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マタイの福音書のデボーション

賜物を受ける心、大変さを恐れる心

イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。

ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。

そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」。。。

弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」(マタイの福音書19:4ー6,10)

我々クリスチャンたちの考え方は、ときどき驚くべきものです。

神様は、私たちに良い賜物を与えたいと願っておられます。でも、私たちは「しなければならない」ということに拘ってしまいます。

神様は、結婚を私たちに賜物と祝福として与えてくださいます。けれども、弟子たちはその賜物を喜ばず、「えっ?妻とずっといなければならないのか」と考えてしまいました。

そのあと、イエス様は青年に、ご自分の弟子になる機会を与えてくださいました。真のいのちを知る機会を与えてくださいました。

しかし、その青年は、「えっ?私のものをすべて貧しい者に与えなくてはならないのか」と思っただけでした。(マタイの福音書19:21ー22)

どうして私たちは、すぐにそのようなことを考えてしまうのでしょうか。

神様は、私たちにこう語っておられます。「私があなたにどれだけ喜びを与えたいのか、知らないの?その賜物がどれほど良いものか、分からないの?」

天のお父さん、あなたは良い神です。私の堅くて愚かな心を赦してください。

「しなければならない」という考え方を捨てるように、私を助けてください。あなたが私に与えてくださる良い賜物を、喜んで抱く心を持ちたいです。

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ペテロの手紙第一

神様のしもべとして生きる(3)

この手紙の冒頭から、私たちが学んだことは、クリスチャンたちは御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように天の父に選ばれた者である、ということです。

簡単に言えば、私たちは自分自身のためではなく、イエス様のために生きるように選ばれたのです。

今日の箇所では、ペテロは、その真理をどのように私たちの結婚生活に当てはめるかについて話します。

そしてペテロは、まず妻たちにこう言います。

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。

たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。(ペテロの手紙第一3:1-2)

現代では、この教えはあまり受け入れられないメッセージかもしれません。ある人々は、それが当時の時代と文化に限定された教えであると主張します。

確かにその時代、夫や主人たちは今よりも家庭内で大きな権威を持っていました。けれども、パウロもコロサイ人たちへの手紙やエペソ人たちへの手紙で、ペテロと同じことを教えています。

では、特に自分の夫がノンクリスチャンである場合、どうしてクリスチャンの妻たちは彼に従うべきなのでしょうか。その最初の理由は、彼女たちが主のしもべであるからです。そして、イエス様が使徒たちを通してそう命じられたからです。

さらに、そうすることによって、妻たちは自分の夫に対して光となるのです。夫は、自分勝手に暮らしている妻ではなく、主のために生きている妻の姿を見ることになります。

その妻の美しさは、ジュエリーや服装、髪型に基づくものではありません。むしろ、その美しさは新しくされた心から来るものです。その心は、彼女を救ってくださった主を映し出しています。

夫がそれを見ると、妻に対してさらに魅力を感じるかもしれませんし、主にも心を惹かれるかもしれません。神様のしもべとして、そして使節として、それこそが私たちの役割なのです。

時として、妻たちには恐れがあります。それは、自分の夫に従うことで、彼に操られるのではないかという恐れです。残念ながら、そのようなことが現実に起こる場合もあります。

しかし、ペテロは妻たちにサラの模範に従うよう促しています。つまり、恐れに屈することなく、自分の夫に従い、善を行うことです。(6)

そうすれば、神様はあなたを賞賛してくださいます。

ただし、前回の記事でお伝えしたように、あなたが虐待を許容すべきだという意味ではありません。虐待されている場合は、逃げるべきです。そして、自分を守らなくてはいけません。それでもなお、イエス様が示された態度を取るべきです。

(イエス様は)ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(第一ペテロ2:23)

その反面、クリスチャンの夫たちもまたイエス様のしもべであることを忘れてはなりません。そして、自分の妻が自分のしもべではないことも覚えていなくてはならないのです。

あなたの妻はキリストのしもべであり、キリストにあってあなたの姉妹です。また、彼女はあなたと共にいのちの恵みを受け継ぐ者です。だからこそ、ペテロはこう言います。

同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。(7)

あなたは、自分の妻が自分よりも体力的に弱いかもしれないし、繊細な人かもしれないと思うでしょう。けれども、あなたには妻をいじめる権利はありません。イエス様が彼女を敬われるように、あなたも妻を敬わなくてはならないのです。

彼女は、あなたと共にいのちの恵みを受け継ぐ者です。それを忘れるなら、神様はあなたの責任を問われます。

ペテロによれば、もしあなたが妻を優しく扱わないなら、神様はあなたの祈りを聞いてはくださらないのです。

だから覚えておきましょう。あなたとあなたの配偶者は共にキリストのしもべです。それを心に留め、互いに敬い合い、そして愛し合わなくてはなりません。

あなたはどのように、自分の配偶者を扱うのでしょうか。

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ヘブル人への手紙

結婚を重んじていますか

日本、アメリカ、そして他の国々の道徳的状況を見ると、結婚の概念がどれほど悪化しているかが分かります。

もちろん、アメリカやヨーロッパには同性婚がありますが、異性愛の結婚においてさえ、私たちは結婚の概念がいかに損なわれているかを目の当たりにします。人々が神様の本来の計画からどれほど遠く離れてしまっているかに驚かされます。

神様のご計画では、夫婦は肉体的に、精神的に、霊的に一つとなります。そして、その結婚は生涯にわたって続くものです。そこでは、不倫など想像すらできないことなのです。

しかし現実には、私たちはどんな結婚を目にしているでしょうか。冷えきった関係、虐待的な結婚、不倫、自己中心的な態度、分裂、そして最終的には離婚です。

なぜこのようなことが起きるのでしょうか。それは、私たちが結婚を重んじなくなったからです。そして、結婚の寝床をも重んじません。だからこそ、結婚はここまで荒廃したのです。

だから、この手紙の著者は私たちに訓戒を与えているのです。

結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。(へブル人への手紙13:4)

少し立ち止まって考えてみてください。もし私たちが結婚を重んじず、結婚の寝床が汚されることのないように気を配らなければ、神様はその行為を見過ごされません。むしろ、神様は私たちを裁かれます。

あなたが不倫をするなら、神様はあなたを裁かれます。

結婚を軽んじて、結婚しないまま彼や彼女と関係を持つなら、神様はあなたを裁かれます。

なぜでしょうか。それは、神様のご計画が「ただ一人の伴侶と結婚し、その人と一つになること」だからです。

結婚せずに関係を持つなら、また不倫をするなら、あなたは結婚の寝床を汚してしまうことになります。結婚の寝床は、夫婦が永遠に結ばれるという神聖な象徴なのです。

しかし、それだけではありません。もし夫や妻に冷たい態度を取り続けるなら、あなたは結婚の寝床を軽んじています。

精神的にも肉体的にも相手と距離を置き、自己中心的にふるまい、相手の必要に心を向けず、虐待するならば、あなたは結婚の寝床を軽んじているのです。

あなたは自分の結婚を重んじているでしょうか。あなたの妻や夫と一つとなるよう努めているでしょうか。

あなたは周囲の人々の結婚を重んじているでしょうか。不倫を避けているでしょうか。それ以上に、周りの夫婦の関係を強めるよう努めているでしょうか。

もしあなたが独身であるなら、結婚のために性的な清さを保っているでしょうか。

そうしないなら、神様はあなたを裁かれます。神様はそのようなことを軽んじられません。

あなたは結婚について、どのような態度を持っているでしょうか。

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エペソ人への手紙

一致する結婚(2)

この箇所で興味深いのは、パウロによれば、結婚が私たちとキリストとの関係を描くものであるという点です。 パウロはこう語りました。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。

いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。私たちはキリストのからだの部分だからです。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ人への手紙5:25-32)

イエス様は教会のために何をしてくださったのでしょうか。 イエス様は天を離れ、この世に来られました。 そして、十字架の上でご自身のいのちを捧げられました。

今もなお、イエス様は私たちの世話をしてくださり、 私たちの物理的な必要や霊的な必要に応え、 神様の愛をもって私たちを養い、育ててくださっています。

なぜイエス様はこのようにしてくださるのでしょうか。 それは、イエス様がご自身を愛するように、私たちを愛しておられるからです。 実際、イエス様は私たちを、ご自身のからだの一部として見なしておられます。

夫も同じようにするべきです。 彼は親を離れ、自分の妻と一つになります。 妻のために自分のいのちを捧げ、妻の世話をし、 妻の物理的な必要や霊的な必要に応え、 愛によって妻を養い、育てるべきです。

なぜ夫はそのようにすべきなのでしょうか。 それは、彼が自分自身を愛するように、妻を愛するべきだからです。 実際、神様の目には、妻は夫のからだの一部と見なされているのです。

いろいろな意味で、夫は妻にとってイエス様の姿を映す存在であるべきです。 同じように、妻はイエス様を敬い、その導きに従うのと同じように、 自分の夫を敬い、夫の導きに従うべきです。

では、夫たち。あなたは、どれほどイエス様を妻に反映しているでしょうか。 あなたは、妻をあなた自身の一部として扱っているでしょうか。

もしかすると、妻をそこまで敬っていないかもしれません。 しかし、キリストは教会をそのように深く愛しておられます。 だからこそ、私たちもそのように愛すべきなのです。

妻たち。あなたはどれほどイエス様に従っているでしょうか。 もしイエス様に従うことが難しいと感じるなら、 自分の夫に従うことは、なおさら難しいかもしれません。

このようにして、パウロはこの教えを次のようにまとめています

それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。(33)

あなたの結婚はどうでしょうか。 あなたの結婚は、イエス様と教会との関係を映し出しているでしょうか。

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エペソ人への手紙

一致する結婚

今日の箇所でパウロは結婚について語っていますが、実のところ、彼は以前に語った真理を別の形で応用しているのです。

では、パウロは以前に何を語ったのでしょうか。 それは、イエス様にあって、教会の人々が一つとされたということです。 私たちの間に立っていた「隔ての壁」は、打ち壊されたのです。

しかし、多くの結婚関係において、夫婦の間にはいまだに敵意が存在し、 彼らの間には隔ての壁が残ったままです。

(もちろん、私はエペソ2:14で語られているようなモーセの律法そのものではなく、 異なる壁について話しています。)

私たちはその壁の起源を、創世記3章に見ることができます。 アダムとエバが罪を犯した後、神様はエバに次のように言われました

また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。(創世記3:16)

その言葉は、ヘブル語でも日本語でも、カインに対する神様の言葉に似ています。

罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。(創世記4:7)

神様の言葉を言い換えるなら、こう言えるでしょう。 「罪はあなたを支配したいと願っている。それでも、あなたはそれを支配しなければならない。」

同じように、アダムとエバの時代から、 多くの妻たちは神様のご計画に逆らって、夫を支配しようとしてきました。 けれども、夫の肉体的な力によって、多くの妻たちは束縛されてしまいます。 彼女たちは、愛によってではなく、恐れによって夫に従うようになってしまうのです。

残念なことですが、妻を支配するために、自分の妻を虐待する夫たちも存在します。 そしてそのような関係の中で、妻たちは虐待から逃れようとします。

その結果として、結婚は壊れてしまいます。 夫婦は本来、キリストにあって一つとされるべき存在ですが、 敵意によって、夫婦の間に隔ての壁が築かれてしまうのです。

では、その解決とは何でしょうか。

パウロはこう語りました

妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。(エペソ人への手紙5:22-24)

エペソ1:22では、私たちは、神様が教会の益のためにキリストを教会のかしらとして任命されたことを学びました。 だからこそ、私たちはイエス様に従うことによって、祝福を受けるのです。

同じように、神様は妻たちの益のために、夫を妻のかしらとして任命されました。 ですから、教会がキリストに従うように、妻もまた夫に従うべきなのです。

言い換えれば、妻はイエス様に従うのと同じように、自分の夫にも従うべきです。 そうすることで、妻は祝福を受けるのです。

しかし、祝福を受けていない妻たちもいます。 そのため、彼女たちは自分のかしらと戦おうとします。 なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか。

それは、多くの夫たちが非常に大切なことを忘れてしまっているからです。 神様は、夫たち自身の益のために、彼らを妻のかしらとして任命されたのではありません。 むしろ、妻の益のために、夫をかしらとして任命されたのです。

私たち夫は、自分の妻を祝福する者であるべきなのです。

パウロは、エペソ5:25〜26で、そのことをはっきりと教えています。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり。。。(25-26)

その言葉には、深い皮肉が込められています。 イエス様が教会を祝福されたことによって、教会はキリストにとっての祝福となりました。 こうして、イエス様と教会は一つとされたのです。

同じように、夫たちが自分の妻を祝福すればするほど、 妻もまた夫にとっての祝福となり、 その夫婦は神様のご計画どおりに一つとなるのです。

このことについては、次の記事でさらに詳しく取り上げていきます。

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コリント人への手紙第二

不信者との不釣り合いなくびき(3)

次の箇所に進む前に、この箇所に関して多くの人々が教えている応用について触れておきたいと思います。それは、ノン・クリスチャンとの交際や結婚についてです。

ノン・クリスチャンとデートしてはいけないと教える人もいます。

私はそこまで言い切りませんが、多くの場合、ノン・クリスチャンと交際することは良い選択ではなく、罪へと導かれる可能性が高いのです。

クリスチャンがノン・クリスチャンと交際し、良い結果を得たケースもあります。しかし、大多数の場合、その結果は望ましくないものでした。

ノン・クリスチャンと交際するとき、最も大切な問いかけは、「誰が誰に影響を与えているのか」ということです。

あなたの影響によって、その人は神様に近づいているでしょうか。あるいは、相手の影響によって、あなたは徐々にイエス様から離れてしまっているでしょうか。

あなたの影響によって、相手は神様をもっと知りたいと願っているでしょうか。もしかすると、相手の影響によって、あなたは自分の純潔を失ってしまっているのではないでしょうか。

相手とデートするために、礼拝を欠席することがあるでしょうか。

相手と過ごす時間が多すぎて、ほとんど聖書を読まず、祈ることも少なくなっているでしょうか。

あなたは相手との肉体的な誘惑に負けてしまっているでしょうか。

もし「はい」と答えるなら、その人との関係を断つことが最善かもしれません。

それは厳しい勧告でしょう。しかし、なぜクリスチャンにとって、その忠告を受け入れることが難しいのでしょうか。

それは、その関係の問題が、単なる知識の問題ではなく、深い感情的な要素を含んでいるからです。

結婚についてですが、私たちは異性と肉体的に一つとなるように造られただけでなく、感情的にも深く結びつくように造られています。

相手と付き合うことで、その感情的な結びつきが始まります。

「その人が好き!その人も私を好き!」

恋人がいる人は皆、その幸せを知っています。そして、その関係が続くにつれて、その感情はますます強くなります。相手への強い感情を持ちながらも、自分の価値観と信仰を守ることはできるでしょうか。それは非常に難しいことです。

恋人からのプレッシャーに直面したとき、自分の価値観と信仰を貫くことができるクリスチャンは多くありません。

そして、たとえ信仰を強く持っていたとしても、相手との関係を断たなければならないとき、必ず失恋の痛みを経験することになるでしょう。

パウロは本来別の状況について語っていましたが、その言葉をノン・クリスチャンとの交際に適用して考えてみたいと思います。

「ノン・クリスチャンと交際する人々、また、ノン・クリスチャンと結婚する人々は、苦難を身に招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。」(第一コリント7:28)

相手がクリスチャンになる可能性はあるでしょうか。もちろん、その可能性はあります。

けれども、あなたのために命を捧げられたイエス様に対して不忠実になる危険性は非常に高いのです。残念なことですが、私はそうした事例を何度も見てきました。

クリスチャンの女性にとって、ノン・クリスチャンとの交際はさらに難しいものです。聖書によれば、結婚においては男性が導くべき存在とされています。そのため、交際中のカップルも、そのような関係性を育むことが望ましいでしょう。

しかし、クリスチャンの女性がノン・クリスチャンの男性の導きに従うこと、とりわけ霊的な導きに従うことは、不信者とつり合わないくびきをともにすることにつながります。

その一方で、もし女性が彼の導きに従わなければ、その関係が不自然に感じられるかもしれません。なぜなら、神様の御計画において、男性が導く役割を担うからです。

それでもなお、クリスチャンの女性はノン・クリスチャンとの交際において、相手の霊的な導きには決して従うべきではありません。

そして、クリスチャンがノン・クリスチャンと結婚することは、神様の命令に反する行為です。不信者とつり合わないくびきをともにすることになるからです。

そのため、ノン・クリスチャンとの交際を考える際には、慎重である必要があります。その関係が深まるにつれ、相手への感情が強くなり、罪に陥る危険性が高くなるからです。

あなたはどうでしょうか。あなたは不信者とつり合わないくびきをともにしているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

結婚を後回しにすべきか?

さまざまな理由から、日本でもアメリカでも、多くの人々が結婚を二十代後半から三十代になるまで後回しにしています。

ある意味、それは良いことかもしれません。私の友人の中には、19歳や20歳で結婚した人もいましたが、私の考えでは、それは少し若すぎるように思えます。

(とはいえ、その友人は今も結婚生活を続けているので、彼らにとっては早く結婚することが良い選択だったのでしょう。)

いずれにせよ、私たちは皆異なる状況にあります。ある人にとっては早い結婚が良い選択となる場合もあれば、別の人にとっては待つ方が適していることもあります。この箇所で、パウロはその点を教えています。

コリントの教会では、ある婚約者たちが、結婚すべきか、待つべきか、それとも結婚の予定を取りやめるべきかについて悩んでいたようです。

結婚すべきか、それとも後回しにすべきかを考える人に対して、パウロは三つの重要な視点を示しています。

第一の視点は、結婚に対するあなたの態度です。つまり、あなたには本当に結婚に対する強いコミットメントがあるでしょうか。もしかすると、すでに逃げ道を探しているのではないでしょうか。

あなたは、すでにこのように考えているかもしれません。「もし私たちの結婚がうまくいかないなら、離婚すればいい。」

しかし、もし結婚に逃げ道を求めているなら、結婚しない方がよいでしょう。なぜでしょうか。

イエス様は結婚が生涯続くものであると教えられました。

そして、パウロは次のように書いています。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。

もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。(コリント人への手紙第一7:10-11)

これは、マタイ19:3-12に記されたイエス様の教えをもとにしたパウロの応用です。イエス様の弟子たちでさえ、その教えを聞いたとき驚きました。彼らは、「それなら、結婚しない方がよいでしょう」と言いました。

もしあなたがこの弟子たちのような考えを持っているなら、結婚しない方がよいでしょう。あなたの態度が変わるまで、結婚を後回しにすべきです。そして、もしあなたの態度が変わらないなら、結婚しない方がよいでしょう。

さらに、もう一つ考慮すべきことがあります。それはあなたの状況です。コリントの人々は「差し迫っている危機」のゆえに、パウロが結婚を後回しにすべきだと勧めました。

ここで、パウロはその理由を説明しています。

(この大変な状況にいる)結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。(28)

コリントの人々がどのような危機に直面していたのかは明確ではありませんが、もしかすると迫害の影響を受けていたのかもしれません。

いずれにせよ、パウロの根本的な教えは、状況によっては結婚を後回しにした方がよい場合もあるということです。

たとえば、あなたの経済状況があまり良くないかもしれません。もし経済的に不安定であれば、結婚生活は困難を伴う可能性があります。実際、多くの結婚は経済的な問題によって破綻してしまいます。

もう一つの重要な要素は、あなたの感情的な負担や精神的な重荷です。もしかすると、過去に元恋人から虐待を受けた経験があるかもしれません。また、幼少期に父親からの虐待を経験したかもしれません。

こうした問題は、あなたの結婚生活に影響を与える可能性があります。そのため、感情的・精神的な問題を乗り越えるまで、結婚を後回しにする方が賢明かもしれません。

さらに、もう一つ考慮すべきことがあります。性的な誘惑を避けるためだけに結婚するのは、一見すると誤った選択に思えるかもしれません。もちろん、それが最良の結婚理由ではないことは明らかです。けれども、多くの人々がその誘惑と戦い続けています。

だから、パウロは次のように書いています。

結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。

しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。(8-9)

つまり、もしあなたの恋人への欲望があまりにも強く、自制できないと感じるなら、たとえ状況が理想的でなくても、結婚した方がよいでしょう。

けれども、まだ自制できるなら、厳しい状況が改善されるまで、結婚を後回しにする方が賢明です。

早すぎる結婚は、大きな困難を伴うことがあります。しかし、もし結婚に逃げ道を求めず、配偶者に対する真のコミットメントを持っているなら、神様の恵みによって、どんな問題でも乗り越えることができるでしょう。

だからこそ、結婚を決断する前に、最も大切な問いかけは次のようになります。

「逃げ道を探すことなく、結婚への確かなコミットメントを持って、私は自分自身を相手に捧げることができるだろうか。」

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コリント人への手紙第一

結婚と離婚

コリント人への手紙第一7章では、パウロはさまざまなテーマについて語っています。

前回の記事で私は結婚について触れたため、今回もこのテーマについて書き続けようと思います。

今日の箇所では、パウロはイエス様の結婚に関する教えを改めて強調しています。

そこで、パウロは次のように語りました。

すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。

もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。(コリント人への手紙第一7:10-11)

パウロは、イエス様がパリサイ人に語られた言葉を参考にしています。

イエス様は次のように語られました。

あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。

そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。(マタイ19:4-6)

また、

モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。

あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。(マタイ19:8-9)

私は以前の記事でイエス様の言葉について触れたので、この記事では詳しく取り上げません。

パウロの教えの核心は、結婚が末永く続くべきものであるということです。だからこそ、私たちはそのように結婚を捉えるべきなのです。

39節で、パウロは次のように語っています。

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。(39)

もちろん、夫も妻が生きている間は妻に結びつけられています。だから、私たちはできる限り、その結婚を守るよう努めなければなりません。

それでも、時には相手がどうしても離婚を望むことがあります。その場合、私たちはどうすべきでしょうか。

パウロは次のように語っています。

そのほかの人々に言います。これを言うのは主ではなく私です。

信者である夫に信者でない妻がいて、その妻が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。

また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。

そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。

しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。

そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。

妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。(12-16)

パウロの教えは分かりやすいと思うので、簡単に解説します。

まず、パウロが「これを言うのは主ではなく私です」と述べたとき、それは単なる個人的な意見であり、「気に入らなければ無視してもよい」という意味ではありません。

むしろ、彼の言葉の意図は、イエス様が信者ではない者が信者と離婚したい場合について直接語られたことがなかった、という事実を示しています。そのため、パウロはこう述べました。

「イエス様はこのケースについて具体的に語っていないので、イエス様に任命された使徒として、私は何をすべきか教えます。」

使徒として、パウロの言葉には権威があります。したがって、私たちはその教えに従わなければなりません。

だから、信者ではない者がどうしてもあなたとの離婚を望むなら、離婚しても構いません。神様はそれを許されています。

とはいえ、あなたの配偶者が信者ではない場合、必ず離婚しなければならないとは限りません。なぜなら、あなたを通して神様の御手があなたの家族の上にあるからです。神様はあなたを通して、配偶者や子供たちに触れることができるのです。

この箇所で「聖なるもの」とは「救われる」という意味ではありません。むしろ、神様はその家族を見て「これは私のものだ」と宣言し、ご自身の目的のためにその家族の中で働かれるのです。

最後に、シングルの人々に対するパウロの教えに注意してください。つまり、結婚を望むなら、クリスチャンはクリスチャンと結婚すべきです。

39節で、パウロは次のように語っています。

しかし、(女の人の)夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。(39)

もちろん、パウロは特に寡婦に語っていますが、その言葉はすべての独身の人にも当てはまります。主に属する人と結婚しなければなりません。

時に、クリスチャンはこう考えます。「その人と結婚すれば、後に救われるかもしれない。」

けれども、よく考えてみましょう。パウロが教えたのは、信者ではない者が離婚を望むなら、その人を自由にさせなさいということです。なぜでしょうか。

妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。(16)

では、その答えは何でしょうか。実際のところ、その人が将来救われるかどうかは分かりません。それについて、神様からの確約はありません。

多くのクリスチャンがノンクリスチャンと結婚し、その結果、大きな葛藤や悩みを抱えてしまいます。クリスチャン同士の結婚であっても、結婚生活は決して容易なものではありません。

それでも、夫婦の根本的な信仰が異なれば、その困難はさらに深まります。

だから、そもそもそのような関係を避けることが最善なのだと思います。

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マタイの福音書 マタイ19章

結婚しない方がましでしょうか

イエス様の教えに対する弟子たちの反応は、非常に興味深いものがあります。

もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。(マタイの福音書19:10)

要するに、「もし離婚できず、同じ人とずっと結婚していなくてはいけないのであれば、結婚しないほうが良い」ということです。「みじめな結婚よりも、独身の生活のほうがましです。」

もちろん、みじめな結婚よりも、独身の生活のほうがましですが、多くの人々はずっと独身でいる生活を望まないでしょう。だから、イエス様はこのように語られました。

そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。

母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。

また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。

それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。(11-12)

要するに、独身の生活で満足できる人は少ないということです。

ある人は「母の胎から独身者として生まれた」と言われています。例えば、生まれつきの身体的な不自由があるために、彼らにとって結婚生活を送るのは非常に困難な場合があります。

または、「人から独身者にさせられた」とする人もいます。おそらくイエス様は宦官について語られたのかもしれません。現代では宦官は存在しませんが、過去のトラウマが理由で結婚を望まない人もいます。

さらに、パウロのように、神の国のために独身生活を選ぶ人もいます。

イエス様は、「もしあなたが独身生活に満足できるなら、それでも良い」と語られました。

けれども、残念なのは、弟子たちや現代の多くの人々が、一生の結婚を「牢獄」のように感じていることです。英語圏では、「Ball and chain」というイメージが使われることがあります。

だから、彼らは結婚する気が進みません。しかし、そのような考え方のせいで、彼らは一生の結婚の喜びを逃してしまいます。神様が初めて結婚を造られたとき、夫婦のために幸せな生活を計画されました。

結婚は本来、素晴らしいものであるはずです。結婚が必ずしも「Ball and chain」であるわけではありません。

では、良い結婚の秘訣とは何でしょうか。

結婚の初めから、あなたと伴侶はお互いに腹を決めなくてはなりません。

まず、神様に対して柔らかい心を保つことを決意しなくてはなりません。

そして、伴侶に対して柔らかい心を保つことを決意しなくてはなりません。

神様に対して柔らかい心を保つなら、あなたたちが喧嘩するとき、神様はあなたたちの心に語り、平和をもたらしてくださいます。多くの場合、神様はあなたに(または伴侶に)「もうやめなさい。相手に譲りなさい。」と語られるでしょう。

さらに、神様はあなたたちに、どのように結婚を強めるかを教えてくださいます。また、どのように相手のニーズを満たすかを教えてくださいます。そして、どのようにもっと愛し合えるかを教えてくださいます。

もし伴侶に対して柔らかい心を保つなら、あなたは相手のことをもっと深く理解できるようになります。

相手の動機がわかり、相手をイライラさせる原因がわかり、相手を喜ばせる方法もわかるようになります。

もし、あなたが努力してこれらを学び、相手をイライラさせないようにするだけでなく、積極的に相手を喜ばせようとすれば、相手もあなたに対して同じようにしてくれるでしょう。

その結果、あなたたちはみじめな結婚ではなく、幸せな結婚を築き、本当に一体となることができます。

あなたは結婚をどのようにとらえるでしょうか。「Ball and chain」としてとらえるでしょうか。それとも、神様が意図された喜びで満ちたものとしてとらえるでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ19章 マルコの福音書 マルコ10章

神様と私たちの伴侶に対して、頑なな心を持つと

いろんな福音書を読んで同じ話を統合するのは非常に興味深いことです。私はマタイの福音書とマルコの福音書をしっかり統合しているかどうかわかりませんが、このように統合する試みは面白いと思います。

パリサイ人たち: 「何か理由があれば、妻を離婚することは律法にかなっているでしょうか。」

イエス様: 「知らないのですか。二人は結婚すると、もはや二人ではなく、一体になるのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」

パリサイ人たち: 「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」

イエス様: 「え?モーセはあなたがたに何と命じたでしょうか。『あなたの妻を離婚しなさい』と命じたのですか。」

パリサイ人たち: 「まあ、そういうわけではありませんが、モーセは私たちに妻を離別することを許しました。」

イエス様: 「その通りです。モーセは離婚を命じたのではなく、離婚を許したのです。どうして離婚を許したかわかりますか。それは、あなたがたの心が頑なだったからです。

しかし、神様がアダムとエバを造られたとき、結婚を設けられたとき、離婚は神様の元々の意図ではありませんでした。」

この話を統合するのは面白いかもしれませんが、イエス様はとても深刻な問題に取り組んでいます。

この箇所で、イエス様はなぜ多くの夫婦が離婚してしまうのかを説明されています。彼らは神様に対する頑なな心を持ち、伴侶に対する頑なな心も持っています。

では、人々はどのように神様に対する頑なな心を持つのでしょうか。

まず、彼らは結婚に関する神様の教えを拒んでいます。

結婚は一生のものです。私たちは自分の妻や夫に忠実でなければなりません。キリストが教会を愛するように、夫は妻を愛さなければなりません。教会がキリストに従うように、妻は夫に従わなければなりません。それらは神様の教えです。

それでも、多くの人々は、その教えに従うのは無理だと言い、様々な言い訳を作ります。

「私の妻が私に従わないのに、どうして愛するべきだろうか。」

「私の夫が私を愛してくれないのに、どうして私は彼に従わなければならないのでしょうか。」

「結婚生活がうまくいくかどうか、だれにもわかりません。もしかしたら、うまくいかないかもしれないので、離婚のオプションを残しておいた方がいいのかもしれません。」

また、彼らが喧嘩するとき、神様はこう語ります。「もうやめなさい。相手に譲りなさい。このことについて喧嘩するのは無駄です。」

ところが、彼らは誇りや怒りを捨てることを拒むので、神様の声に従いません。

では、どのように人々は伴侶に対する頑なな心を持つのでしょうか。彼らは互いに耳を傾けません。

妻が夫が働きすぎると言うと、夫は「だって、私たちはお金が必要だろう」と答えます。

夫が情交の欠如について不満を言うと、妻は「だって、私は疲れすぎている」と答えます。

妻が夫の言葉や行動がひどいと言うと、夫は「君は敏感すぎるよ」と答えます。

他にもさまざまな例を挙げることができます。

その結果はどうなるでしょうか?

離婚です。

多くの人々は、どうして自分の結婚が失敗したのか疑問に思います。2〜3回結婚する人もいますが、その再婚も離婚に至ることがほとんどです。なぜでしょうか。

それは、彼らが自分自身の心の問題に取り組まなかったからです。つまり、神様に対して、また伴侶に対して、柔らかい心を保つことを学ばなかったのです。

あなたは独身ですか。伴侶を求めていますか。その前に、自分の心をよく探ってください。

神様があなたの行為について訓戒されるとき、あなたはその言葉を聞き入れることができるでしょうか。結婚後、神様はきっと、伴侶をどのように扱うべきかをあなたに教えられるでしょう。

けれども、もし今、神様の言葉に対して頑なな心を持ち、その態度を結婚に持ち込むなら、あなたの結婚はきっと崩れてしまいます。

あなたは結婚していますか。伴侶に対してフラストレーションを感じていますか。まずは、伴侶に目を向けるのをやめ、自分自身の心を探りましょう。どのように伴侶に対して頑なな心を持っているのでしょうか。そして、何を変えるべきかを神様に尋ねましょう。

あなたは離婚していますか。別の伴侶を探していますか。

その前に、自分自身にこう訊きましょう。「私はどのように以前の伴侶に対して頑なな心を持っていたのだろうか。私はどのように神様に対して頑なな心を持っていたのだろうか。」

そう訊かないと、あなたは同じ失敗を繰り返してしまうかもしれません。

もう一つのことを考えてみてください。今でも、あなたは神様に対して、また元夫や元妻に対して、頑なな心を持っているでしょうか。

もしかすると、神様はあなたに、元夫や元妻との和解に向けて働きなさいと語っているのかもしれません。もし神様がそのように語っているなら、その言葉に従うことができるでしょうか。

次回は、相手があなたに対して頑なな心を持つ場合について話していきます。けれども、今日はまず自分自身の心を探りましょう。あなたの心のすべては神様のものでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ19章 マルコの福音書 マルコ10章

どうして離婚はそんなに痛いでしょうか

離婚は非常に難しいトピックです。なぜなら、離婚に伴う痛みは非常に深いからです。日本でも離婚率は徐々に上昇しています。そのため、私たちは結婚と離婚に関するイエス様の教えを真剣に考えるべきだと思います。

パリサイ人たちはイエス様のもとに来て、こう尋ねました。

何か理由があれば、妻を離婚することは律法にかなっているでしょうか。(マタイ19:3)

その時代においても、離婚は論争の的となる問題でした。どんな理由でも離婚が許されるべきだと考えるパリサイ人もいれば、性的な罪だけが離婚の正当な理由だと考えるパリサイ人もいました。

実際、多くのパリサイ人は離婚を経験していました。彼らの多くは、他の女性と結婚したいと思ったために妻と離婚することを選びました。もちろん彼らは姦淫を犯したくなかったものの、他の女性と関係を持ちたいがために妻を離婚したのです。

おそらく、山上の垂訓やこの箇所で、イエス様が特にこの問題について話されたのだと思います。

つまり、「あなたが結婚していない人と肉体的な関係を持たなかったとしても、もし他の女性と関係を持つために妻を離婚したならば、それは神様の目には姦淫である」ということを教えたのです。

いずれにせよ、イエス様はパリサイ人の質問にこう答えられました。

あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのである」と言われました。

ですから、彼らはもはや二人ではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。(マタイ19:4-6)

イエス様は律法の専門家たちの意見を全く無視し、聖書を示されました。そして、聖書を基に、イエス様は結婚の本来あるべき姿を説明されました。

結婚とは、男と女が一体となることです。彼らはもはや別々の存在ではありません。彼らは結び合い、一体となるのです。

時々、人々はこう疑問に思います。「なぜ神様はセックスを夫婦だけのものと命じるのでしょうか。」

その主な理由は、男性と女性が肉体的な関係を持つとき、彼らが結び合うからです。それは肉体的な結びつきに留まらず、精神的にも結びつき、さらには彼らの魂も結び合うのです。

ボンドを使って、うっかり指を二本貼り合わせた経験はありませんか。もし無理にその指を引き離そうとすれば、どうなるでしょうか。肌が傷ついてしまいますよね。

同じように、夫婦が離婚すると、完全に別れることはできません。肉体的および精神的な結びつきのために、彼らの魂は裂かれるのです。

また、結婚していない人々の場合でも、彼らが肉体的な関係を持った後に別れるなら、その魂の結びつきが原因で、彼らの魂は裂かれてしまいます。

結婚している人も、していない人も、カップルの関係が長く続けば続くほど、別れる際の痛みはひどくなります。なぜなら、彼らは性的に結びつき、また、良い経験も悪い経験も共有し合うことで、さらに深く結びつくからです。

では、なぜ離婚がそんなに苦しいのでしょうか。この箇所で、イエス様はその理由を教えておられます。

それは、離婚が私たちの魂の一部を裂くからです。本来は永遠に続くべきもの、すなわち体の一致、心の一致、魂の一致が裂かれてしまうのです。だからこそ、イエス様は命じられます。

「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」(マタイ19:6)

それでは、離婚の痛みは決して癒されないのでしょうか。神様は離婚した人を赦してくださらないのでしょうか。

そうではありません。

しかし、私たちは二つのことを理解する必要があります。

一つ目は、神様が結婚を永遠のものとしてデザインされたということです。

二つ目は、神様のデザインを拒むなら、その結果として痛みが生じるのは当然です。

では、なぜ人々は離婚を選ぶのでしょうか。次の記事でこのことについて詳しく話すつもりです。

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雅歌

まだ見とれている

この箇所を読むと、他のソロモンの言葉を思い出します。

あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。(箴言5:18-19)

この箇所では、ソロモンは自分の意見に従います。結婚して以来、時間が経ちましたが、ソロモンはまだ妻に見とれています。実は、以前よりも、彼は妻に見とれています。

妻に関して、以前言った比喩を使いますが、新しい比喩も使います。彼は彼女をティルツァとエルサレムという都市と比べます。

都市の美しさ全てを発見するために時間をかけて巡らなくてはならないように、妻(また、夫)の深さを発見するためには時間がかかります。それは一生のプロセスです。

ソロモンは妻に「あなたの目はまだ私をひきつける」と言います(雅歌6:5)。

私はその感じがよくわかります。私の妻の目にその愛を見る時、私も引きつけられます。

そして、ソロモンは彼女に「あなたは私の汚れのないものだ」と言います(9)。

時間が経つと、実は私たちは妻と夫が本当に完璧ではないと分かるようになります。しかし、愛の目は、その過ちを見逃します。それに、そのあなたの愛の目によって、相手の魂が今よりも美しくなります。

8節の言葉のため、ある学者は、ソロモンがすでに他の妻と側室がいると考えています。そうかもしれません。または、彼は仮定条件について考えているのかもしれません。

いずれにせよ、彼のポイントは、彼の人生にいる女性の中で、妻が一番大事だということです。

そして、ソロモンが仕事をしているとき、彼はすぐに妻のことを考え始め、なるべく早く家に帰りました。(11-12)

それは良い態度だと思います。もちろん仕事は大切ですし、その仕事を楽しむことができるなら、それは本当に良いことです。それでも、夫は仕事よりも妻を愛するべきです。夫が妻よりも仕事の方が好きなら、それは悪いことです。

もちろん、妻が仕事を夫よりも愛することも悪いことです。

あなたはどうですか。あなたはまだ、妻や夫に見とれていますか。それは理想だけではありません。そのような愛はただの夢ではありません。それは、もともとからあなたと伴侶のための神様の計画です。

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雅歌

結婚式

私の結婚式は2005年でした。今でも、その日をよく覚えています。

妻がどんなに美しく見えたかを覚えています。今でも、私の目には、彼女は美しいです。

3章では、ソロモンのリムジンが花嫁を迎えに行き、結婚式に連れて行きました。そして、ソロモンのシークレットサービスが彼女を守り、ソロモンのもとに連れて行きました。(もちろん冗談です。実際には、ソロモンは御輿と勇士たちを送ったのですが、大体同じ感じでしょう。)

花嫁が到着すると、彼女は素敵な結婚式の服を着たソロモンを見ます。

ソロモンも花嫁を見た時、見とれてしまいます。

ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。(雅歌4:1)

そして、彼は彼女について何が好きかを具体的に話します。つまり、彼女の目や歯、唇、頬、首、乳房について話します。彼がその言葉を言いながら、それぞれの部位を愛撫することを想像できます。

けれども、2章とは異なり、彼女は「明日、帰ってきてね」とは言わず、彼はこう言います。

そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。(4:6)

5節を読むと、その意味がよく分かると思います。とにかく、彼らは初めて一緒に寝る経験を楽しむ予定です。その後、ソロモンはこう言います。

わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。(4:7)

これらは本当にエロチックな言葉です。実は、このことについて書くのは少し恥ずかしいのです。けれども、結婚の中では、そのような言葉を言うのは良いことです。

夫婦は、結婚式の10~20年後に、どれほどそのような言葉を言い続けるでしょうか。もし、彼らがそのような言葉を言い続けたら、本当に良いのではないでしょうか。

彼は彼女が自分のレバノンの実家を去り、彼と永遠に生き続けるように誘います。彼はこう言います。

私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。私の妹、花嫁よ。

あなたの愛は、なんと麗しいことよ。あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。(4:9-10)

私たちの文化では、妻を妹と呼ぶのは少し奇妙です。しかし、その文化では、「あなたは私の家族に入っている」という意味です。

そして、「フランスのキス」がフランスから来たと思うなら、4章11節を読んでください。ソロモンもそのようなキスを知っていました。:)

けれども、ソロモンが一番感謝していたことは、彼女が彼のために純潔を守ったことです。

結婚する前、彼女は「閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉」でした。

多くの男性たちはソロモンのように彼女を知りたがっていましたが、彼女は結婚するまで純潔を守りました。

しかし、今、彼女は自分の庭を開きます。彼女は自分の全身、心と体を彼に捧げます。彼女はこう言います。

北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭に入り、その最上の実を食べることができるように。(4:16)

その時間の後、彼らが隣に寝ている間、ソロモンは嬉しくてこう言います。

私の妹、花嫁よ。私は、私の庭に入り、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む。(5:1a)

その時、誰かが話します。誰でしょうか。友達でしょうか。多分神様が話しておられるのでしょう。

友よ、食べよ。飲め。愛する人たちよ。大いに飲め。(5:1b)

それが結婚です。二人は愛し合いますが、結婚するまで純潔を守ります。そして、結婚してからは、ずっと互いに相手を楽しみ合います。神様はそのような結婚を祝福してくださいます。

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詩篇

イエス様と結婚する

詩篇45篇のタイトルは、「愛の歌」と書かれています。おそらく、この歌は王の結婚式で歌われました。

この歌は人間の王の結婚式のためのものでしたが、この歌から、王の王であるイエス様の結婚式も見ることができます。

私たちはキリストの花嫁と呼ばれます。この詩篇で、私たちの花婿であるイエス様を見ることができ、花嫁として私たちがイエス様にどう反応するべきかを知ることができます。

この詩篇の最初の部分は王について語ります。その言葉によって、イエス様のいろんな描写が見られます。例えば、イエス様は恵み深い方です。

あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。(詩篇45:2)

また、イエス様は勇士です。

雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。あなたの尊厳と威光を。

あなたの威光は、真理と柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め。あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。

あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。(3-5)

また、イエス様は私たちの王です。

神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。

あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。(6-7)

へブル人への手紙の著者は、イエス様について語る際に、詩篇45篇の6-7節を引用しました。(へブル1:8-9)

そして、詩人はキリストの花嫁である私たちに語りかけます。

娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。(10)

その言葉は創世記から来ます。神様は結婚についてこう言われました。

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記2:24)

創世記の箇所は特に男性について話していますが、この詩篇によれば、女性もそうするべきです。

そのため、私たちはイエス様と結ばれるとき、キリストとの結びを邪魔するものを捨てなければなりません。

私はクリスチャンホームで育ちましたが、ある人はクリスチャンになると、その親たちと喧嘩します。また、ある人は、友達から離れなければならない。なぜなら、その友達が、その人を神様から引き離そうとするからです。

もちろん、それは極端な状態です。理想を言えば、私たちにはそのような必要はないと言いたいところです。私たちの証しによって彼らがキリストを求めるようになれば、それも理想的です。

けれども時々、私たちは「すみません。私はあなたが行く道を行くことができません。私はイエス様に従うからです。」と言わなければなりません。

そして、詩篇の著者は花嫁にこう言いました。

そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。(11)

それはどんな美しさでしょうか。体の美しさでしょうか。違います。ペテロはクリスチャンの妻たちにこう言いました。

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。(第一ペテロ3:4)

私たち皆、そんな美しさが必要です。

また、イエス様が私たちの主なので、生涯イエス様を敬わなくてはなりません。

そして、詩人は歌います。

王の娘は奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織り合わされている。

彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、彼女に付き添うおとめらもあなたのもとに連れて来られよう。

喜びと楽しみをもって彼らは導かれ、王の宮殿に入って行く。(13-15)

どうして、花嫁には栄華があるでしょうか。それは、その王が彼女を選び、きれいな着物を着せ、美しくしたからです。

イエス様は私たちのために同じことをしてくださいました。イエス様は、

教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。

みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25-27)

私たちがそのような花嫁になるように。

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マラキ書

妻を裏切る

多くの人々にとって、離婚は本当に辛いトピックです。

アメリカでは、離婚率は約50%と言われています。クリスチャンの結婚でも、離婚率はほぼ同じくらいです。

一方、日本では離婚率は比較的低いものの、徐々に上昇傾向にあります。

この箇所では、神様は二つの重要なことについて語られます。まず最初に、神様はこう言われました。

私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り合い、私たちの先祖の契約を汚すのか。

ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では忌まわしいことが行なわれている。まことにユダは、主の愛された主の聖所を汚し、外国の神の娘をめとった。(マラキ書2:10-11)

エズラ記とネヘミヤ記によると、祭司たちと他の指導者たちまでもが外国人と結婚し始めました。

では、なぜそれが大きな問題だったのでしょうか。それは、その外国人が再びイスラエル人を偶像礼拝へと導いていたからです。

偶像礼拝の結果、以前イスラエル人はバビロンに追放されるという辛い歴史を経験しました。

ネヘミヤはその状況を目の当たりにして、激しい怒りを覚えました。そして、イスラエル人を厳しく叱責しました。

イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。

彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。(ネヘミヤ記13:26)

ネヘミヤのポイントは何だったのでしょうか。

それは、神様に従わない人々の影響によって、たとえ強い信仰を持つ者であっても神様に不実になる可能性があるということでした。

だからこそ、クリスチャンがノンクリスチャンと結婚することは非常に危険なのです。そのため、神様はイスラエルの民に偶像礼拝をしている人々と結婚することを禁じられました。

しかし、その結婚に関してはさらに深刻な問題がありました。そのことについて、マラキはこう言いました。

あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と、悲鳴と、嘆きで主の祭壇をおおっている。主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らないからだ。

「なぜなのか」とあなたがたは言う。

それは主が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。(マラキ書2:13-14)

イスラエル人は、「どうして神様は私たちに反対するのだろうか。どうして神様は私たちの捧げ物を喜んで受け取らないのだろうか」と疑問に思いました。

神様はその理由をはっきりと説明されました。

それは、彼らが偶像礼拝をする人々と結婚しただけでなく、そのために、自分の妻を裏切り離婚してしまったからです。

しかし、妻との誓いを破る時、彼らは神様も裏切ることになったのです。なぜなら、彼らは神様の前でその誓いを立てたからです。そのため、神様は「私はあなたとあなたの妻との証人だ」と言われました。

また、神様はこう言われました。「私が結婚を作りました。あなたが結婚した時、私はあなたとあなたの妻を一体に造りました。だから、夫と妻は互いに属し合い、そして神様にも属します。」

ヘブル語での15節の意味は少し複雑です。英語の翻訳をいくつか比較すると、さまざまな解釈が見られます。

おそらく日本訳での理解は次のようになるでしょう。神様はアダムとエバを造られた時、結婚によって彼らを一体にされました。(創世記2:24)

その一体の中に神様の霊が宿っていました。そして、彼らが望んでいたのは、また神様が望んでいたのは、「神の子孫」でした。

アダムとエバの希望は、彼らの子孫を通して救い主が来ることでした。(創世記3:15)だから、彼らは神様に従う子供たちを望んでいました。

さらに、神様の計画によれば、親たちを通して子供たちは神様がどのような方であるかを知り、どうやって神様と強い関係を築くことができるかを学ぶのです。

しかし、離婚は子供にとても悪い影響を与えます。離婚は子供の結婚観や神様に対する考え方を歪めてしまいます。

神様はご自身を私たちの天の父として示されます。けれども、離婚の場合、多くの子供たちはそれを正しく理解することができません。なぜなら、彼らは自分の父親とほとんど会うことができないからです。

そのため、「神様は私たちの天の父だ」と聞いた時、悪いイメージを抱いてしまいます。彼らは「神様は約束を守らない。私が神様を必要とする時、神様は決してそこにいない」と感じるのです。

そして、神様は離婚についてご自身の感情を明確に語られます。

「わたしは、離婚を憎む」とイスラエルの神、主は仰せられる。(16)

新改訳聖書において、次の言葉はこのように訳されています

「わたしは、暴力でその[夫の?]着物をおおう」と万軍の主は仰せられる。(16b)

その翻訳は、少しわかりにくいかもしれません。けれども、おそらく、その意図するところは、神様がその夫を裁くことだということでしょう。

一方、口語訳は英語の翻訳により近いものとなっています。

(わたしは、)しえたげ(つまり、虐げ/暴力)をもってその衣をおおう人を憎むと、万軍の主は言われる。(16b)

どの翻訳においても、神様の要点は非常に明確であると言えます。神様は離婚を憎まれます。姦淫を憎まれます。妻への虐待を憎まれます。そして、妻を裏切ることをも憎まれます。

興味深い点として、神様は妻ではなく夫を責められることがあります。おそらく、その理由の一つは、その時代において夫だけが離婚を行う権利を持っていたからでしょう。

けれども、もう一つ別の理由として考えられるのは、神様が結婚を守る主な責任を夫に託しておられるということです。聖書を通じて、この原則を見いだすことができます。ペテロは次のように書きました。

同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。

それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。(第一ペテロ2:16)

マラキの時代、夫たちは妻を離婚したり、妻を虐待したりしていた可能性があります。そのため、神様は彼らを厳しく叱責されました。

あなた自身はいかがでしょうか。あなたは妻を裏切るような行為をしていませんか。また、あなたは夫を裏切るような行動を取っていませんか。

私たちの伴侶に忠実でいましょう。そして、私たちを結び合わせてくださる神様に誠実に歩み続けましょう。

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エステル記

妻を尊敬する

今日からエステル記を読みます。

実は、聖書を年代順に見た時、エステル記の出来事がエズラとネヘミヤの時代に起こったと知り、私は驚きました。

それまで、これらの出来事がエズラとネヘミヤの時代の後に起こったと思っていたのです。

でも、たぶんこのアハシュエロス王はエズラ4章のアハシュエロスです。

(聖書学者の間ではそれが議論になっています。エステル記のアハシュエロスがアルタクセルクセス1世だと思う学者もいれば、彼がアルタクセルクセス2世だと思う学者もいます。以前言ったように、私はアハシュエロスがクセルクセス1世だと思います。)

とにかく、この箇所では、エステルの話の背景について読みます。つまり、どうしてアハシュエロスに新しい女王が必要だったのか、ということです。

アハシュエロスはすべての首長と家臣たちのために宴会を催しました。なぜなら、彼はその人々を自分の富と力で感動させたかったからです。

そして彼は、その人々に女王の美しさを見せるために彼女を呼びました。しかし、女王は来ることを拒絶したため、彼は恥ずかしい思いをしました。

アハシュエロスが知恵のある者たちに相談した時、彼らはこう答えました。

王妃ワシュティは王ひとりにではなく、すべての首長とアハシュエロス王のすべての州の全住民にも悪いことをしました。

なぜなら、王妃の行ないが女たちみなに知れ渡り、『アハシュエロス王が王妃ワシュティに王の前に来るようにと命じたが、来なかった』と言って、女たちは自分の夫を軽く見るようになるでしょう。

きょうにでも、王妃のことを聞いたペルシヤとメディヤの首長の夫人たちは、王のすべての首長たちに、このことを言って、ひどい軽蔑と怒りが起こることでしょう。(エステル記1:16-18)

だから、彼らはこう助言しました。

もしも王によろしければ、ワシュティはアハシュエロス王の前に出てはならないという勅令をご自身で出し、ペルシヤとメディヤの法令の中に書き入れて、変更することのないようにし、王は王妃の位を彼女よりもすぐれた婦人に授けてください。

王が出される詔勅が、この大きな王国の隅々まで告げ知らされると、女たちは、身分の高い者から低い者に至るまでみな、自分の夫を尊敬するようになりましょう。(19-20)

アハシュエロスは賛成したので、「男子はみな、一家の主人となること…を命じた。」(22)

私たちは、この箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

多くの夫たちは妻たちを人間としてではなく、物として扱っています。それに、彼らは聖書から引用して、妻たちからの尊敬を要求します。

もちろん、神様は妻たちが夫たちを尊敬することを命じられています。しかし、夫はどうやって妻が自分たちを扱っているかを考えるよりも、どうやって自分たちが妻を扱っているかを考えるべきです。

神様が命じられているように、夫がイエス様のようなリーダーとなるなら(エペソ5:25-28)、妻が夫を尊敬することは当然のこととなるでしょう。

もし、あなたが妻を物としてではなく、貴い人として扱い、自分のニーズを彼女のために犠牲にし、キリストの愛で彼女を愛するなら、どう反応すると思いますか。

多くの結婚は負のスパイラルにはまってしまっています。

夫たちが妻たちを愛さないために、妻たちは夫たちを尊敬しません。そして、夫たちが尊敬されていないために、妻たちへの愛がさらに少なくなります。

その結果、妻たちの夫たちへの尊敬もますます少なくなります。このようにして状態がさらに悪化し、最終的には離婚に至る場合もあります。

夫よ。もし、その負のスパイラルにはまってしまったなら、リーダーとして、そのスパイラルを止める責任があります。それは神様が命じられていることです。

ですから、妻に尊敬されていないのであれば、妻にもっと愛を示してください。そうすることで、きっと彼女はあなたをさらに尊敬し始めるでしょう。

とはいえ、もしお互いに深い傷がある場合、癒しには時間がかかるかもしれません。

妻は、「夫がこのように愛を示すのはどれくらい続くだろうか。一時的なものなのだろうか。これまで私を傷つけてきたのに、彼を信頼してもよいのだろうか。」と思うかもしれません。

それでも、諦めないでください。妻の信頼を得るために努力を続けてください。

もしかすると、自分のプライドを捨てて、こう謝らなくてはならないかもしれません。「今まで、神様が命じられたようにあなたを愛していませんでした。申し訳ありません。」

そして、神様の助けを求めてください。

妻よ。この文章を読んで、神様がその負のスパイラルを止めることをあなたに命じられている、と感じるかもしれません。それは簡単なことではありません。時々、私たち男性は自己中心的で、頑固です。

それでも、どうか夫のために祈ってください。そして、小さなことでも、夫について尊敬できる点を探してください。見つけられない場合には祈ってください。神様が示してくださいます。

そして、その尊敬を言葉で夫に表現してください。驚かれるかもしれませんが、ほんの小さなことが大きな変化をもたらすことがあります。