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使徒の働きのデボーション

恵みを与える人

興味深いことに、パウロは恵みによる救いの概念のために激しく戦いましたが、マルコに対してはほとんど恵みを示しませんでした。

以前の宣教旅行で、マルコは途中で一行から離れ、パウロとバルナバを失望させました。彼の理由ははっきりしていませんが、いずれにせよ、パウロは彼にセカンドチャンスを与えようとしませんでした。

この話を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれほどパウロのように振る舞うだろうか。人々が私の基準に達せず、私をがっかりさせるとき、どれほど彼らに恵みを与えないことがあるだろうか。」

おそらく、それは数えきれないほどあるでしょう。

しかし、私は恵みを与える人になりたい。特に、キリストにある私の兄弟姉妹に対して恵みを示す者になりたい。

あなたは恵みを与える人でしょうか。

兄弟姉妹が私たちをがっかりさせるとき、心に留めておくべきことがあります。

神様は彼らの心を知っておられます。そして、彼らの弱さや失敗にも関わらず、御霊は私たちのために証されたように、彼らのためにも証し、「あなたは神の子です」と語っておられます。

神様は私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださいました。(使徒の働き15:8-9)

だから、彼らが私たちをがっかりさせるとしても、神様が彼らに、そして私たちにも注がれた恵みを示しましょう。

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使徒の働きのデボーション

三つの質問

そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。(使徒の働き8:30)

ピリポの質問は本当に印象的です。少し想像してみてください。

あなたが聖書を読んでいると、ピリポが近づき、こう尋ねます。

「あなたは、読んでいることが分かりますか。」

あなたはどのように答えるでしょうか。

宦官と同じように、「私はさっぱりわからない」と答えることは、まったく問題ありません。

しかし、あなたはどれほど理解したいと思っていますか。分からない部分について積極的に尋ねるほど知りたいのですか。

宦官は本当に理解したかったので、ピリポを自分の隣に座らせ、謙虚に聖書の解説を願いました。

けれども、もっとも重要な問いは、「私は理解した真理をどのように扱っているのか」ということです。

ピリポの教えを通して、宦官は悟りました。

「私はイエス様を信じなければならない。そして、その最初の一歩はバプテスマを受けることだ。」

だから彼はすぐにバプテスマを受けることを願ったのです。

イエス様はこう語られました。

ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ(ます)。。。(ルカの福音書8:18)

言い換えれば、私たちが理解を求め、さらに、すでに知っている真理を実践すると、イエス様はさらに多くの御言葉を私たちに明らかにしてくださいます。

宦官はそれを経験しました。

では、私たちはどうでしょうか。おそらく、理解できない聖書の箇所が多くあるでしょう。もちろん、それらの箇所について理解を求めるべきです。

しかし、私たちはすでに理解している真理をどう扱っているでしょうか。私たちはイエス様に「はい」と答え、その御言葉に従っているでしょうか。

だからこそ、挑戦してみましょう。次に聖書を読むとき、自問してみましょう。

  1. 私は、読んでいることが分かりますか。
  2. 私は、この分からないところについて誰かに尋ねるほど理解したいのですか。
  3. 私は、すでに理解していることについてどうするのですか。
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民数記のデボーション

自分の心を導こう

イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。

その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。

こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。

わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。わたしはあなたがたの神、主である。(民数記15:38~41)

去年、私の教会では、私たちは自分の心に従うのではなく、神様に従うように自分の心を導くことについて話しました。

それは新しい概念ではありません。モーセはイスラエル人たちに同じことを教えました。

「ただ自分の心に従うな。目の欲に従うな。そうすれば、淫らなことをして、さまよい歩いてしまいます。」

英訳によれば、「あなたは霊的な売春婦になります。」

だから、モーセはイスラエル人たちに言いました。「神とその道に従うように、自分の心を導こう。」

どうして彼らはそうするべきだったのでしょうか。なぜなら、神様はまず彼らを愛してくださり、エジプトの奴隷生活から救い出してくださったからです。

神様が彼らをご自分の民にしてくださったので、彼らは神様に対して聖なるものとなるべきでした。

そのように、神様は私たちをまず愛してくださり、サタンの国から救い出してくださいました。

私たちは神様の愛しているものなので、もう一度自分を霊的な売春婦として罪に売ってはなりません。

むしろ、私たちは神様に対して聖なるものとなるべきです。

私たちは、どのように自分の心を導くことができるでしょうか。

神様はイスラエル人たちに、一つの方法を教えてくださいました。

神様は彼らに、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように命じました。その目的は、服を着るたびに神様に従うように心を導くことを思い出させるためでした。

もちろん、私たちはそうする必要はありませんが、私たちが誰のものであるか、誰に従うべきかを日々思い出す方法を見つけるべきです。

最近、教会の友達が引っ越しをしたところ、そのアパートの礎に、こう書いてあります。

主は私たちの神。主は唯一である。(申命記6:4)

彼がそのアパートに入るたびに、それは彼の房になるかもしれません。

私の「房」は、黙示録4:11に基づく祈りです。毎日、私はこう祈ります。

主よ、私たちの神よ。 あなたこそ 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。

あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。

みこころのゆえ、あなたは私を造られ、もう一日のために息吹を与えてくださいました。

私の人生によって、あなたがあがめられるように。アーメン。

あなたの房は何でしょうか。

自分の房を見つけましょう。

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創世記のデボーション

神の祝福を得るため

ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記32:26)

ヤコブは、生涯を通じて神の祝福を得ようと努力しました。

その祝福を得るため、ヤコブは父と兄を騙しました。(創世記26〜27章)

その後、神の祝福を得るため、ヤコブは神様と交渉しようとしました。(創世記28:20〜22)

そして、今日の箇所では、神の祝福を得るため、ヤコブは神様と格闘しました。

彼が理解していなかったのは、神様が単純にヤコブを祝福したいと願っておられたということです。

ヤコブがするべきことは、神のあわれみと忠実さに信頼することだけでした。神様は、私たちのようなふさわしくない者にも、喜んでそのあわれみと忠実さを示してくださるのです。(10節)

その真理を把握することができれば、私たちはどんなに喜ぶことでしょう。

私たちは、神の祝福を得ようと努力する必要はありません。神のあわれみと真実さを信じ、ただその祝福を受けることができるのです。

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箴言のデボーション

聖書を読むとき

私たちは聖書を読むとき、どのような態度を持っているでしょうか。

私たちはその御言葉を受け入れるでしょうか。もしかすると、私たちは自分に都合の悪い言葉を拒むかもしれません。

神様の命令を心に蓄えるでしょうか。あるいは、その命令を時代遅れとして退けてしまうでしょうか。

私たちは自分の耳を神様の知恵に傾けるでしょうか。もしかすると、その知恵に耳を閉ざすかもしれません。

私たちは自分の心を英知に向けるでしょうか。あるいは、英知に背を向けるでしょうか。

私たちは謙遜な態度で、悟りを得るために神様に呼びかけるでしょうか。あるいは、無関心な態度を持っているでしょうか。

聖書が分からない時、私たちは神様に向かって声を上げるでしょうか。それとも、分からないままで沈黙しているでしょうか。

神様の知恵を銀のように探し求めるでしょうか。あるいは、一円玉のように見過ごしてしまうでしょうか。

隠された宝のように、神様の知恵を探し出すでしょうか。それとも、その言葉を昨日のごみのように放置するでしょうか。

神様は私たちに知識と英知を与えようとされています。神様は私たちを祝福したいと願っておられるからです。

しかし、私たちは本当に、その知識と英知を求めているでしょうか。

主よ、私は毎日、聖書を読むときに、私の心の目と耳を開いてください。私があなたの知恵を見て、聞いて、理解できるよう助けてください。

私の頑なな石のような心を取り除いてください。その代わりに、あなたの言葉を受け入れる柔らかい心を私に与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ローマ人への手紙

私たちが希望を持つため

私たちが聖書を読むとき、なぜ神様が特定の物語や情報を記録されたのか疑問に思うことがあるでしょう。

例えば、なぜ出エジプト記とレビ記には、神様がさまざまな律法を記録されたのでしょうか。ある律法は私たちに関係がありますが、ある律法は、私たちにはまったく関係がないように思えます。

また、なぜ聖書には、レイプや殺害に関する記述が含まれているのでしょうか。

しかし、パウロは興味深いことを記しています。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。

それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。(ローマ人への手紙15:4)

つまり、聖書に書かれているすべてのことには、神様の目的があります。例えば、律法を通して、私たちは神様の聖さ、正義、そして憐れみを見ることができます。

辛い物語を通して、私たちは人間の罪の深さを知ることができます。人々が神様から離れると、どれほどその人生が混乱し、破滅へ向かうのかが分かります。

しかし、そのような物語の中にも、神様がどのように働かれ、苦しみの中から良いことをもたらされるかを見ることができます。

神様の民が迫害されたとき、神様はしばしば彼らを救われました。たとえ彼らが死んだとしても、神様が彼らに平安を与えられたことが分かります。

神様の民が苦しんでいたとき、また、彼らが神様に見捨てられたと感じたときも、私たちは神様が働かれ、彼らを慰めてくださることを見ることができます。

この世の災いを目にするとき、また私たちが迫害や苦しみを経験するとき、私たちは忍耐する希望を持つことができます。

私たちは歩み続ける勇気を受け取り、そして気づくのです—2000年前に人々を救われた神様は、今も生きておられ、私たちの人生の中で働いておられることを。

だから、どんな試練に直面しても、人生が順調であってもそうでなくても、聖書を読みましょう。神様は今も生きておられ、私たちの人生の中で働いておられることを覚えておきましょう。

そして、パウロの祈りを心に留めましょう。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(13)

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ローマ人への手紙

神様の思いを知ること

新改訳では、ローマ人への手紙12:2は次のように訳されています。

この世と調子を合わせてはいけません。(ローマ人への手紙12:2)

けれども、私はある英語訳も気に入っています。

この時代と調子を合わせてはいけません。

私たちはよく、「この時代」や「時代の変化」について話します。

もちろん、世界は日々変化しています。

私は1995年に日本に引っ越しましたが、当時はインターネットやメールがまだ新しいものでした。そのため、アメリカにいる家族と連絡を取る際は、航空便を送ったり、固定電話で電話をかけたりしていました。

時には、公衆電話とテレフォンカードを使うこともありました。(おそらく若い人には何のことかわからないかもしれません。)

けれども、テクノロジーの進歩だけでなく、人々の考え方も変化しました。特に道徳観念は大きく変わりつつあります。何が恥ずべき行為であり、何が悪い行為なのかという価値観は、今なお変化しています。

さらに、日本については確信がありませんが、欧米諸国では、人々が「寛容の時代」を生きていることが顕著に見受けられます。

私の言葉を誤解しないでください。もちろん、寛容そのものは良いことです。

「寛容」を正しく定義すると、その意味は 「私はあなたの意見に同意できないが、それでもあなたを尊重する」 ということです。そして、人々はその寛容を持って共に働き、互いに丁寧に接し、友好的な関係を築くことができます。

とはいえ、現代では「寛容」の意味が変化しています。それは 「すべての意見が正しい」 という考え方です。

つまり、もし二人が意見の対立をしても、「一方の意見が正しく、もう一方が間違っている」とは言えないことになっています。たとえ両者の意見が相反していても、どちらも「正しい」とされるのです。

そのため、「あなたの意見は間違っている」と発言すると、その人は「偏狭で悪い人」と見なされてしまいます。

ところが最近、特に欧米諸国では、クリスチャンの価値観に対して、多くの人々がこの「寛容な態度」を放棄しているのが現状です。

その結果、皮肉なことに、彼らはクリスチャンに対し 「あなたは間違っている。考え方を改めなければならない」 と迫るようになっています。

けれども、私たちが神様の思いを本当に知りたいと願うなら、この時代の人々の考え方に流されてはいけません。なぜなら、人々の価値観は変わり続けていますが、神様の考え方は決して変わらないからです。

とはいえ、この世の流れに同調するよう求められる圧力は、至るところからやってきます。社会からも、家族からも、友人からも影響を受けます。どこへ行っても、そのプレッシャーを感じるものです。

特に日本では、「和」という価値観が非常に重要視されています。そのため、私たちは調和を保つことへの圧力を感じます。

もちろん、可能な限り平和を守ることは大切です。パウロはこう語りました。

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ書12:18)

しかし、私たちが神様の御言葉に逆らうよう求められる圧力を感じることもあります。

そのようなときこそ、私たちはこの世の流れに迎合してはいけません。なぜなら、それは滅びへと導く道だからです。そして、私たちは神様を悲しませるだけでなく、人々を傷つけ、自分自身をも傷つけてしまいます。

だからこそ、この世の流れに流されることなく、パウロの言葉に従いましょう。

むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。(2b)

どのようにして私たちは心を新たにすることができるでしょうか。それは、神様の言葉によって可能になります。私たちは聖書を読み、深く味わい、聖霊の力によってその言葉に従います。

そうすることで、私たちは真の命を知ることができます。なぜなら、心の変化だけでなく、人生そのものが変えられるからです。

私たちは神様の計画のもとに生き始めます。私たちの結婚は祝福され、困難の中でも平安を知ることができます。死の影の谷を歩む時でさえ、私たちは喜びを見出すことができます。

簡単に言えば、私たちは神様の御心を知り、何が善であり、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるのです。

あなたはどうですか。あなたの思いはこの世の価値観に流されているでしょうか。それとも、神様の御言葉によって新たにされつつあるでしょうか。

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使徒の働き

み言葉に専念する?

数年前、私の友人はFacebookで記事を掲載しました。そのタイトルは「教会をやめた人」でした。

その記事には、ある敬虔なクリスチャン—つまり、聖書をよく学び、惜しげもなく献金をささげ、熱心に人々を導いていたクリスチャンが、教会をやめてしまったという話が書かれていました。

その人は信仰を捨てたわけではなかったようです。それでも、教会を去りました。その人は「教会の中で、私は最も積極的な人の一人だったし、最も忠実な人の一人だった」と言っていたにもかかわらず、教会をやめました。

その人はいくつかの理由を挙げていたので、私は今後数日にわたり、そのことについて話したいと思います。

正直に言えば、私の愛する人々がその著者の意見に同意すると聞くと、本当に悲しくなります。

その著者の最初の理由は、「私は牧師のメッセージを何百回も聞いたので、もうわかっているし、訓戒されるのはもう嫌だ」ということでした。

けれども、この箇所では、教会の模範、またクリスチャンの生活の模範が示されています。

今日は、一つのことに焦点を当てたいと思います。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り[ました]。(使徒の働き2:42)

新改訳では、「使徒たちの教えを守る」と書かれていますが、「守る」と訳された言葉にはさまざまな意味があります。

そのため、翻訳者は使徒の働き1:14で、その言葉を「専念する」と訳しました(これは第3版です)。

また、使徒の働き6:4では、その言葉を「励む」(第3版)、または「専念する」(第4版)と訳しています。

要するに、この箇所を次のように訳すことができます。「彼らはいつも使徒たちの教えに専念しました。」

多くの英語の聖書では、42節はこのように翻訳されています。

とにかく、初期のクリスチャンたちは神様の言葉に熱心でした。彼らはその言葉を知りたいと願いました。彼らはその言葉に従いたいと思いました。

だから、「訓戒されるのはもう嫌だ」と言う人に、私はこう訊きたいと思います。

「あなたはみ言葉にどれだけ専念しているでしょうか。聖書が本当に神様のみ言葉であると信じていますか?使徒の働きの時代のクリスチャンのように、あなたはみ言葉に対する強い熱心を持っていますか?

それとも、聖書の教えはもう古臭いと感じていますか?その教えはあなたの人生に関係ないと思いますか?」

もちろん、説教する際に人を見下す牧師もいます。彼らは「すでに到達した」という態度を示すかもしれません。その場合、私は教会をやめた人の言い分を理解できます。

とはいえ、それは本当の問題でしょうか。

少し自分自身に、次の質問をしてみてください。

「私が聖書を読んで、聞きたくないことを目にしたとき、私は訓戒されていると感じるだろうか。」

残念ながら、多くのクリスチャンは聖書を読むとき、好きな箇所だけを選び、聞きたくない言葉が含まれる箇所を避けてしまいます。

その結果、教会に行くと「私は訓戒されている」と感じてしまうのです。

しかし、私たちがクリスチャンなら、み言葉に専念しなければなりません。励ましや慰めの言葉であれ、挑戦や訓戒の言葉であれ、私たちはそのすべてに専念すべきです。

「何百ものメッセージを聞いたし、もうわかっている」という言い分に関して、私たちは自分自身に同じような質問をするべきだと思います。

聖書を読むとき、私はもう何も学ぶことがないのでしょうか。すでにすべてを読んだから、すべてを知っているのでしょうか。それとも、神様は今もなお、その言葉を通して私に語り続けておられるのでしょうか。

正直に言うと、「もう全部読んだことがあるし、メッセージの内容を聞いたことがある」という感覚はよくわかります。それでも、二つのことを伝えたいと思います。

一つ目は、私が40年来のクリスチャンですが、今でも学び続けているということです。聖書を読むときや、日曜日のメッセージを聞くとき、神様が私に新しいことを示してくださることもあります。その時、私は本当に興奮します。

二つ目は、あなたは同じことを何回も聞いたことがあるかもしれません。けれども、その言葉に従っていますか?その言葉は、あなたの頭から心へと移動したでしょうか。

例えば、あなたは許しのメッセージを何回も聞いたことがあるでしょう。でも、あなたを傷つけた人をすでに許してあげましたか?

また、怒りや苦々しい思いを手放すことの大切さについて聞いたことがあるでしょう。その怒りと苦々しい思いを、もう手放しましたか?

要するに、あなたの人生の中で、神様の言葉は生きていて、力を持ち、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるほどに刺し貫き、あなたの心の思いや計画を見分けていますか。(へブル4:12)

それとも、その言葉はあなたの左の耳に入り、右の耳から抜けていくのでしょうか。

もちろん、私はあなたの経験をよく知りませんし、教会をやめた人の経験も知りません。

もし、あなたの牧師がいつも皆さんを見下しながら説教しているのなら、別の教会に行った方がいいかもしれません。

しかし、それが本当の問題でしょうか。

あるいは、問題は神様のみ言葉に対するあなたの態度にあるのでしょうか。

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箴言

私たちは誰に相談するべきか

私は高校生の時、「Who to listen to」(誰に相談するべきか)という歌を聞きました。その歌詞はこうでした。

誰に聞いた方がいいか、誰に聞かない方がいいかを知っていなくてはなりません。

さまざまなアドバイスがあちこちから来ます。

だから、誰に聞いた方がいいか、誰に聞かない方がいいかを 決めなくてはなりません。ーーエイミー・グラント

それはソロモンのメッセージです。

最初に、彼は私たちが誰に聞いた方がいいか教えます。

わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。(箴言1:8-9)

私たちの両親が神様の御言葉に合うことを教えてくださる限り、そのアドバイスを聞いた方がいいです。なぜなら、私たちよりも、彼らがいろんなことを経験しているので、私たちに知恵を与えてくださるからです。

振り返ると、私は父からいろんなことを学びました。父は特に、友達の大切さと正直に言う大切さを教えてくれました。その会話は本当に短かったけど、今でも、その教えを覚えています。

時々父に叱られて、その教訓は痛かったです。けれども、その教訓によって、私は成長したので、私は感謝しています。

とにかく、ソロモンは言い続けます。

わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。(10)

この場合、ソロモンは私たちが罪人に従い、ほかの人々を襲わないように警告します。

けれども、周りの人々は私たちをいろんな罪で誘惑するかもしれません。例えば、私の友達は同僚に海外旅行に行って売春婦と遊ぶことに誘われました。彼は断りました。

しかし、時々ほかの人々は愚かなので、エイズやほかの性病にかかりました。

時々、ある人々はあなたの最善を望んでいるけれども、聖書に反するアドバイスを与えます。例えば、「彼女を愛しているでしょう?彼女と関係をもってもいいよ。一緒に住んでもいいよ。」と言います。

しかし、その結果はどうなるでしょうか?妊娠してしまったり、中絶したりして、いろんな苦しみが来るのです。

あなたは誰に聞いていますか。あなたは誰から助言を求めていますか。

どの助言を聞いても、その助言を神様の御言葉と比べてください。聖書に合うなら、その助言に従ってください。けれども聖書に合わないときは、聖書に従ってください。

そうすれば、問題を避け、本当の喜びを見つけます。