この10年間、このブログでは、私たちは聖書の初めから終わりまでを読み通してきました。そして、今日の聖句では、歴史の集大成が描かれています。聖書のすべてがその時に成就するのです。
創世記では、私たちはエデンを見ました。アダムとエバが罪に落ちる前、彼らはエデンで神様と共に歩みました。
けれども、彼らが罪を犯し、被造物のすべてが呪われた後でも、神様は人間を見限ることはありませんでした。むしろ、神様はノア、アブラハム、イサク、ヤコブを選び、ご自分の民とされました。
その後、イスラエル人たちは神様の民となり、神様は彼らの神となりました。
そして、イエス様の死と復活の後、神様はその権利をイエス様を信じるすべての人々に拡げ、彼らも神様の民と呼ばれるようになったのです。
21章では、私たちはその物語の集大成を目にします。ヨハネは新しい天と新しい地を見ます。そして、もはや海は存在しないのです。
「海はない」とは、文字通りのことなのか、判断がつきません。
黙示録では、海は悪の象徴とされてきました。たとえば、13章では、獣が海から上がってきました。ですから、ヨハネが意味しているのは、悪とそのカオスが完全に消え去るということかもしれません。
そして、ヨハネはこう語ります。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(黙示録21:2)
もう一度、私はこの描写が文字通りのことなのかどうか、疑問に思います。ヨハネは文字通りの都市を見ていたのでしょうか。 それとも、キリストの花嫁である神様の民だけを見ていたのでしょうか(エペソ5:25〜32)。あるいは、都市とその民の両方を見ていたのでしょうか。
いずれにしても、次の聖句では、私たちは最も大切なことを目にします。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(3)
神様は、かつてアダムとエバと共にエデンを歩まれました。彼らは神様の民であり、神様は彼らの神でした。けれども、彼らは最終的に罪に落ちてしまいました。
神様がイスラエル人をエジプトから救い出すと約束されたとき、 神様は彼らにこう告げられました。「あなたたちは私の民となり、私はあなたたちの神となります」(出エジプト記6:7)。
そのとき、幕屋は、神様が彼らの間に住まわれることの象徴となりました(出エジプト記40:34〜35)。
彼らが約束の地に入ったとき、神殿は幕屋に代わって神様の住まいとなりました。神殿もまた、神様が彼らの間に住まわれることの象徴でした(列王記第一8:10〜12)。
ところが、イスラエル人が再び罪を犯したため、神様の御霊は神殿から離れられました(エゼキエル書10:18)。
その神殿は破壊されたり、再建されたりしましたが、西暦70年には再び破壊され、今に至るまで再建されていません。
今では、神様の民自身が神様の神殿です。神様は私たちのうちに住んでおられます(第一コリント6:19)。
そして、すべてが成就する日には、私たちは永遠に神様の御前にいて、神様のみ顔を仰ぎ見ることになります。
そのとき、神様は私に希望を与える言葉を語ってくださいます。
見よ、わたしはすべてを新しくする。(5)
そして、天の父は、十字架上でイエス様が語られた言葉に少し似たことを語ってくださいます。
事は成就した。(6a)
イエス様が「完了した」と語られたとき、イエス様が意味されたのは、私たちの罪の罰が支払われたということです。
けれども、天の父が「事は成就した」と語られたとき、神様が意味されたのは、神様の救いの計画のすべてが成就し、私たちがついに神様の家にいるということです。
そして、アルファであり、オメガであり、初めであり、終わりである方がこう語られます。
わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(6b-7)
私たちは皆、苦しみの時を経験します。時に、その苦しみは絶え間なく、また耐えがたいもののように感じられます。
それでも、その苦しみは永遠に続くものではありません。神様はすべてのことを支配しておられます。神様は初めからすべてを支配しておられ、決してその支配を失われません。
神様はすでにこの物語の結末を書いておられます。その結末とは、私たちが永遠に神様と共にいることです。
ですから、神様から目を離さないでください。あなたの試練は永遠ではないことを覚えておきましょう。神様はあなたを、ご自分の家に導いてくださいます。
その日に関して、ヨハネはこう語ります。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(4)
