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ガラテヤ人への手紙

全く新しい生き方

前回の記事では、罪の豚小屋から自由にされた私たちが、再びその豚小屋に戻らないことについて話しました。

しかし、パウロはもう一度繰り返します。私たちは、自分の力で律法を守ろうとする態度によって、その豚小屋を避けることはできません。

むしろ、パウロはこう言います。

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。(ガラテヤ人への手紙5:16-17)

パウロはこうは言いませんでした。「自分の力で律法を守れば、肉の欲望を満たさないだろう。」

むしろ、パウロは「御霊によって歩みなさい」と言います。要するに、私たちは毎日、聖霊様の力と導きによって歩まなければなりません。

だから、私たちは毎日、聖書を読み祈った後、神様に「じゃあ、行ってきます。またね。」とは言いません。

むしろ、私たちはこう祈るべきです。「聖霊様、私とともに歩んでください。一日中、私があなたの御声を聞こえるように。私があなたの導きに従うように助けてください。」

そうすれば、私たちは罪深い心の欲望を満たしません。

なぜでしょうか。私たちの罪深い心が望むことは、聖霊様が望まれることと正反対だからです。私たちの古い態度や習慣は、聖霊様が私たちの人生に望まれることとは、まったく異なっています。だから今なお、私たちは罪と戦い続けます。

パウロはローマ人への手紙 7:14-25 で、その戦いについて語っています。

しかし、毎日毎日、一瞬一瞬、私たちは聖霊様の声を聞き、従うことを学ぶにつれて、もはや古い道を歩むことはなく、むしろ、聖霊様は私たちを全く異なる道へと導いてくださいます。

だから心に留めておきましょう。律法の下にある人生は、聖霊様によって生きる人生とはまったく異なるものです。パウロはこの真理をはっきりと伝えています。

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。(18)

その二つの道は、どのように違うのでしょうか。

律法の下にある場合、私たちは自分の力で生きなければなりません。つまり、自分の力で律法に従わなければならないということです。

けれども、聖霊様によって生きる場合、私たちは聖霊様の力によって生きます。

また、律法の下にある場合、私たちは常に裁かれているように感じます。

一方で、聖霊様によって生きる場合、私たちは「アバ、父」と叫びます。

さらに、聖霊様によって生きる人生は、罪の支配下にある人生とはまったく異なります。

パウロは、さまざまな罪を列挙しましたが、その内容は恐ろしいものです。(19-21)

パウロによれば、そのような罪を犯し続ける者は神の国を相続できません。

その一方で、聖霊様が住んでおられる人は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を持つ人です。(22-23)

ここで二つのことに注意してください。

一つ目は、その実があなたの人生において未成熟かもしれませんが、成長しているはずだということです。今のあなたの人生は、以前の人生と比べると、少なくとも少しは変化しているはずです。

二つ目は、パウロが「あなたの努力の実は、愛、喜び、平安などです。」とは言わないことです。むしろ、「御霊の実は、愛、喜び、平安などです。」と言います。

あなたが、まことのぶどうの木—つまりイエス様にとどまるなら、その実を結び始めるのです。(ヨハネ15章)

けれども、その関係を持っていなければ、その実を結ぶことはできないのです。

だからこそ、私たちは律法を守ることに集中すべきではありません。むしろ、イエス様と聖霊様とともに歩むことに集中すべきです。

そして、パウロはこう語ります。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。(24)

真のクリスチャンたちは、神様に対する頑なで反抗的な心を十字架につけました。彼らは罪深い心に屈服しません。罪との戦いはあるかもしれませんが、その罪を抱くことはありません。

だからこそ、パウロは私たちに訓戒します。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(25)

あなたは、神様が与えてくださった聖霊様によって永遠の命を受けました。

それでも今、あなたは自分の力でクリスチャン生活を送ろうとしていないでしょうか。

あるいは、あなたは毎日、神様について行き、御声を聞き、神様の力によってその導きに従っているでしょうか。

あなたは、どのように生きていますか。

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ガラテヤ人への手紙

豚小屋に戻る?

この手紙の中で、パウロは、救いを得るためには神様の律法にも従わなければならないと考える人々に語っています。

もちろん、パウロは彼らの考えに同意できませんでしたが、彼らの懸念の一つには共感できました。それは、もし私たちがもはや律法の下にないのなら、好き勝手に生きても構わないのではないかという誤った考え方です。

あるガラテヤ人たちは、「もし私たちが律法の下にないのなら、自分のために生きてもいいだろう。恋人と寝てもいいし、娼婦と寝てもいいだろう。どんな罪を犯しても構わないだろう」と考えました。

そのため、パウロはこの考え方について語ります。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(ガラテヤ人への手紙5:13)

パウロは言いました。「あなたがたは自由を与えられるために召されました。」

では、神様は私たちを何から自由にされたのでしょうか。

まず、神様は私たちを律法から自由にしてくださいました。神様の子として受け入れられるために、私たちは律法に完全に従う義務を負う必要はありません。また、神様の子供として、私たちが失敗しても、神様の裁きから解放されています。

けれども、神様は私たちをもう一つのものからも自由にされました。それは、私たちを滅ぼす罪深い生活です。クリスチャンになる前、私たちは罪の豚小屋に暮らしていました。そして、自分の罪深い心に従って生きていました。

では、罪深い心とは何でしょうか。その心は神様に反抗し、自分のために生きようとします。けれども、その罪深い心に従った結果、私たちの人生はめちゃくちゃになりました。結婚や人間関係、健康など、すべてが崩れてしまいました。

それでも、私たちを自由にするために、キリストは死なれました。イエス様は私たちの心に手術を施してくださいました。イエス様は、私たちの石の心を取り除き、肉の心を与えてくださいました。(エゼキエル書 36:26)

要するに、イエス様は私たちの反抗的な心を取り除き、神様に従いたい心を与えてくださいました。そして、私たちがイエス様に従うにつれて、イエス様は私たちを滅ぼす罪から自由にしてくださいます。

それでも、私たちの中には罪の名残がまだ残っています。つまり、罪深い態度や習慣が消えずに残っているのです。私たちは生きる限り、それらと戦い続けなければなりません。

だからこそ、パウロはこの言うのです。「その古い態度や習慣に屈服してはいけません。あなたは豚小屋に暮らしていた時、惨めな人生を送ったでしょう。なぜまたその豚小屋に戻りたいと思うのですか。むしろ、愛をもって互いに仕え合いなさい。」

律法と罪からの自由の喜びを本当に知りたいと思いますか。愛をもって人に仕えましょう。神様の愛を楽しむにつれて、その愛を周りの人々に分かち合いましょう。私たちは神様から受けた祝福を周りの人々に分け与えるためにデザインされました。

そうすれば、真の喜びを知るでしょう。豚小屋に戻ることは、喜びにつながりません。

そして、パウロはこう言います。

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(14)

言い換えると、もしあなたが本当に律法に従っているかどうかを心配しているなら、愛をもって人々に仕えなさい。自分の自由をそのように用いるなら、自然と律法に従うことになります。

一方で、もし私たちが豚小屋に戻るなら、その結果はどうなるでしょうか。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(15)

あなたはどうですか。イエス様からの自由の喜びを知っているでしょうか。もしかすると、豚小屋に戻ってしまったのかもしれません。では、あなたはこれからどうするでしょうか。

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ローマ人への手紙

私たちがイエス様に属すると

5-8節を読むと、私は、パウロがクリスチャンについて話しているのかどうか疑問に思いました。

つまり、パウロは、神様をまったく知らず、自分の罪深い心に従う人について話しているのでしょうか。

それとも、パウロは、かつての罪深い心の残された影響に従い続けるクリスチャンについて話しているのでしょうか。

けれども、9節を読むと、パウロがノンクリスチャンについて話していることが明らかになります。

パウロはこう語りました。

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。

もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。(ローマ人への手紙8:9)

5ー8節では、パウロが語っているのは、罪深い心を持つ人(つまり、「肉のうちにある人」)は、神様を喜ばせることができないということです。実際、その人は神様に敵対しており、その行く道は死へと導かれます。

けれども、9節では、パウロは御霊を持っている私たちを、そのような人と対比しています。

パウロが語っているのは、御霊を持っていないなら、あなたはキリストのものではないということです。要するに、あなたは本当にクリスチャンではありません。

しかし、聖霊様があなたのうちにおられるなら、聖霊様はあなたの心の中で働き、イエス様と同じかたちにあなたを変えてくださいます。あなたはもはや罪深い心の奴隷ではありません。

そして、パウロはこう語ります。

キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。(10)

パウロによれば、私たちは罪のゆえに皆、やがて死を迎えます。それでも、イエス様は私たちのうちにおられ、ご自身の義を私たちに与えてくださいます。

だから、私たちの体が死んでも、私たちの魂は生き続けます。

けれでも、心に留めてください。神様は私たちについて「無罪」と宣言されるだけでなく、私たちを真の義人へと変えてくださいます。

そして、パウロは続けてこう言います。

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。(11)

私たちは二つの希望を持っています。

第一の希望は、私たちのうちにおられる御霊のゆえに、私たちの体が死んでも、新しく朽ちることのない体を受けることです。

しかし、今もなお、聖霊様は私たちに命を与えてくださっています。聖霊様は私たちをイエス様と同じかたちへと変えてくださいます。私たちの性格は変わりつつあり、神様の御計画のとおりに歩み始めます。

それでは、私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

そして、パウロはこう語ります。

ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。

しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。(12-14)

つまり、私たちは、死んだものに対して何の義務も負っていません。私たちは、かつての罪深い心を拝んではなりません。かつて、その罪深い心は私たちを死へと導いていました。

けれども、今や、聖霊様の力と導きによって、私たちはその罪深い影響を滅ぼし、真の命を知ることができます。パウロによれば、神様の子供たちは皆、そのように歩みます。

あなたはどうでしょうか。あなたは、罪深い心に義務があるかのように生きているでしょうか。それとも、聖霊様の導きによって、神様の子供として歩んでいるでしょうか。

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ローマ人への手紙

どうして私たちはまだ罪と戦うでしょうか。

前回の記事でも述べたように、聖書学者たちはこの箇所について議論を続けています。つまり、パウロが罪との戦いについて語る際、クリスチャンとして話しているのでしょうか?それとも、ノンクリスチャンとして話しているのでしょうか?

ひとまず、パウロがクリスチャンとして話していると仮定しましょう。

パウロはこう言いました。

。。。私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。(ローマ人への手紙7:14)

また、彼はこう言いました。

。。。この私は。。。肉では罪の律法に仕えているのです。(25)

その言葉を読むと、当然生じる疑問があります。もしパウロがクリスチャンとして話しているのなら、神様が彼を贖い、罪から解放したはずです。

それなのに、どうしてパウロは「私は売り渡されて罪の下にあるものです」と言ったのでしょうか。

さらに、パウロはこう言いました。

私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。(18)

もしパウロがクリスチャンとして話しているのなら、聖霊の力によって、彼は自分の「善を行いたい」という願いを実行できるはずではないでしょうか?

それは非常に重要な問いです。私たちはこの疑問に向き合い、答えを見いださなければなりません。

しかし、もしあなたがパウロがノンクリスチャンとして話していると考えるなら、さらに難しい問題が生じます。

最も難解な箇所は17節です。

ですから、今それ(つまり、罪)を行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。(17)

そして、20節で、パウロは同じようなことを言います。

私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(20)

ノンクリスチャンは、どうして「もはや私は罪を犯さない」と言えるのでしょうか。彼らは生まれつき罪深い心を持ち、神様に反抗しています。

以前の記事で述べたように、その罪深い心こそがノンクリスチャンを定義します。そして、彼らは罪深い心と「結婚」しているため、最終的に死に至る実しか結ぶことができません。

では、どうして彼らは「罪を犯しているのに、それが私の本当の姿ではない」と言えるのでしょうか。

けれども、クリスチャンはそのことを言うことができます。だから私は、パウロがこの言葉をクリスチャンとして語っているのだと思います。

以前の記事で見たように、クリスチャンになると、神様に反抗する私たちの罪深い心は十字架につけられ、死にました。つまり、私たちの「元夫」は死んだのです。もはや、その罪深い心が私たちに影響を与えることはできません。

それでも、私たちの体や思考、心は、生まれてからクリスチャンになるまでの間、罪深い心の影響を受け続けていました。その傷—つまり、罪深い行動のパターン—は今も私たちの内に残り、私たちはその影響を感じ続けています。

要するに、罪深い心は死にましたが、その影響はまだ生きています。そして、私たちはこの世に生きている限り、その傷が残る中で、罪の影響のもとにある者なのです。

このように考えると、パウロの言葉がより理解しやすくなるのではないでしょうか。

本当の私は、もはや罪を犯したくはありません。神様に反抗する罪深い心はすでに死んだからです。だからこそ、今、心の中では正しいことを行いたい、神様を喜ばせたいと願っています。

それでも、罪の傷はまだ残っています。罪を犯す傾向が根強く残っているのです。罪深い心は死にましたが、その影響はまだ私たちに残っています。そのため、善を行いたいと願いながらも、それを実行できないのです。

私は相手を許したいと思っているのに、どうしてもできません。自分の子供に対して忍耐を持ちたいと願っているのに、うまくいきません。

では、私は何を伝えたいのでしょうか。この世に生きている限り、希望はないのでしょうか。私たちは、生きている限り、罪との戦いに敗北し続けるのでしょうか。

決して、そうではありません。次回の記事で、このことについてさらに深くお話しします。

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ローマ人への手紙

私たちの罪深い心が本当に死んでいるだろうか

ローマ書6章と7章を読んだとき、私は自分自身にさまざまな疑問を問いかけました。その中の一つが、「私たちの罪深い心は本当に死んでいるのだろうか?」という問いです。

この問いにどう答えるかによって、ローマ書7章の解釈が変わります。特に、14節から25節の理解に大きな影響を及ぼします。

この箇所でパウロは、律法に出会ったとき、自分が律法に従うことができないと気づいたことを告白しています。

では、彼はノンクリスチャンだった頃の経験について話しているのでしょうか。それとも、クリスチャンとしての葛藤を認め、罪との戦いについて述べているのでしょうか。

だから、この箇所を考察する前に、私たちと罪深い心の関係について整理しておきたいと思います。私たちはまだ罪深い心を持っているのでしょうか。

この点については、聖書学者たちの間でも議論が続いています。

私の意見が正しいかどうかはわかりませんが、ひとまずここで述べておきます。(もしかすると、10年後には意見が変わっているかもしれません。)

私が以前言ったように、「罪深い心」と言うと、私は神様に反抗する生まれつきの態度について話します。

私たちは生まれたときからその態度を持っていて、年を重ねるごとに、その態度は私たちの考えや行動に浸透していきます。そして、最終的にその態度が私たちを定義することになりました。

悪い伝染とゾンビの話を覚えていますか?ゾンビウイルスが人に感染すると、やがてそのウイルスがその人のアイデンティティを支配し、最終的にその人はゾンビになってしまいます。

同じように、私たちが無垢な赤ちゃんのときに罪深い心は私たちに伝染し、やがて本格的な罪人になっていきます。

けれども、私たちが救われたとき、何が起こったのでしょうか?その罪深い心は十字架につけられ、死にました。そして今、私たちはイエス様と「結婚」しています。それでも罪が残した影響を見ることができます。

考えてみてください。ある女性が夫に虐待されました。そのため、彼女は肉体的な傷や精神的な傷を持っています。そして、その夫が亡くなります。彼はもう積極的に彼女を傷つけることはできません。

それにしても、彼の過去の行為は今でも彼女に影響を与えています。彼女の肉体的な傷や精神的な傷がまだ残っているからです。

さまざまな意味で、その夫とその行為はその妻の人生を形作りました。だから、将来別の男性と関係を築こうとする時、彼女は元夫の悪い影響を感じるでしょう。

例えば、虐待する人と関係を持ってしまうかもしれません。

または、誠実な男性に出会ったとしても、彼女はその人を完全には信頼できないかもしれません。その結果、彼の愛に心から応じることができなくなるでしょう。

けれども、時間と癒し主の働きによって、彼女はその悪い影響から解放され、癒されるのです。

同じように、私たちの死んだ罪深い心も私たちに深い影響を残します。

その罪深い心が生きている間、神様に信頼せず、反抗していました。そして、それは私たちにそのような態度を持つように根付かせました。

そのため、私たちの思考や肉体には罪の傾向が刻まれました。その罪深い心が、かつての私たちの本質を定義していたのです。

しかし、私たちがクリスチャンになった時、その罪深い心は消え去りました。それでも、その影響はまだ私たちの中に残っています。私たちは人生を通じて、その残された影響と戦い続けていくのです。

だから、私たちクリスチャンは、自分の罪深い心が死んだと言うことができます。つまり、私たちはもはや意図的に神様に反抗せず、むしろ神様に従いたいと願うようになりました。

それでもなお、罪深い心の残された影響を感じることがあります。それらの影響は今も私たちの中に存在しています。

とはいえ、罪深い心はすでに死んだため、もはや私たちを支配したり、悪い影響を及ぼしたりすることはできません。そして、私たちの偉大な癒し主—イエス様が、私たちを完全に癒してくださいます。

これから数日間にわたって、このことについてさらに深く考えていきましょう。