多分、詩篇23篇は一番有名な詩篇です。なぜなら、この詩篇は、私たちの神様との親しい関係を表すからです。
他の詩篇では、私たちは神様を王や、裁判官や、正義の味方や、勇士として見ます。けれども、この詩篇では、私たちは神様を羊飼いとして見ます。
実は、私たちが羊と呼ばれることは、賛辞ではありません。世界中で、多分羊は一番馬鹿な動物です。羊飼いがいないと、羊は全く迷ってしまいますから。
私たちもその通りです。私たちの多くは、自分自身が他の人よりも賢いと思いたいです。また、私たちは神様を必要としないと思います。
しかし、神様がおられないと、私たちの人生はめちゃくちゃになります。神様がおられないと、私たちは全く迷ってしまいます。
ダビデは、「主は私の羊飼い」と書きました。「私たちの羊飼い」と書かなかったのです。つまり、多くの羊がいるかもしれませんが、神様はそれぞれの羊を愛しておられます。
迷っている羊のたとえ話のように、一匹の羊が羊飼いから離れると、羊飼いはその羊を探して救います(ルカ15:3-7)。
神様が私たちを愛しておられるので、ダビデは私たちが乏しいことがないと言います。イエス様も同じことを教えました。天の父は鳥に餌をやり、花を美しく着せるように、天の父は私たちを世話してくださいます(マタイ6:25-30)。
それに、神様は私たちに平和と安らぎを与えてくださいます。羊が不安で恐れているとき、全然眠れません。しかし良い羊飼いが羊を慰めると、羊は平安を持ってすぐに眠れます。
そして、私たちが重荷を持って疲れているとき、主が私たちのたましいを生き返らせてくださいます。
私たちが新しい日に向かうとき、神様は「彼は疲れているけど、私が彼に力をこれぐらい与えると、彼は何となく今日のチャレンジを乗り越えるだろう」とは言われません。
むしろ、神様は私たちを本当に生き返らせてくださいます。
私たちの羊飼いとして、神様は私たちを正しい道に導いてくださいます。その道がいつも楽しいわけではありません。ダビデが言ったように、時々その道は死の陰の谷を通ります。その時が暗くて、私たちが希望がないと思うこともあります。
しかし、ダビデは言います。「その暗い所を通る時、死に向かっても、私は決して恐れません。」
どうしてでしょうか。
「あなたが私とともにおられますから。」
また、ダビデは歌いました。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩篇23:4)
羊飼いは、羊をライオンや狼から守るため、むちを使いました。また、羊を導くため、杖を使いました。
だから、ダビデの意味は「暗い時でも、あなたの守りと導きが見える」ということです。
神様は私たちの全ての逆境を取り去らないかもしれませんが、ダビデは私たちの必要とそれ以上を与えてくださると言います。だから5節に、彼はこう歌いました。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。(5)
そして、信仰と喜びによってダビデは歌いました。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(6)
あなたはどうですか。神様はあなたの羊飼いでしょうか。神様だけにあって、あなたは私たち皆が求める平安と喜びと満足が見つけることができます。