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ローマ人への手紙

どうして私たちはまだ罪と戦うでしょうか。

前回の記事でも述べたように、聖書学者たちはこの箇所について議論を続けています。つまり、パウロが罪との戦いについて語る際、クリスチャンとして話しているのでしょうか?それとも、ノンクリスチャンとして話しているのでしょうか?

ひとまず、パウロがクリスチャンとして話していると仮定しましょう。

パウロはこう言いました。

。。。私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。(ローマ人への手紙7:14)

また、彼はこう言いました。

。。。この私は。。。肉では罪の律法に仕えているのです。(25)

その言葉を読むと、当然生じる疑問があります。もしパウロがクリスチャンとして話しているのなら、神様が彼を贖い、罪から解放したはずです。

それなのに、どうしてパウロは「私は売り渡されて罪の下にあるものです」と言ったのでしょうか。

さらに、パウロはこう言いました。

私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。(18)

もしパウロがクリスチャンとして話しているのなら、聖霊の力によって、彼は自分の「善を行いたい」という願いを実行できるはずではないでしょうか?

それは非常に重要な問いです。私たちはこの疑問に向き合い、答えを見いださなければなりません。

しかし、もしあなたがパウロがノンクリスチャンとして話していると考えるなら、さらに難しい問題が生じます。

最も難解な箇所は17節です。

ですから、今それ(つまり、罪)を行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。(17)

そして、20節で、パウロは同じようなことを言います。

私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(20)

ノンクリスチャンは、どうして「もはや私は罪を犯さない」と言えるのでしょうか。彼らは生まれつき罪深い心を持ち、神様に反抗しています。

以前の記事で述べたように、その罪深い心こそがノンクリスチャンを定義します。そして、彼らは罪深い心と「結婚」しているため、最終的に死に至る実しか結ぶことができません。

では、どうして彼らは「罪を犯しているのに、それが私の本当の姿ではない」と言えるのでしょうか。

けれども、クリスチャンはそのことを言うことができます。だから私は、パウロがこの言葉をクリスチャンとして語っているのだと思います。

以前の記事で見たように、クリスチャンになると、神様に反抗する私たちの罪深い心は十字架につけられ、死にました。つまり、私たちの「元夫」は死んだのです。もはや、その罪深い心が私たちに影響を与えることはできません。

それでも、私たちの体や思考、心は、生まれてからクリスチャンになるまでの間、罪深い心の影響を受け続けていました。その傷—つまり、罪深い行動のパターン—は今も私たちの内に残り、私たちはその影響を感じ続けています。

要するに、罪深い心は死にましたが、その影響はまだ生きています。そして、私たちはこの世に生きている限り、その傷が残る中で、罪の影響のもとにある者なのです。

このように考えると、パウロの言葉がより理解しやすくなるのではないでしょうか。

本当の私は、もはや罪を犯したくはありません。神様に反抗する罪深い心はすでに死んだからです。だからこそ、今、心の中では正しいことを行いたい、神様を喜ばせたいと願っています。

それでも、罪の傷はまだ残っています。罪を犯す傾向が根強く残っているのです。罪深い心は死にましたが、その影響はまだ私たちに残っています。そのため、善を行いたいと願いながらも、それを実行できないのです。

私は相手を許したいと思っているのに、どうしてもできません。自分の子供に対して忍耐を持ちたいと願っているのに、うまくいきません。

では、私は何を伝えたいのでしょうか。この世に生きている限り、希望はないのでしょうか。私たちは、生きている限り、罪との戦いに敗北し続けるのでしょうか。

決して、そうではありません。次回の記事で、このことについてさらに深くお話しします。