この箇所で、パウロはアレゴリーを用いて、非常に重要なポイントを教えています。それは、律法への従順ではなく、神様の約束によって私たちが神様の子供となるということです。
この真理を説明するために、パウロはハガルとサラの物語に言及します。(この話は創世記16~21章に記されています。)
神様はアブラハムに息子を与えると約束されました。けれども、何年経っても子供が生まれなかったため、アブラハムとサラはその約束に疑念を抱くようになりました。そこで、サラはアブラハムに対し、自分の奴隷ハガルと寝て、その息子を相続人とするように勧めました。
現代の視点では衝撃的な提案ですが、当時の社会ではそれが一般的な習慣でした。
こうして、アブラハムはハガルと関係を持ち、イシュマエルが生まれました。しかし、イシュマエルは神様の約束と力によって生まれたのではなく、人間的な努力の結果として生まれたのです。
そのあと、サラも赤ちゃんを産みました。それがイサクでした。その時、サラはすでに90歳になっていたため、その出産はまさに奇跡でした。それは神様の御業でした。そして、神様はアブラハムに言われました。「イサクを通して、私はあなたを大いなる国民とします。」
そして、パウロは、ハガルとイシュマエルを、律法によって義と認められようとする人々の例として挙げました。彼らは、神様の約束と御業によって神様の祝福を受けようとは思いません。むしろ、自分の努力によって神様の祝福を得ようとします。
ところが、その考え方には大きな問題があります。奴隷の子供も奴隷です。
つまり、ハガルの子供、すなわち自分の努力によって義と認められようとする人は、結局、罪と死の律法の奴隷になってしまうのです。律法は人々を救うことはできません。律法ができるのは、ただ人の罪を指摘することだけです。(ガラテヤ人への手紙4:24~25)
その反面、恵みによって義と認められる人はイサクのようです。彼らは、神様の約束と御業によって、神様の子供と相続人になります。
そういうわけで、私たちは、もはや罪と死の奴隷ではありません。私たちは自由にされて、いと高きの神の子供になりました。(4:26-28)
それでも、人間の努力によって生まれたイシュマエルが、神様の約束によって生まれたイサクを迫害したように、一部のユダヤ人のクリスチャンたちはガラテヤ人のクリスチャンたちを迫害しました。
彼らはガラテヤ人たちを律法の奴隷としようとし、「そうしないと、あなたは本当のクリスチャンではない」と主張しました。(4:29)
そのため、パウロは厳しく語ります。
しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」(ガラテヤ人への手紙4:30)
つまり、「その偽教師たちを追い出しなさい。彼らは奴隷の子供であり、決して遺産を受け継ぐことはありません。彼らはあなたたちと何の関係もありません。彼らはあなたたちを退けようとしますが、実際には彼ら自身が退けられているのです。」ということです。
そして、パウロは改めて強調します。
こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。(4:31)
そして、パウロは彼らを戒めます。
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(ガラテヤ人への手紙5:1)
その真理を忘れないようにしましょう。イエス様は私たちを律法から解放してくださいました。その目的は、再び私たちを律法の束縛のもとに置くことではありません。むしろ、イエス様の目的は、私たちが永遠に律法から自由にされることです。
だから、神様の子供として、私たちは神様の愛に値するかどうかを心配する必要はなく、神様が私たちを受け入れてくださっているという確信を持つことができます。
あなたはどうでしょうか。神様の子供として、平和と喜びをもって生きているでしょうか。それとも、宗教のルールの重荷を担いながら、奴隷のように生きているでしょうか。
