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イザヤ書

目が見えない人、耳が聞こえない人

私たちが霊的な盲人について考える時、私たちはよくノン・クリスチャンのことを思い浮かべます。もちろん、ノン・クリスチャンたちは霊的な盲人に該当します。

しかし、この箇所には、驚くべきことが書かれています。

耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。

わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。

あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。(イザヤ書42:18-20)

目の見えない人々とは誰だったでしょうか。彼らは本来、神様に仕えるべき人々でした。では、耳の聞こえない人々とは誰だったでしょうか。彼らは神様の使者でした。

彼らは神様の驚くべきみわざを目にしましたが、それに感動することがありませんでした。また、彼らは神様の御言葉を耳にしましたが、それを注意深く聞こうとはしませんでした。

その結果、どうなったのでしょうか。イスラエル人たちは、

かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込められた。

彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。(22)

けれども、神様がイスラエルの民を懲らしめられても、彼らは悔い改めようとはしませんでした。

それは本当に悲しい状態でした。神様が諸国の民の光として召された人々が、逆にその諸国の民がいる暗闇へと落ちてしまったのです。

周囲の国々の民と同じように、イスラエルの民は耳の聞こえない者、目の見えない者となってしまいました。

このことから、私たちは何を学べるでしょうか。

神様の民である私たちも、耳の聞こえない者や目の見えない者になる可能性があります。

では、どのようにしてそのような状態に陥ってしまうのでしょうか。それは、神様とその御言葉に耳を傾けることをやめ、自分自身の道を選んでしまう時です。

また、私たちの周りで神様が何をしておられるのかに無関心になり、自分の夢や計画だけに心を向ける時にも起こります。

神様は私たちを、この死にかけている世界の光として召されました。しかし、もし私たちがこの世のように目が見えず、耳が聞こえなかったら、どのようにして光となることができるでしょうか。それは不可能です。

だからこそ、私たちはこの世界の人々のようになってはいけません。

イエス様にならって、私たちは天のお父様に心を向け、耳と目を開きましょう。

神様が私たちの周りで何をしておられるのかに目を向け、また神様が私たちの内でどのように働いておられるのかを心から尋ね求めましょう。

私たちの手を天のお父様の手に置き、共に神様の働きを進めていきましょう。

目が見えない者にならず、耳が聞こえない者にならずにいましょう。むしろ、この世に生きる人々に手を差し伸べ、暗闇から神様の光へと導いていきましょう。