この手紙を読むと、コリントの教会にはさまざまな深刻な問題があったことが分かります。
その問題を考慮すると、パウロの言葉は驚くべきものです。彼はその教会の人々を聖なる者と呼び、彼らが聖徒として召されたと述べています。
彼らの問題を考えると、コリントのクリスチャンたちを聖なる者と呼ぶのは適切ではないように思えます。なぜなら、彼らは聖徒として召されたかもしれませんが、聖徒として歩んでいなかったからです。
けれども、神様は私たちの現在の状態だけを見ているのではなく、私たちの将来も見ておられます。
そのため、兄弟姉妹を見るとき、私たちも同じ姿勢を持つべきです。彼らの現在の状態だけを見るのではなく、キリストにあって聖別された者として見なければなりません。彼らはキリストのものなのです。
そして、パウロと同じように、私たちは彼らが聖徒として歩むよう励ますべきです。私たちは、彼らがもはや自分のためではなく、彼のために死んで復活されたイエス様のために生きるべきだということを思い出させる必要があります。(第二コリント5:15)
それだけでなく、私たち自身もそのことを忘れずに思い出さなければなりません。
私たちが自分自身を見るとき、落胆するのは容易なことです。なぜなら、自分の罪に目を向けると、どうして神様が私たちを受け入れてくださるのか疑問に思うからです。
しかし、神様がすでに私たちを受け入れておられることを思い出しましょう。神様はご自身のために私たちを聖別されました。だから、そのように歩みましょう。
ただし、私たちは自分の力だけで歩む必要はないことを忘れないでください。パウロは次のように語っています。
主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。神は真実です。
その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。(コリント人への手紙第一1:8-9)
私たちは常に忠実であるわけではありません。しかし、神様は常に忠実な方です。そして、私たちが責められることのない者としてキリストの前に立つ日まで、神様は私たちの人生に働き続けてくださいます。
あなたはどうでしょうか。兄弟姉妹を見るとき、どのような人として見ているでしょうか。
自分自身を見るとき、どのような人として見ているでしょうか。