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ローマ人への手紙

信仰による義:新しい概念?

旧約聖書を読むと、「信仰によって義と認められる」という教えは比較的新しい概念のように思えるかもしれません。そのため、多くの人は、パウロや他の使徒たちがこの考えを生み出したと思っています。

けれども、実はパウロの時代、多くのユダヤ人はこの概念に疑問を抱きました。

「信仰によって私たちが神様に義と認められるという教えは、どこから来たのだろうか。聖書の中で見たことがないけれど。」

そこで、パウロは4章において、復活後にイエス様が何を教えられたのかを説明しています。(ルカ 24:27、44-47、ガラテヤ1:11-12)

また、1章ではパウロは預言者ハバククを引用しました。

しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク書1:4)

そして、4章では、パウロは、モーセが創世記でアブラハムについて何を述べたのかを記しました。(ちなみに、モーセは創世記の著者です。)

ユダヤ人にとって、アブラハムは非常に重要な人物でした。なぜなら、彼はイスラエルの父だからです。さらに、彼らはアブラハムをユダヤ人の模範と見なしていました。

だから、パウロはこう書きました。

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。

もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。

聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。(ローマ人への手紙4:1-3)

そして、パウロは尋ねます。

どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。

割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。(10)

パウロの結論は何だったのでしょうか?

彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。

それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。(11-12)

また、パウロは詩篇32篇を引用し、ダビデの言葉を参考にしました。

「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」(7-8)

どうして神様はダビデの罪を赦してくださったのでしょうか。ダビデは、多くの善行を積んだからでしょうか。いいえ、違います。ダビデはただ神様の憐れみを求め、神様に信頼しました。(詩篇 32:5,10)

こうして、パウロは自分の議論をまとめます。

しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。

すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23-24)

これは、すべてのクリスチャンにとって素晴らしい知らせです。私たちは、自分の力で正しい人になろうとする必要はありません。自分の努力で自分自身を清めるのではありません。

むしろ、私たちが神様を信じ、イエス様の十字架の働きを信じるなら、神様は私たちを受け入れてくださいます。

この真理こそが、キリスト教と他の宗教との大きな違いです。この真理によって、私たちは恐れることなく、神様との関係を持つことができます。

あなたはどうでしょうか。そのような関係を持っていますか?もしかすると、心の中で疑いを抱いているかもしれません。「神様は本当に私を受け入れてくださるのだろうか?」

あなたが神様の恵みを深く知ることができますように。