「なぜ教会に献金を捧げるべきなのでしょうか。十一献金は新約聖書の教えではありません。」
多くのクリスチャンがそのように言います。確かに、十一献金は新約聖書の教えではないかもしれません。しかし、牧師たちを経済的に支えることは、新約聖書に明確に記されています。
パウロはこう書きました。
はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。(コリント人への手紙第一9:7)
簡単に言えば、そのような人はいません。そして、最後の二つの例の要点は明確です。何かの手入れをするなら、その労働の結果として益を受けるのは当然です。
ぶどう園を造り、手入れをするなら、その実を食べる権利があるべきです。
羊を飼うなら、その乳を飲む権利があるべきです。
同様に、牧師が人々の世話をするなら、その人々から支えを受けるのは自然なことです。
そこで、パウロはモーセの律法に言及します。神様は、脱穀をしている牛が地面に落ちた穀物を食べる権利を持っていると定めました。
パウロはこの律法を参考にしてこう述べています。「神様は牛よりも人を愛しています。だから、畑で働く人もその働きの報いを受けるべきです。」
そして、パウロはこの原則をキリストのしもべたちにも適用します。
私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのながら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。
ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。(11-12a)
そして、パウロは宮に奉仕する者が宮から下がる物を食べ、祭壇でいけにえを捧げる祭司たちが、その肉を受け取ることを指摘します。
パウロはこの教えを次のようにまとめます。
同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。(14)
パウロは自らの理由でその権利を手放しました。けれども、私たちが牧師たちにパウロのような生活を強制するべきだというわけではありません。
牧師たちが教会の外で働くことは、本来望ましくありません。
なぜでしょうか。それは、彼らが外の仕事に時間を割くことで、神様が託された教会の人々を十分に世話することが難しくなるからです。
彼らのメッセージを準備する時間が減り、人々を訪問する時間も限られます。また、相談に乗る時間が少なくなり、教会のために祈る時間も減ってしまいます。
教会の経済的事情のために、私の牧師は長い間そのような生活を余儀なくされました。それは避けられなかったのかもしれません。だから、私の牧師は懸命に働きました。心から感謝しています。
それでも、それは決して理想的な状況ではありません。もし牧師たちが外で働かざるを得ないなら、彼らが私たちのために十分な時間を確保できなくても、私たちは不満を言うことはできないでしょう。
イエス様は、私たちが牧師たちを経済的に支えるよう命じられました。あなたは、それを実践しているでしょうか。