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ローマ人への手紙のデボーション

真のクリスチャンは。。。

真のクリスチャンたちは、罪との戦いに入っています。

クリスチャンになったからといって、私の罪との戦いが終わるわけではありません。私はよく誘惑されています。誘惑に勝つときも、負けてしまうときもあります。

真のクリスチャンたちは、罪を愛するのではなく、罪と戦おうと思います。

私は神の律法が良いものだと疑いません。むしろ、私はその律法を喜び、律法に従おうと努めています。だから、毎日、私は自分の罪と戦います。それでも、私は自分の失敗をよく知っています。

真のクリスチャンたちは、自分の罪を敵と見なします。

だから、私は行ってしまう悪を憎んでいます。また、私は、したいと願う善を行わないとき、フラストレーションを感じます。

真のクリスチャンたちは、自分の罪を見ると、苦しみます。

罪を犯すと、私はその罪を悲しみます。私は悔い改めます。私は本当に自分の罪を捨てたいのです。また、私は、自分の罪をすべて捨てて、イエス様のようになる日を待ち望んでいます。

真のクリスチャンたちは喜びます。

なぜなら、私はイエス様にあって希望を持っているからです。私は罪に定められることは決してありません。むしろ、イエス様の十字架の働きによって、私は神の子供として受け入れてくださいました。

ハレルヤ!

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ヨハネの手紙第一

私たちの罪との戦い

最近の記事を読めば、あなたは、私がれっきとしたクリスチャンが完全な人であると主張していると思うかもしれません。つまり、れっきとしたクリスチャンは決して罪を犯さないということです。

その理由は、この手紙では、ヨハネに白黒をつけるような話し方があるからです。しかし、ヨハネの手紙を注意深く読むと、ヨハネが何を言っているかはっきりとわかると思います。

それは、私たちは光の子どもであり、光の子どもは光の中で歩みます。それでも、光の子どもは罪を犯すこともあります。私たち皆、失敗するときもあります。

ヨハネはこう言いました。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。(ヨハネの手紙第一1:8)

また、

もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。(10)

では、どのように私たちはヨハネの白黒の教えを解釈した方がいでは、どのように私たちはヨハネの白黒の教えを解釈した方がよいでしょうか。

1.れっきとした神様の子どもは、自分の罪のために言い訳しません。彼らは自分たちの罪を正当化するために聖書をごまかしません。彼らは自分の場合が例外だと主張しません。

2.れっきとした神様の子どもはあえて聖書を無視しません。むしろ、聖書を読むとき、その言葉に従おうとします。

3.れっきとした神様の子どもは自分の罪と戦います。彼らは「私はこのままです。私は決して変わらないだろう」と言いません。むしろ、彼らは自分の罪を悲しみ、イエス様のようになりたいと願います。

もちろん、れっきとしたクリスチャンでも、その三つのことをしたことがあるでしょう。彼らは言い訳する時もあるし、聖書を無視する時もあるし、「私はこのままです。私は決して変わらない」と言う時もあります。

もしかすると、彼らは自分の罪を罪としてまだ分からないのかもしれません。彼らはまだ未成熟で、悪と善を見分けることができないのかもしれません。(へブル5:13-14)

けれども、れっきとしたクリスチャンは、ずっとそのように生き続けることはありません。聖霊様はそれを許しません。もしクリスチャンがその御声に従わないなら、聖霊様はその人を懲らしめます。

しかし、良い知らせは、私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださるということです。ヨハネはこう言います。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(9)

あなたは神様の子どもでしょうか。あなたは光の子どもでしょうか。

そうであれば、自分の罪のために言い訳するのをやめましょう。神様の御言葉を無視するのをやめましょう。神様があなたを懲らしめるとき、すぐに悔い改めましょう。

そうすれば、神様は恵み深い方です。神様は必ずあなたを赦してくださいます。

この世にいる間、私たちは決して完全な人にはならないでしょう。それでも、それは私たちの目的です。私たちは本当にイエス様を愛しているなら、自分がイエス様のようになる希望を持っているはずです。

あなたはその希望を持っているでしょうか。

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ローマ人への手紙

希望

前回の記事で、私たちには罪に打ち勝つ希望があると述べました。

それにもかかわらず、多くのクリスチャンは絶望してしまうことがあります。彼らは問いかけます。

「私は本当にクリスチャンなのだろうか?何度も罪を犯してしまうが、本物のクリスチャンがそんなことをするはずがないだろう。私は正しいことをしたいと思っているのに、何度も失敗してしまう。」

けれども、ここでパウロの言葉を見てみましょう。

私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。。。

私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。

私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(ローマ人への手紙7:15-16,19-20)

この箇所のテーマは何でしょうか。それは「戦い」です。

神様の恵みに触れていないノンクリスチャンは罪と戦うことはありません。多くの場合、彼らは自分の罪の問題に気づくことすらありません。

一方で、クリスチャンはその問題を認識し、戦うのです。

もし、「私はクリスチャンだ」と言い張る人が、神様が罪について何を語ったかを知っていながら、意図的に罪を犯し、なおかつ「私が罪を犯しているって?そんなことはないよ。」と言うなら、私はその人の「私はクリスチャンだ」という主張を疑うでしょう。

もしかすると、彼らは本当はクリスチャンではないのかもしれません。あるいは、彼らはクリスチャンだけれど、心を頑なにしてしまい、神様の声が聞こえなくなってしまったのかもしれません。

(もちろん、神様の言葉をあまり知らない若いクリスチャンもいます。その人たちの信仰を疑うわけではありません。とはいえ、私たちはその人たちにしっかりと教える責任があります。)

しかし、私は罪と戦っているクリスチャンの信仰を疑いません。むしろ、私は神様がその人の心の中で働いていることを確信しています。

そして、もし神様がその人の心の中で働いているなら、神様は必ずその働きを完成してくださいます。

パウロはこう言いました。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り。。。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信してます。【ピリピ1:4,6)

もし神様があなたの罪を指摘しているなら、神様があなたを見捨てて豚小屋に置き去りにすることはないと信じ、安心してください。神様はあなたに勝利を与えてくださいます。これが、私たちの希望です。

だから、パウロは「私は本当に惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24節)」と叫びました。

けれども、すぐに「神に感謝します。それは、私たちの主イエス・キリストによるのです。」とも叫ぶことができました。(これは25節の別訳です。その脚注を参照してください。)

私たちは、自分の力で自分自身をより良い人にすることはできません。私たちには、自分自身を変える力がありません。しかし、神様にはその力があります。これも、私たちの希望です。

では、私たちはどのように変わることができるのでしょうか。それは、私たちの内に住んでおられる聖霊様を通してです。

この点については、別の記事で詳しく扱います。どうぞお楽しみに。