くの場合、神様は私たちの祈りに応えてくださいます。

さらに、神様は、私たちが願うこと、思うことのすべてをはるかに超えて行ってくださいます。(エペソ3:20)

神様は、私たちを通してこの世に触れたいと望んでおられます。では、神様が私たちを用いてくださると、あなたは信じていますか。

あなたは、自分の不信や懐疑を捨てて、「あなたの御心が行われますように。私を用いてください。」と神様に祈るでしょうか。

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詩篇 歴代誌第一

ご自身の約束を覚えておられる神

詩篇105篇のテーマは、神様がご自身の約束を覚えておられる方であるということです。

特に、詩人はアブラハム、イサク、ヤコブに対する神様の約束について語ります。

神様は彼らにカナンの地を与え、その子孫から大きな国が起こると約束されました。そして、彼らとその子孫がどのような試練に直面しても、神様はその上に御手を置いて守ってくださいました。

だから、アブラハムとイサクとヤコブが寄留の他国人としてカナンにいたとき、神様は彼らを守ってくださいました。(詩篇105:12-15)

ヨセフが奴隷としてエジプトに住んでいたとき、神様は彼に対する約束を守って、彼を支配者にされました。(17-22)

そして、エジプト人がイスラエル人を迫害したとき、神様はパロとその民を裁かれました。(23-38)

イスラエル人が水と食べ物を必要としたとき、神様は彼らのニーズに備えられました。(40-41)

そして、最終的に神様がアブラハムとイサクとヤコブに対する約束を守られたので、ダビデはこの歌を書いて神様をほめたたえました。

だから、覚えておきましょう。神様はいつもご自身の約束を守られます。何が起こっても、どんな試練に直面しても、神様が忠実な方なので、私たちは神様に信頼できます。

だから、パウロはこう書きました。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。。。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

私たちは、この望みによって救われているのです。

目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:18,23-25)

ある日、神様がイスラエル人に安息を与えてくださったように、私たちにも安息を与えてくださいます。その日まで、ダビデは私たちに言います。

1.主が何をしてくださったか思い出して、感謝せよ。(1、5)

時々、私たちは自分の問題に巻き込まれて、主からの祝福を感謝することを忘れます。

そのとき、私たちの問題に圧倒されます。しかし、神様からの祝福を思い出し、感謝するとき、希望と喜びは戻ります。

2.主に歌え。私たちの問題に圧倒されるとき、主の聖なる名を誇りとせよ。喜ばせよ。(2-3)

そうすれば、私たちはどれくらい神様が大きいか、またどれくらい私たちの問題が小さいか分かるようになります。そして、私たちの問題に焦点を当てずに、私たちの助け主に照準を合わせます。

3.主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(4)

あなたの人生が辛すぎるとき、また希望がないとき、主を慕い求めてください。その力を尋ね求めてください。そうすれば、神様はあなたを助けてくださいます。

パウロはこう書きました。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ書8:26-28)

神様は私たちへの約束を覚えてくださり、守ってくださいます。だから、主を思い出し、慕い求め、賛美しましょう。

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エゼキエル書

あなたの約束を破る?

関係を保つためには、相手を信頼することが非常に大切です。そのため、神様は正直さを重んじておられます。

私たちが神様に祈るとき、神様は正直な態度を望まれます。また、神様は私たちが周りの人々に対して正直に話すことを求められます。

この箇所では、ゼデキヤ王とイスラエルの人々について語られる中で、神様がどれほど正直さを大切にしておられるかが示されています。

ここで、エゼキエルは一つのたとえ話を伝えます。このたとえ話では、大鷲が杉の木のこずえを取り、商人の町に植えました。その後、大鷲は地の種を取り、別の場所に植え、その種がぶどうの木に育ちました。

このたとえの意味は、バビロン(大鷲)がユダの王(エホヤキン)やその他の指導者たち(杉の木のこずえ)をバビロンに追放するということです。

その後、ネブカデネザルはエホヤキンの後任であるゼデキヤ(ぶどうの木)と同盟を結びました。その同盟において、ゼデキヤはネブカデネザルに仕えることを約束しました。

しかし、たとえ話の中で、もう一羽の大鷲が現れます。植えられたぶどうの木はその新しい大鷲から潤いを求めました。

この二番目の大鷲はエジプトを象徴しています。つまり、このたとえ話は、ゼデキヤがバビロンとの約束を破り、バビロンと戦うためにエジプトと同盟を結ぼうとしていたことを意味しています。

このため、神様はゼデキヤについて次のように言われました。

彼は誓いをさげすみ、契約を破った。彼は、誓っていながら、しかも、これらすべての事をしたから、決して罰を免れない。

それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう。(エゼキエル書17:18-19)

ゼデキヤは神様の名前によってネブカデネザルに仕えることを誓いましたが、神様の警告を無視して、その同盟を破り、エジプトに助けを求めました。

それだけでなく、ゼデキヤは神様とイスラエルとの契約をも破りました。つまり、彼は他の神々を礼拝し続けたのです。そのため、神様は「バビロンを通して裁きが来る」と告げられました。

あなた自身はどうでしょうか。約束をしたとき、その約束を確実に守りますか。それとも、すぐにその約束を破ってしまうでしょうか。正直さを大切にしていますか。

神様にとって正直さは非常に重要です。ですから、神様に対しても、周りの人々に対しても、正直に話すことを心がけましょう。

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エゼキエル書

神様が言われた通り

この箇所では、私たちは神様の忠実さをはっきりと見ることができます。つまり、もし神様が何かを語られるなら、私たちはその言葉を信じることができるのです。

この箇所では、神様はエルサレムの追放について話されています。具体的には、神様はユダの最後の王ゼデキヤの追放について語られました。

そのため、神様はエゼキエルにユダ人の前で小さな劇を演じるよう命じられました。

エゼキエルはゼデキヤの役を演じました。夕方、彼は家の壁に穴を開け、捕囚のための荷物を持ってその穴から出て行きました。そして歩きながら顔を覆いました。

その劇が意味することとは何でしょうか。

ゼデキヤは暗闇の中、エルサレムから逃げざるを得ませんでした。しかし、彼は捕らえられ、目を潰されてバビロンの王ネブカデネザルの前に連れて行かれることになる、ということです。

さらに、イスラエル人は諸国に散らされました。神様が語られた通りに、すべてそのように起こったのです。

どうして神様はエゼキエルとイスラエル人にそのメッセージを伝えられたのでしょうか。

それは、その預言が成就したときに、彼らが神様だけが主であることを知るためです。

イスラエル人にとって、その真理を受け入れることは簡単ではありませんでした。そして、神様が長い間忍耐を示されたため、彼らは次第に神様の裁きの警告を信じなくなっていました。

彼らはこう言いました。

日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。(エゼキエル書12:22)

エゼキエルの時代には、それはよく知られたことわざでした。イスラエル人は、エゼキエルやエレミヤの幻を嘘や妄想だと思っていました。

しかし、神様はイスラエル人にこう言われました。

それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。

かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する』と彼らに告げよ。

もう、むなしい幻も、へつらいの占いもことごとく、イスラエルの家からなくなるからだ。

それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して延ばさないからだ。

反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する。――神である主の御告げ――」(23ー25)

神様の言葉は、いつでも私たちが信頼することのできるものです。

神様からの預言だけでなく、神様の約束も信じることができます。神様が何かを約束されたなら、その約束は必ず守られます。

では、神様はどのような約束を私たちに与えてくださったのでしょうか。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(へブル13:5)

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1;9)

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)

それだけではなく、聖書には神様からの約束が数多く記されています。

ですから、私たちはその約束にすがり、信じ続けましょう。神様の言葉はいつでも私たちが頼ることのできるものだからです。