ヨシュアはその全地、すなわち、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地、そのすべての王たちを討ち、一人も残さなかった。息のある者はみな聖絶した。イスラエルの神、主が命じられたとおりであった。(ヨシュア10:40)
正直に言えば、上の言葉には腑に落ちない思いを覚えるかもしれません。なぜ神様はそのような命令を出されたのでしょうか。
一言で言えば、それは「さばき」です。
人が聖絶されるとは、その人が神のさばきの下にあり、滅びるべきものとして神の前に定められたことを意味します。
したがって、イスラエルの民がアモリ人の命を奪ったのは、自分たちの都合によるものではなく、神様ご自身のさばきを執行したということなのです。
アモリ人たちは、何のためにさばかれたのでしょうか。
それは、自分たちの罪のゆえです。
レビ記18章で、神様はその罪を具体的に示され、「その地は、そこに住む者を吐き出す」と語られました(レビ記18:24〜25)。
とはいえ、神様は忍耐深く、アモリ人の悔い改めを約400年の間、待っておられました(創世記15:13〜16)。
それでも、彼らは決して悔い改めようとはしませんでした。
そして、その罪が満ちたとき、さばきが下されました。神様は、アモリ人たちをことごとく討つように、ヨシュアとイスラエルの民に命じられました。
前回の記事では、私は述べました。聖書のことばの全体が、神の愛とあわれみについての心強いメッセージだけではないということです。さばきについての厳しいことばもあるのです。
もちろん、神様は忍耐深いお方です。神様はだれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)。
しかし、アモリ人たちのように、人々が悔い改めようとしないなら、最終的にさばきは訪れます。
だからこそ、私たちは自分の罪を決して軽く見ないようにしましょう。
さばきの日が来ることを心に留めておきましょう。
そして、ペテロのことばをしっかりと心に刻みましょう。
しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。
このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。
そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。(第二ぺテロ3:10ー12)
