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ローマ人への手紙のデボーション

神との平和

最近、マルコ5章からのメッセージを準備していたので、今日の箇所を読んだとき、イエス様が癒してくださった女の人を連想しました。(マルコ5:25~34)

その女の人は、十二年の間、長血をわずらっていました。その病気のせいで、彼女はのけ者になって、神殿や会堂で神様を礼拝することができませんでした。

でも、信仰をもってイエス様に手を伸ばして触ると、彼女はすぐに癒されました。

そのとき、イエス様は彼女に言いました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して(別訳:平安のうちに)行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(マルコ5:34)

信仰によって、その女の人は神様の前に義と認められました。だから、彼女は神との平和を持ち、神様に近づくことができるようになりました。

そして、その十二年間の苦しみを振り返ると、彼女は希望を持っていました。なぜなら、神様は愛を彼女の心に注いでくださったからです。

その人の人生は、私たちの人生の描写です。私たちは神様から離れていましたが、信仰によって神との平和を持ち、神の息子たちや娘たちとして神様の前に立っています。

以前、私たちは恥を持って神の栄光を受けることができず、自分の罪によって神様から離れていました。(ローマ3:23)

でも今、恵みによって神の愛している子供たちとして、神の栄光にあずかる望みを喜び、神様に近づきましょう。(ローマ5:2)

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ローマ人への手紙

私たちを責める言葉が一つもない

映画の中で、私が最も好きな作品のひとつは「ア・フュー・グッドメン」です。

特に印象的なシーンは、軍事裁判所で二人の被告が判決を聞く場面です。その直前、海兵隊の大佐は、自らが海兵隊員たちに別の隊員を「しつける」よう命じたことを認めました。

けれども、その命令によって、彼らはその隊員を誤って死に至らしめてしまいました。

当然、その大佐は逮捕されましたが、その後も陪審員たちは二人の海兵隊員についての判断を下さなければなりませんでした。

陪審員が評決を決めた後、裁判官がその結果を読み上げます。

「殺害の容疑に関して、陪審は被告人たちに無罪の判決を下します。」

「殺害を謀った容疑に関して、陪審は被告人たちに無罪の判決を下します。」

その言葉を聞いて、多くの人は二人がまったく罰を受けないと思ったかもしれません。

ところが、裁判官は続けました。

「米国海兵隊員としてふさわしくない行為の容疑に関して、陪審は被告人たちに有罪の判決を下します。」

そして、裁判官はその刑を宣告しました。

けれども、その裁判官とは違い、パウロは私たちについてまったく異なることを語ります。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ人への手紙8:1)

ある聖書学者は、この箇所を次のように言い換えました。「神様は私たちを責める言葉を一つも言われません。」

映画の裁判官とは違い、神様は「この容疑について、あなたに無罪の判決を与える。この容疑についても、あなたに無罪の判決を与える。けれども、この容疑については、有罪の判決を下す」とは言われません。

むしろ、神様は私たちに「すべての容疑について、あなたに無罪の判決を与える。」と言われます。

どうしてでしょうか。

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを開放したからです。(2)(「原理」は別訳です。聖書の脚注を見てください。)

罪と死の原理とは何でしょうか。それは、「罪を犯すと、あなたは死ぬ」という原理です。

もし神様の律法に違反すれば、あなたは裁かれることになります。そして、私たちは皆、罪を犯したので、すでに裁きを受けています。

けれども、御霊の原理は私たちを罪と死の原理から解放します。

では、御霊の原理とは何でしょうか。それは、神様の恵みによって、私たちが義と認められることです。御霊が私たちのうちに住んでおられるので、私たちは新しい命を受けました。

そして、パウロは続けてこう言います。

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪の清めのために遣わし、肉において罪を処罰されました。

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに律法の要求が満たされるためなのです。(3-4)

律法には、何ができないのでしょうか。律法は私たちを義とすることができませんでした。なぜでしょうか。

それは、律法が何が善で何が悪かを示すことしかできなかったからです。けれども、私たちは罪深い心を持ち、神様に逆らっていたため、その律法に従おうとはしませんでした。

神様はそれをご覧になり、何をされたでしょうか。神様は私たちの罪に対処するために、イエス様を遣わしてくださいました。

イエス様は罪を犯すことなく、完全に律法に従われました。そして、十字架において、天の父はイエス様に私たちの罪を置かれました。私たちの代わりに、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

律法によれば、すべての罪は罰せられなくてはなりません。イエス様が十字架で死なれたとき、私たちのすべての罪は罰されました。だからこそ、イエス様を通して、律法の要求が満たされたのです。

ところが、それだけではありません。私たちがクリスチャンになるとき、神様は聖霊様を遣わされ、聖霊様は私たちのうちに住まわれます。そして、聖霊様の導きによって、私たちは義人として歩み始めます。

私たちは、かつての罪深い心の影響を感じることがあるかもしれません。しかし、聖霊様が罪に対する勝利を与えてくださり、私たちは神様の御計画のとおりに生き始めるのです。

そして、私たちが裁かれているかのように感じるとき、また、神様の愛と恵みにふさわしくないと感じるとき、聖霊様は私たちの心にささやかれます。

「あなたは神様の子供です。あなたは神様に属する者です。あなたはもう裁かれていません。」

あなたはどうでしょうか。「神様は、私が安心したころを見計らって、突然私を罰する」と思っているでしょうか。

神様は決してそのようなことをされません。あなたが神様に属するなら、神様はあなたを責めることはありません。

だからこそ、パウロはこう言うのです。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。

この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。(ローマ人への手紙8:15)

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ローマ人への手紙

確固とした確信を持っている?

私は聖書を何度も読んだことがあるので、新しい発見があると、本当にうれしく感じます。

とくに16-17節は、私の心に深く響きました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。

こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。

アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。

彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。(ローマ人への手紙4:16-17)

「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神。」

この言葉を深く考えてみると、救いの本質を表していることが分かります。

神様が私たちを救う前、私たちは霊的に死んでいました。罪のために裁かれたのです。しかし、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったことによって、私たちは永遠の命を与えられました。

「無いものを有るものとして召される神。」

この言葉は創造を示しているようです。つまり、神様の思いによって、この世界のすべてが存在するようになったということです。

けれども、アブラハムの物語を読むと、私たちはこの「無いものを有るものとして召される神」という概念をより深く理解できます。神様はアブラハムにこう約束されました。

「あなたは多くの国民の父となる。」 「地のすべての国民はあなたによって祝福される。」

驚くべきことに、神様がその約束をされたとき、アブラハムはすでに75歳であり、妻サラは65歳でした。

それでも、神様はその約束を守られました。神様のご計画の中には、アブラハムのための素晴らしい未来があり、その計画は実現しました。

そして、アブラハムは決して神様がご自身の約束を守るかどうかを疑いませんでした。

時には、神様の計画の詳細を理解できず、愚かな行動を取ることもありました。(だから、ハガルの問題が起こりました。)

けれども、アブラハムは決して「神様はうそをついた」と考えることはありませんでした。

だから、パウロはこう言いました。

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。(ローマ人への手紙4:19-22)

そして、パウロはこう言いました。

しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。

すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23ー24)

この箇所で、パウロは「義と認められる」ということについて語ります。

私が以前述べたように、この概念を理解するのは少し難しいです。どうして神様は罪人を義人と見なすことができるのでしょうか。彼らが何度も罪を犯すのに、どうして義と認められるのでしょうか。

その答えは17節にあります。神様は「無いものを有るものとして召します。」

新改訳第三版では、このように翻訳されています。「(神様は)無いものを有るもののようにお呼びになります。

これは「義と認められる」という概念を表しています。神様は義のない者を義のある者のようにお呼びになります。

どうしてでしょうか?それは、神様のご計画の中で、私たちはすでに義人とされているからです。神様は現在の私たちだけでなく、将来の私たちの姿を見ておられます。

神様が宇宙を造られたとき、神様の思いにはすでにどんな宇宙になるかが見えており、一言で、すべてが造られました。

神様がアブラハムに約束されたとき、その思いにはイサク、イスラエル、そしてイエス様の姿があり、一言ですべてが成就しました。

神様が私たちを見るとき、その思いには私たちがどのような人になるかが見えています。そして、神様の力によって、私たちはイエス様のかたちに変えられていきます。

毎日、私たちは少しずつ変わりつつあり、天国に行くと、そのプロセスは完成します。だからこそ、神様は私たちを見ると、義人と呼ぶことができるのです。

けれども、アブラハムのように、私たちはしばしば目の前の現実を見ます。つまり、私たちは弱く、罪を犯し続けてしまいます。

だから、アブラハムのように確固たる信仰を持ち、神様の約束を信じましょう。

神様がご自身の約束を実行する力を持っておられることを確信しましょう。神様は私たちを変え、私たちを本当に義人とされます。それは神様の思いの中だけでなく、現実となるのです。(第二コリント 3:18、第一ヨハネ 3:2)

このことを心に留め、信仰を強め、神に栄光を帰しましょう。それは私たちの行いによるものではなく、イエス様の行われたことによるものです。

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(25)