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サムエル記第一のデボーション

だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう?

ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。(サムエル記第一6:20)

今日の箇所では、イスラエルの民もペリシテ人も、大切な真理を思い知らされました。

それは、神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていないということです。

ペリシテ人の神ダゴンは立つことができず、ペリシテ人たち自身も立つことができませんでした。だから、さばきが下ったとき、彼らは領主たちに主の箱を戻すように叫びました。

しかし、イスラエルの民もまた、神様の前に立つことはできませんでした。

何百年も前に、モーセは彼らにこう警告していました。

「レビ人だけが主の箱を運ぶことを許されている。しかし彼らでさえ、その箱を見たり触れたりすることは許されていない。」(民数記4:15~20)

ところが、イスラエルの民はその指示を無視し、箱をすぐに覆わず、さらに勝手にその箱を開けてしまったため、さばきが彼らにも下りました。そこで、彼らは叫びました。「だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう。」

その答えは明らかです。神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていません。なぜなら、神様は聖なる方であり、私たちは罪によって汚れた者だからです。

私たちは皆、罪を犯しており、神の栄光を受けることができません。(ローマ書3:23)

だから、私たちがふさわしいことは、神の裁きだけです。

しかし、イエス様を通して、今や私たちはこの聖なる神の前に立つことができます。

パウロはこう記しました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ書5:1~2)

どうして、私たちは神様の前に立つことができるのでしょうか。それは、イエス様の十字架のみわざによって、私たちが神様との平和を持っているからです。

十字架の上で、私たちの罪によって汚れた衣はイエス様に置かれました。そして、私たちがイエス様を信じると、神様はイエス様の義と聖さをもって、私たちを着せてくださいます。

だからこそ、私たちは自由に神様の前に進み出ることができるのです。

もちろん、自分が義人であることを感じないときもあります。とくに、罪を犯すとき、私たちは汚れていて、神の愛にふさわしくないと感じます。

それでも、私たちは希望を持っています。それは、

キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

だからこそ、私たちは神様の栄光を見るとき、恐れる必要はありません。むしろ、私たちは喜びます。なぜなら、イエス・キリストによって、神様は私たちをすでに受け入れてくださっているからです。

そして、いつかの日、私たちは神様の栄光を身にまとうことになります。

だから、パウロはこう記しました。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

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サムエル記第一のデボーション

神様を聖なる方とする

だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。(ササムエル記第一6:20)

私たちはしばしば神様の愛と恵みについて話すので、つい、神様との関係を軽んじてしまうことがあります。

そうすると、私たちは大切なことを忘れてしまいます。神様は聖なる方です。だから、私たちは神様を聖なる方としなくてはいけません。

私たちは、神様を魔法のランプの妖精のジーニーのように考えてはいけません。イスラエル人たちが主の契約の箱を戦場に運んだとき、そのような考え方がありました。(4章)

ペリシテ人たちとは違って、私たちは神様をこの世の偽の神々と同じように考えてはいけません。(5章)

そして、神様を軽んじてはいけません。イスラエル人たちは神様を軽んじて、ただの好奇心から契約の箱を開けて、その中を見ました。(6章)

神様は聖なる方であり、私たちの畏れにふさわしい方です。だから、私たちは神様を聖なる方としなくてはいけません。(レビ記22:32〜33、第一ペテロ3:15)

神様は愛の神ですが、天使たちが神様を褒め称えるとき、「愛の神、愛の神、愛の神」とは歌いません。

むしろ、天使たちは「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者」と歌います。(イザヤ書6:3;黙示録4:8)

あなたは、どのように神様を考えているでしょうか。神様を聖なる方としているでしょうか。それとも、神様を軽んじているでしょうか。

ペテロの言葉を心に留めておきましょう。

むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。(第一ぺテロ1:15ー17)