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マタイの福音書のデボーション

これはわたしの血

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(マタイの福音書26:27~28)

イエス様の復活の後、聖餐式を受けるたびに、ペテロはイエス様の言葉の意味をどれほど深く感じたでしょうか。

彼は、イエス様を決して見捨てず、イエス様に忠実であることを誓いました。

でも、そのあと、イエス様がペテロに「わたしと一緒に目を覚まして、祈りなさい」と頼まれたのに、ペテロは寝てしまいました。

イエス様がペテロを起こされたとき、たぶんペテロは自分を責めて、ちゃんと目を覚まし、祈ろうと誓ったでしょう。

でも、ペテロは一回だけではなく、もう二回寝てしまいました。

そして、ユダがイエス様を裏切るために来たとき、ペテロは大祭司のしもべを襲いましたが、イエス様はペテロを誉めるのではなく、叱責されました。

さらにその後、ペテロは「イエスを知らない」と三度言いました。たぶん、鶏が鳴くまで、ペテロは自分が何をしているのか全然気づかなかったでしょう。でも、気づいた瞬間、彼は激しく泣きました。

聖餐式を受けるたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったのでしょうか。自分の罪と失敗を思い出すたびに、イエス様の言葉はペテロにとって、どれほどの意味があったでしょうか。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ペテロ。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

私は、イエス様を裏切ったことが数え切れないほどあります。

私の誓いを破ったことがあります。良かれと思ってしたことが、悪い結果になってしまったことがあります。

私の言葉でイエス様を否定しなかったかもしれませんが、私の行動でイエス様を否定してしまったことがあります。

でも、イエス様は私に言われます。

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。ブルース。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

だから、聖餐式を受けるときは、その言葉を心に留めましょう。罪や失敗を思い出して、罪悪感に沈みそうになるときも、その言葉を思い起こしましょう。そして、神様の恵みに安心しましょう。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。これはあなたのために、あなたの罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

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創世記のデボーション

天のお父さん、あなたは泣いたことがある?

ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。

そこで、彼らはヨセフに言い送った。

「あなたの父は死ぬ前に命じられました。

「ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい、と。」

今、どうか、父の神のしもべたちの背きを赦してください。」

ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。( 創世記50:15ー17)

天のお父さん、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちを赦してくださったにも関わらず、私たちが罪悪感を抱き続けることを見るとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちが裁きと罰を恐れ、あなたから遠く離れて立つとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちをご自分の愛する子供たちと呼んでおられるにも関わらず、私たちが恐怖に陥れる奴隷として生きることを見るとき、あなたは泣いたことがあるでしょうか。

私たちが、あなたがどのようなお父さんであるかを知り、あなたに近づくように。

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使徒の働きのデボーション

神がきよめたもの

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(使徒の働き10:15)

(ペテロは)その人たちにこう言った。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。

ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。(28節)

イスラエルの民をご自身の民として召されたとき、神様は食べ物に関する多くの規定を与えられました。「この食べ物やその食べ物は、あなたたちにとって汚れている」と言われました。

しかし、その規定の目的は単なる健康上の配慮ではありませんでした。むしろ、それらの日々の規則を通して、イスラエルの民は周囲の国々の慣習に流されず、神様の導きに従って生きるべきであることを思い起こさせられました。

神様は彼らにこう教えようとされたのです。

「周りの人々がある食べ物を口にしているからといって、あなたたちもそれを食べるべきとは限らない。

同じように、周りの人々がある罪を犯しているからといって、あなたたちもその罪を犯すべきとは限らない。

今や、あなたたちは私の民である。だから、私に従いなさい。」

そういうわけで、神様が「汚れている食べ物」を食べるように命じられたとき、ペテロは衝撃を受けました。

ところが、ペテロが「この食べ物は汚れています」と言ったとき、神様はこう言われました。「私はこのものをきよめた。私がきよめたものを、汚れていると言ってはならない。」

けれども今回も、神様は単なる食べ物について話していたのではありませんでした。

むしろ、神様がペテロに示そうとされたのは、神がアブラムに与えられた「大いなる国民となる」という約束が、もはやユダヤ人だけに限られないということです。

その約束は、かつて「汚れた異邦人」とされていた者たちにも与えられました。つまり、イエス様を信じるすべての人が神様に受け入れられるということです。(エペソ2:12-18)

神様は私たちについても語られています。かつて、神様の約束は私たちのものではなく、私たちは神の民から除外され、希望を持たず、神様との関係もありませんでした。

しかし、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちをご自身に近づけてくださいました。私たちはきよめられ、罪の咎も清められました。

だからこそ、今、私たちは聖徒です。私たちは神の子供です。

けれども、多くのクリスチャンは自分をそのように見ていません。

もしかすると、過去の罪を思い出して恥じているのかもしれません。または、何度も罪に負けてしまうために、失望し、恥を感じているのかもしれません。

あるいは、幼い頃から、両親や先生に「お前はダメだ」と言われ続けてきたのかもしれません。

あなたはどうでしょうか。自分を汚れた存在だと思ってしまうことはありますか。神様があなたを「聖徒」と呼ぶことが、残酷な冗談のように聞こえることはありませんか。

鏡を見たとき、あなたは何を見ますか。その人を受け入れることができますか。それとも、「自分はダメだ」という考えが、心の中で響き続けているでしょうか。

神様はあなたにこう語られています。

「わたしがきよめたものを、あなたが汚れていると言ってはならない。 わたしはあなたの罪をきよめた。だから、罪悪感を抱き続ける必要はない。

わたしはすでにあなたを受け入れている。自分を責め続けるのはやめなさい。 あなたはわたしの愛する子なのだから。」

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サムエル記第二のデボーション

罪悪感を手放す

王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。

「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。

アブサロム。わが子よ、わが子よ。」(サムエル記第二18:33)

私の意見ですが、おそらくダビデはアブサロムの死が自分のせいだと思い、深い罪悪感を抱いていたでしょう。

なぜなら、アムノンがアブサロムの妹タマルを辱めた時、ダビデは何も行わなかったからです。

そして、アブサロムがアムノンを殺したあとも、ダビデは自分に与えられた神の恵みとあわれみをアブサロムに示さず、かえって彼から遠ざかってしまったのです。

でも、19章でヨアブが指摘したように、その罪悪感によって、ダビデとその国が滅ぼされる恐れがありました。

ダビデのように、私たちは自分の罪と失敗のために罪悪感を抱いているかもしれません。

その罪と失敗が、私たちの愛する人々にどのような影響を与えたかを見ると、それは特に苦しいことです。

でも、私たちがその罪悪感を手放して前に進まなければ、私たちの人生は壊れてしまいます。

私たちが自分の罪と失敗を軽視した方がいいと言っているわけではありません。自分の行為がそれほど悪くなかったと自分に言い聞かせようとしているわけでもありません。

むしろ、私たちは自分の罪を神様に告白するべきです。

そして、できれば私たちが傷つけた人に、自分の過ちを認めて、償いをするべきです。

また、私たちは反省して、自分の失敗や罪から学ぶべきです。

でも、そのあと、私たちは神様の赦しを抱くべきです。人々が私たちを許してくれなくても、神様は私たちを赦してくださいます。

罪悪感には私たちを滅ぼす力があります。でも、それは私たちのための神の望みではありません。

イエス様は十字架で、私たちのすべての罪と咎を背負われました。

そして、イエス様の血によって、私たちの罪は清められました(第一ヨハネ1:7)。

神様の目には、私たちはしみ一つない者です。

神様の目には、私たちは傷のない者です(エペソ1:4;5:27)。

私たちは赦されました!

あなたにとっては、それが信じにくいことかもしれません。

でも、それは本当です。

サタンの嘘を信じてはいけません。あなたの罪、あなたの失敗は赦されないものではありません。

神様の目には、あなたはしみ一つない者です。

神様の目には、あなたは傷のない者です。

あなたは赦されました!

だから、パウロの言葉を覚えていて、自分のものにしましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

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ローマ人への手紙

神様が私たちの味方ならば。。。

クリスチャンであっても、罪悪感に苦しみ、神様に責められているように感じることがあります。

私たちの誤った決断によって物事が崩れてしまい、「どうして私はいつも失敗してしまうのだろう」と嘆くことがあります。

あるいは、誘惑と戦いながら、「私は長い間クリスチャンなのに、どうして今もこの罪に引き寄せられてしまうのだろう」と悩みます。

また、聖書で御霊の実について読むと、自分自身を責めてしまうことがあります。

「愛?いや、私にはその実が十分に育っていない。寛容?いや、まるで足りない。柔和?いや、それも欠けている。」

そして、私たちは自分自身に問いかけます。

「どうして私はその実を持っていないのだろう。どうして私は変われないのだろう。私はやっぱりだめなのだろうか。」

しかし、前回の記事で私が言ったことを心に留めておきましょう。

神様はこの世を創造される前から、あなたのことを深く知っておられました。神様は、あなたがどのような人になるかをすべてご存じでした。

神様は、あなたがどのような罪と戦うことになるかを知っておられました。神様は、あなたの人生において、どの御霊の実が現れるまでに長い時間がかかるかを理解しておられました。

そして、神様はあなたが御子のように変えられるまでに、どれほどの年月が必要かも知っておられました。

それでも、神様はあなたを選ばれました。そして、神様はあなたを召されました。そのあと、神様はあなたを義と認められました。そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えてくださいます。

その日、私たちはキリストに似た者となります。なぜなら、私たちはキリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

だから、パウロはこう語ります。

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ人への手紙8:31)

神様は私たちの味方です。神様はあなたを選ばれるほどに、愛しておられました。だから、誰があなたに反対できるでしょうか。

パウロはその概念をさらに深く説明します。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(32)

要するに、神様が私たちにとって最も重要な必要、つまり私たちの罪の赦しを備えてくださったのなら、他の必要にも必ず備えてくださるのではないでしょうか。

だから、イエス様はこう語られました。

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。

あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:31-33)

そして、パウロは私たちを神様の法廷へと導き、こう問いかけます。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。(ローマ人への手紙8:33)

つまり、神様の法廷では、神様はあなたを訴えてはいません。むしろ、神様はあなたを義と認めておられるのです。

そして、パウロは問いかけます。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(34)

キリストはあなたを責めていません。私たちが裁かれないように、イエス様は十字架で命を捧げられました。

さらに、イエス様は裁判官の右の座に着き、あなたのためにとりなしをしてくださいます。

その判決はすでに決まっています。裁判官も検事もあなたの味方なのです。

それなら、どうして私たちはいつも自分自身を責めてしまうのでしょうか。裁判官も検事もそうしないのです。だから、私たちが自分自身を責める必要はありません。

だから、罪悪感に苦しみ、裁かれているように感じるとき、また、神様の恵みに値しないと思うとき、この聖書の言葉を心に留めてください。

神様はあなたの味方です。あなたが生まれる前から、神様はあなたの味方でした。そして、永遠に至るまで、神様はあなたの味方なのです。