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ルカの福音書のデボーション

真の平和

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカの福音書2:13ー14)

上記の言葉を読んだとき、私の牧師が最近語られたメッセージを思い起こしました。そのテーマは、イエス様がもたらされる平和がこの世の平和と異なることでした。

天の軍勢が現れたとき、もしかすると、羊飼いたちは天使たちがローマの圧迫を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。

恐ろしいことですが、その天使たちが羊飼いたち自身を滅ぼすために来たと思ったかもしれません。神様の栄光によって、人々の罪が明らかにされるからです。

しかし、それどころか、天の軍勢は平和を宣言しました。その平和は羊飼いやユダヤ人たちだけのためではなく、すべての人々のためです。(ルカ2:10)

でも、どのような平和が伝えられたのでしょうか。

それは神様との平和です。

その平和は私たちの人生に入り込み、こう語ります。

「あなたは罪人ですが、恐れる必要はありません。イエス様があなたの罪の代償を支払ってくださいました。だから、あなたは今、恵まれた者です。

エリサベツとマリアと同じように、私の恵みを受けたのです。あなたは私の心にかなう者となりました。」(ルカ1:25、28ー30)

この真理は本当に心に納め、思い巡らすべきものです。(ルカ2:19)

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出エジプト記のデボーション

私たちの間に幕屋を張られた神

そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(出エジプト記40:34ー35)

今はクリスマス・シーズンなので、私は上記の言葉を読んだとき、ルカによる福音書2章の羊飼いたちの話を思い出しました。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。(ルカ2:8ー9)

幕屋を満たしていたのと同じ栄光が、羊飼いたちの周りを照らしました。羊飼いたちが恐れるのも無理はありません。

モーセでさえ、神様の栄光に満ちた場所に入るのを恐れました。

しかし、御使いは羊飼いたちにこう言いました。

恐れることはあ

りません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:10ー11)

イエス様を通して、羊飼いたちは、モーセでさえ持っていなかった神様へのアクセスを与えられました。

神様は、私たちにもその同じアクセスを与えてくださいました。

ヨハネはこう言いました。

ことば(つまり、神)は人となって、私たちの間に住まわれた。(マタイ1:14)

原語では、「住まわれる」という言葉には、「幕屋を張る」というニュアンスがあります。

神様がイスラエル人の間に幕屋を張られたように、イエス様が人間となられたとき、神様は私たちの間に幕屋を張られました。

だから、ヨハネはイエス様についてこう言いました。

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14b)

そして、イスラエル人たちが旅をしている間、神様がインマヌエルであったように、私たちの人生の旅の間も、イエス様は私たちにとってインマヌエルであり、私たちにこう約束してくださいます。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

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イザヤ書のデボーション

羊飼いの歌?

今日、アドベントのディボーションを読んでいて、羊飼いの話を思い起こしました。彼らは天使を見たとき、どのように感じたでしょうか。

ルカの福音書によれば、彼らは非常に恐れました。なぜでしょうか。

神様は約400年もの間、ユダヤ人たちに語られませんでした。しかし突然、神様はその沈黙を破られました。なぜでしょうか。彼らを裁くためでしょうか。

違います。良い知らせを告げるためです。

神様の怒りは去り、神様は御子を通して救いをもたらされました。

羊飼いたちが天使の言葉を聞いたとき、イザヤ書12章を思い浮かべたでしょうか。

おそらくそうではなかったでしょう。でも、もし彼らがイザヤの言葉を思い出したなら、きっとその歌を歌ったことでしょう。

主よ、感謝します。 あなたは私に怒られたのに、 あなたの怒りは去り、 私を慰めてくださったからです。」

見よ、神は私の救い。 私は信頼して恐れない。

ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。 私のために救いとなられた。(イザヤ書12:1ー2)

エッサイの根、つまりイエス様は来られました。(イザヤ書11:1〜5、10)

そして、イエス様を見た後、羊飼いたちは周りの人々にその良い知らせを伝えました。(ルカ2:16〜18)

シオンに住む者よ。 大声をあげて喜び歌え。

イスラエルの聖なる方は、 あなたの中におられる大いなる方。(イザヤ書12:6)

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箴言のデボーション

自分の群れを心に留める

あなたの羊の様子をよく知り、 群れを心に留めておけ。(箴言27:23)

その言葉を読んで、私は神様からゆだねられた人々を考えました。私の妻。私の娘。私のスモールグループ。

私は彼らの様子をよく知っているでしょうか。私は彼らのニーズを心に留めているでしょうか。

どうして、それは大切なのでしょうか。

24ー27節で、私たちは一つの理由を読みます。もちろん、その羊は私たちから祝福されます。でも、私たちが彼らから祝福を受ける日が来ます。

しかし、それよりも、私たちの羊飼いの命令を心に留めておかなければなりません。

イエス様はペテロに言われました。「わたしを愛していますか。わたしの子羊を飼いなさい。わたしの羊を牧しなさい。わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15ー17)

イエス様は私たち皆にも同じことを言われます。

私たちは、イエス様への愛と回りの人々への愛を切り離すことができません。特に、私たちがイエス様を愛しているなら、神様からゆだねられている人々を愛さなくてはなりません。

神様は誰をあなたにゆだねたでしょうか。彼らの様子をよく知っているでしょうか。彼らのニーズを心に留めているでしょうか。

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詩篇

私たちの羊飼い

多分、詩篇23篇は一番有名な詩篇です。なぜなら、この詩篇は、私たちの神様との親しい関係を表すからです。

他の詩篇では、私たちは神様を王や、裁判官や、正義の味方や、勇士として見ます。けれども、この詩篇では、私たちは神様を羊飼いとして見ます。

実は、私たちが羊と呼ばれることは、賛辞ではありません。世界中で、多分羊は一番馬鹿な動物です。羊飼いがいないと、羊は全く迷ってしまいますから。

私たちもその通りです。私たちの多くは、自分自身が他の人よりも賢いと思いたいです。また、私たちは神様を必要としないと思います。

しかし、神様がおられないと、私たちの人生はめちゃくちゃになります。神様がおられないと、私たちは全く迷ってしまいます。

ダビデは、「主は私の羊飼い」と書きました。「私たちの羊飼い」と書かなかったのです。つまり、多くの羊がいるかもしれませんが、神様はそれぞれの羊を愛しておられます。

迷っている羊のたとえ話のように、一匹の羊が羊飼いから離れると、羊飼いはその羊を探して救います(ルカ15:3-7)。

神様が私たちを愛しておられるので、ダビデは私たちが乏しいことがないと言います。イエス様も同じことを教えました。天の父は鳥に餌をやり、花を美しく着せるように、天の父は私たちを世話してくださいます(マタイ6:25-30)。

それに、神様は私たちに平和と安らぎを与えてくださいます。羊が不安で恐れているとき、全然眠れません。しかし良い羊飼いが羊を慰めると、羊は平安を持ってすぐに眠れます。

そして、私たちが重荷を持って疲れているとき、主が私たちのたましいを生き返らせてくださいます。

私たちが新しい日に向かうとき、神様は「彼は疲れているけど、私が彼に力をこれぐらい与えると、彼は何となく今日のチャレンジを乗り越えるだろう」とは言われません。

むしろ、神様は私たちを本当に生き返らせてくださいます。

私たちの羊飼いとして、神様は私たちを正しい道に導いてくださいます。その道がいつも楽しいわけではありません。ダビデが言ったように、時々その道は死の陰の谷を通ります。その時が暗くて、私たちが希望がないと思うこともあります。

しかし、ダビデは言います。「その暗い所を通る時、死に向かっても、私は決して恐れません。」

どうしてでしょうか。

「あなたが私とともにおられますから。」

また、ダビデは歌いました。

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩篇23:4)

羊飼いは、羊をライオンや狼から守るため、むちを使いました。また、羊を導くため、杖を使いました。

だから、ダビデの意味は「暗い時でも、あなたの守りと導きが見える」ということです。

神様は私たちの全ての逆境を取り去らないかもしれませんが、ダビデは私たちの必要とそれ以上を与えてくださると言います。だから5節に、彼はこう歌いました。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。(5)

そして、信仰と喜びによってダビデは歌いました。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(6)

あなたはどうですか。神様はあなたの羊飼いでしょうか。神様だけにあって、あなたは私たち皆が求める平安と喜びと満足が見つけることができます。