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コリント人への手紙第二

恵みが溢れている人生

「恵みが溢れている人生」という記事のタイトルを読んだとき、あなたは何を思い浮かべたでしょうか。

神様から与えられた恵みを考えたでしょうか。もちろん、この記事ではそのことについても書きます。しかし、それだけではありません。

パウロはこう書きました。

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。

あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(コリント人への手紙第二9:8)

私はこの箇所が大好きです。パウロによれば、神様は私たちに溢れるほどの恵みを与え、私たちの必要を満たすことができます。

しかし、その恵みを豊かに与える目的は何でしょうか。それは、私たちがすべての良いわざに満ち溢れるためです。つまり、私たちは受けた恵みによって、周りの人々にも豊かに恵みを与えることができるのです。

そして、パウロは詩篇112篇を引用します。

「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。(9)

どういうわけか分かりませんが、以前にこの言葉を読んだとき、パウロがイエス様について語っているのだと思いました。もしかすると、その箇所でエペソ書4:8を連想したのかもしれません。

けれども、実際には、その詩人は義人の寛大さについて語っています。義人は主に信頼しているので、未来を恐れません。そのため、惜しみなく貧しい人を助け、良いわざに満ち溢れています。

そして、パウロは続けてこう言います。

種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。(10-11)

要するに、私たちは神様が私たちの必要を満たしてくださることを確信できます。そして、私たちが周りの人々に惜しみなく与えるようになるほど、神様は私たちの財源をさらに増し加えてくださるのです。

しかし、私たちは自分の経済について本当に神様に信頼しているでしょうか。私はそのことをまだ学んでいる途中です。

私は詩篇112篇に描かれる義人のようになりたいです。私の人生に神様の恵みが溢れるように祈ります。けれども、その恵みを自分のためだけに持ちたいわけではありません。

むしろ、その恵みに溢れ、周りの人々に触れて祝福したいのです。そして、私の人生を通して、彼らが神様に栄光を帰すことを願います。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は恵みに溢れているでしょうか。

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ローマ人への手紙

確固とした確信を持っている?

私は聖書を何度も読んだことがあるので、新しい発見があると、本当にうれしく感じます。

とくに16-17節は、私の心に深く響きました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。

こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。

アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。

彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。(ローマ人への手紙4:16-17)

「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神。」

この言葉を深く考えてみると、救いの本質を表していることが分かります。

神様が私たちを救う前、私たちは霊的に死んでいました。罪のために裁かれたのです。しかし、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったことによって、私たちは永遠の命を与えられました。

「無いものを有るものとして召される神。」

この言葉は創造を示しているようです。つまり、神様の思いによって、この世界のすべてが存在するようになったということです。

けれども、アブラハムの物語を読むと、私たちはこの「無いものを有るものとして召される神」という概念をより深く理解できます。神様はアブラハムにこう約束されました。

「あなたは多くの国民の父となる。」 「地のすべての国民はあなたによって祝福される。」

驚くべきことに、神様がその約束をされたとき、アブラハムはすでに75歳であり、妻サラは65歳でした。

それでも、神様はその約束を守られました。神様のご計画の中には、アブラハムのための素晴らしい未来があり、その計画は実現しました。

そして、アブラハムは決して神様がご自身の約束を守るかどうかを疑いませんでした。

時には、神様の計画の詳細を理解できず、愚かな行動を取ることもありました。(だから、ハガルの問題が起こりました。)

けれども、アブラハムは決して「神様はうそをついた」と考えることはありませんでした。

だから、パウロはこう言いました。

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。(ローマ人への手紙4:19-22)

そして、パウロはこう言いました。

しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。

すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23ー24)

この箇所で、パウロは「義と認められる」ということについて語ります。

私が以前述べたように、この概念を理解するのは少し難しいです。どうして神様は罪人を義人と見なすことができるのでしょうか。彼らが何度も罪を犯すのに、どうして義と認められるのでしょうか。

その答えは17節にあります。神様は「無いものを有るものとして召します。」

新改訳第三版では、このように翻訳されています。「(神様は)無いものを有るもののようにお呼びになります。

これは「義と認められる」という概念を表しています。神様は義のない者を義のある者のようにお呼びになります。

どうしてでしょうか?それは、神様のご計画の中で、私たちはすでに義人とされているからです。神様は現在の私たちだけでなく、将来の私たちの姿を見ておられます。

神様が宇宙を造られたとき、神様の思いにはすでにどんな宇宙になるかが見えており、一言で、すべてが造られました。

神様がアブラハムに約束されたとき、その思いにはイサク、イスラエル、そしてイエス様の姿があり、一言ですべてが成就しました。

神様が私たちを見るとき、その思いには私たちがどのような人になるかが見えています。そして、神様の力によって、私たちはイエス様のかたちに変えられていきます。

毎日、私たちは少しずつ変わりつつあり、天国に行くと、そのプロセスは完成します。だからこそ、神様は私たちを見ると、義人と呼ぶことができるのです。

けれども、アブラハムのように、私たちはしばしば目の前の現実を見ます。つまり、私たちは弱く、罪を犯し続けてしまいます。

だから、アブラハムのように確固たる信仰を持ち、神様の約束を信じましょう。

神様がご自身の約束を実行する力を持っておられることを確信しましょう。神様は私たちを変え、私たちを本当に義人とされます。それは神様の思いの中だけでなく、現実となるのです。(第二コリント 3:18、第一ヨハネ 3:2)

このことを心に留め、信仰を強め、神に栄光を帰しましょう。それは私たちの行いによるものではなく、イエス様の行われたことによるものです。

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(25)

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イザヤ書

なぜ、義人は滅びるのか

私の父は、2011年に亡くなりました。その最後の週、私の家族は父のベッドの隣で見守っていました。

実は、私の心はその日のために約10年間準備していました。なぜなら、父の心臓は弱かったからです。それに、彼は糖尿病を患っており、他にもいくつか健康上の問題がありました。父がこれほど長く生きてくれたことは、私にとって驚きでもありました。

幸いなことに、父が亡くなったとき私はハワイにいました。私はずっと日本に住んでいるので、いつも心配していたのは、ある日突然、姉から「父が亡くなったよ」と電話で知らせを受けることでした。

けれども、神様のタイミングと御心によって、父が亡くなったとき、私はハワイにいることができました。

それはもちろん辛い出来事でしたが、それでもやはり、私はハワイにいられて本当に良かったと思います。

時々、人々は「どうして私たちは死ななければならないのだろうか」と尋ねます。

この箇所で、神様はその答えを私たちに示してくださいます。

義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もいない。

まことに、義人はわざわいから取り去られて、平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。(イザヤ書57:1-2)

この世界は死にかけています。この世界は罪によって堕落してしまいました。そのため、私たちは地震や他の天災を目にするだけでなく、罪に堕ちた人々の姿も目の当たりにしています。このように、この世の人々は壊れてしまいました。

そのような状態で、あなたはいつまでも生き続けたいと思うでしょうか。私はそう思いません。

私の父は、悪い健康状態に苦しんでいました。そのため、私は父がそのままの状態で長く生き続けることを望みませんでした。しかし、神様が父を御許に迎えてくださったことに、私は感謝しています。

もちろん、私は寂しい気持ちがあります。それでも今、父はもっと良い場所にいます。壊れて死にかけていた父の体は新しくされます。

さらに、父には今、平和があります。父は安らかに休んでいます。そして、父はイエス様の顔を見ているのです。そのことを考えると、私は少しうらやましい気持ちさえ抱きます。

私の言葉を誤解しないでください。すぐにこの世を離れたいと思っているわけではありません。天国に行ったら、私が喜んで手放すものがたくさんあります。苦しみ。痛み。罪。

そして、神様のタイミングが来たら、私は喜んで天国に行きます。

私が亡くなる時、私の墓石にこの言葉を書いてほしいです。

「ブルースのために泣かないでください。ブルースはこのお墓にいないから。」

イエス様の十字架の働きを信じる人々にとっては、死は本当にとげがないです。(第一コリント15:55)

あなたはどうですか。死のために準備しているでしょうか。