カテゴリー
使徒の働きのデボーション

私が必要なのは。。。

イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1:7ー8)

主よ、私は、あなたがいつこの世に帰られるかを知る必要はありません。

また、コロナがいつ終息するかも、タリバンがいつ倒れるかも、知る必要はありません。 それらはすべて、天の父がご自身の権威によって定めておられることだからです。

でも、私に必要なのは、あなたの聖霊が私のうちに住んでおられることです。 あなたを知らず、傷ついている人々に触れるために、私にはあなたの力が必要です。

だから、聖霊様、私を満たしてください。私にあなたの力を与えてください。私を導いてください。そして、私の愛する人々にどのように触れることができるかを教えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
ローマ人への手紙

私たちがイエス様に属すると

5-8節を読むと、私は、パウロがクリスチャンについて話しているのかどうか疑問に思いました。

つまり、パウロは、神様をまったく知らず、自分の罪深い心に従う人について話しているのでしょうか。

それとも、パウロは、かつての罪深い心の残された影響に従い続けるクリスチャンについて話しているのでしょうか。

けれども、9節を読むと、パウロがノンクリスチャンについて話していることが明らかになります。

パウロはこう語りました。

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。

もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。(ローマ人への手紙8:9)

5ー8節では、パウロが語っているのは、罪深い心を持つ人(つまり、「肉のうちにある人」)は、神様を喜ばせることができないということです。実際、その人は神様に敵対しており、その行く道は死へと導かれます。

けれども、9節では、パウロは御霊を持っている私たちを、そのような人と対比しています。

パウロが語っているのは、御霊を持っていないなら、あなたはキリストのものではないということです。要するに、あなたは本当にクリスチャンではありません。

しかし、聖霊様があなたのうちにおられるなら、聖霊様はあなたの心の中で働き、イエス様と同じかたちにあなたを変えてくださいます。あなたはもはや罪深い心の奴隷ではありません。

そして、パウロはこう語ります。

キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。(10)

パウロによれば、私たちは罪のゆえに皆、やがて死を迎えます。それでも、イエス様は私たちのうちにおられ、ご自身の義を私たちに与えてくださいます。

だから、私たちの体が死んでも、私たちの魂は生き続けます。

けれでも、心に留めてください。神様は私たちについて「無罪」と宣言されるだけでなく、私たちを真の義人へと変えてくださいます。

そして、パウロは続けてこう言います。

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。(11)

私たちは二つの希望を持っています。

第一の希望は、私たちのうちにおられる御霊のゆえに、私たちの体が死んでも、新しく朽ちることのない体を受けることです。

しかし、今もなお、聖霊様は私たちに命を与えてくださっています。聖霊様は私たちをイエス様と同じかたちへと変えてくださいます。私たちの性格は変わりつつあり、神様の御計画のとおりに歩み始めます。

それでは、私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

そして、パウロはこう語ります。

ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。

しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。(12-14)

つまり、私たちは、死んだものに対して何の義務も負っていません。私たちは、かつての罪深い心を拝んではなりません。かつて、その罪深い心は私たちを死へと導いていました。

けれども、今や、聖霊様の力と導きによって、私たちはその罪深い影響を滅ぼし、真の命を知ることができます。パウロによれば、神様の子供たちは皆、そのように歩みます。

あなたはどうでしょうか。あなたは、罪深い心に義務があるかのように生きているでしょうか。それとも、聖霊様の導きによって、神様の子供として歩んでいるでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

御霊に満たされるなら

私が子供のころ、あるアクションドラマには「一人の人でも、この世を変えられる」というテーマがありました。

この箇所では、その真理を見ることができます。けれども、そのモットーを少し変えたほうがいいかもしれません。それは、「御霊に満たされれば、一人の人でもこの世を変えることができる」ということです。

パウロたちはマルタという島に到着し、寒さをしのぐために火を焚きました。けれども、パウロが枯れ枝を集めたとき、まむしが彼の手に噛みつきました。しかも、そのまむしはパウロの手にぶら下がっていました。

島の人々はそれを見て、こう言いました。

この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。(使徒の働き28:4)

しかし、パウロがそれでも生きていたため、彼らは「この人は神だ」と思い始めました。

もちろん、パウロは彼らの誤った考えを正し、真の神について教え始めました。

その後、パウロは島の長官プブリウスの家を訪問し、プブリウスの病気の父のために祈りました。その父が癒されたので、多くの人々がパウロのもとへ訪れました。そして、パウロは彼らの病気を癒しました。

その結果は?

マルタはキリスト教を信じる国となり、今なお、キリスト教はマルタの主要な宗教です。

私のポイントは?

聖霊が私たちのうちに働くなら、私たちはこの世を変えることができます。

私たちはまむしを手から振り落とすことはないかもしれませんし、人を癒すことはできないかもしれません。けれども、聖霊が私たちのうちで働くなら、周囲の人々はそれに気づき、聖霊の働きによって変えられます。

だから、毎日、御霊に満たされましょう。(エペソ人5章18節)

そうすれば、周囲の人々は私たちを通して神を知るようになります。

カテゴリー
使徒の働き

聖霊と信仰に満ちている人

バルナバはとても素晴らしい人でした。使徒の働き4章では、彼は自分の土地を売り、その代金を教会に捧げて貧しい人々を助けました。

そして、9章では、使徒たちや他のクリスチャンたちがサウロを疑い、恐れていたとき、バルナバは彼を支持しました。

さらに、この箇所では、バルナバは異邦人たちに働きかけ始めました。クリスチャンたちが異邦人の間で実を結び始めると、使徒たちはバルナバを彼らのもとへ遣わしました。

そして、23節にはこう書かれています。

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。(使徒の働き11:23)

その後、バルナバはサウロを呼び、アンティオキアの信者たちに仕えました。(その場所で、信者たちは初めて「クリスチャン」と呼ばれました。)

そして、大飢饉が起こるという預言を聞くと、バルナバとサウロはアンティオキアで救援物資を募り、それをエルサレムへ持ち帰り、そこで苦しんでいるクリスチャンたちを助けました。

しかし、24節の言葉は私の心に深く響きます。

(バルナバ)は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。(24)

私もそんな人になりたいと思います。立派な人になりたいです。

前にも言いましたが、「バルナバ」とは彼のニックネームでした。本名はヨセフでした。けれども、彼は皆に愛され、「バルナバ」、つまり「慰めの子」と呼ばれるようになりました。

なぜバルナバはそのような生き方をしたのでしょうか。それは、彼が聖霊と信仰に満ちていた人だったからです。

彼は聖霊に満たされ、豊かな実を結びました。彼の心から愛が溢れました。

他の人々がある人を信じなくても、バルナバはその人を信じました。彼は惜しみなく自分の財産や時間を人々に与えました。さらに、彼の言葉によって、多くの人々が励まされました。

バルナバの信仰は、ただイエス様を信じるだけではありませんでした。その信仰は彼の人生のすべてに浸透し、周りの人々にも影響を与えました。

その結果は?

こうして、大勢の人たちが主に導かれた。(24b)

私はそのことを強く望みます。人々が私の人生を見て、イエス様に魅了されるほどに、私は聖霊と信仰に満ちた人になりたいと思います。

「私の信仰は個人的なものだから、あまり話さない」と言う人もいます。

ある人は、聖霊に満ちることをただ自分の益のためだと考えています。彼らは祝福を受けたいと思っているのです。

しかし、もし私たちが本当に聖霊と信仰に満ちているなら、私たちの人生は完全に変わります。

私たちの考え方が変わります。

私たちの生き方が変わります。

神様の愛が私たちを通して流れ、人々に触れることで、彼らは神様に魅了されます。

あなたはどうでしょうか。あなたは聖霊と信仰に満ちているでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

喜びを分かち合う?

この箇所では、クリスチャンたちはエルサレムを離れ、キリストによる喜びを広げ始めました。とはいえ、彼らはエルサレムから押し出される必要がありました。

ステパノが殺された後、サウロというパリサイ人がクリスチャンたちを迫害し始めました。

皮肉なことに、サウロはキリスト教を根絶しようとしましたが、その迫害によってキリスト教はかえって広まり、多くの新しい教会が生まれました。

その後、クリスチャンになったサウロは宣教者として教会を訪れて強め、さらに多くの新しい教会を設立しました。その結果、キリスト教はローマ帝国全体に広がっていきました。

けれども、もし使徒たちが初めから使命を忠実に果たしていたなら、神様はこの迫害を許されたでしょうか。イエス様は彼らに命じられました。

あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)

そして、イエス様は天に帰られる直前に、弟子たちにこう言われました。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

それでも、御霊が彼らの上に臨んだ後も、使徒たちはエルサレムにとどまり続けました。

もしイエス様の命令通りに彼らがエルサレムを離れていたなら、教会は迫害を受けたでしょうか。また、使徒たちは隠れなければならなかったでしょうか。

そうかもしれません。けれども、もしかすると彼らはその困難を避けることができたかもしれません。

迫害が始まっても、使徒たちはなおエルサレムにとどまり続けました。なぜだったのでしょうか。それははっきりとは分かりません。

彼らは教会の人々に自らの勇気を示したいと思ったのかもしれません。しかし、主の命令への不従順は続いていました。

一方、ほかのクリスチャンたちはエルサレムを離れました。

執事のひとりであるピリポは、サマリアへ行きました。イエス様はかつてサマリアを訪れましたが、多くのユダヤ人はサマリアを避けていました。彼らはサマリア人を軽蔑していたからです。

けれども、ピリポはイエス様の模範に従い、サマリアで福音を述べ伝え、奇跡を行いました。その結果はどうだったでしょうか。

その町には、大きな喜びがあった。(使徒の働き8:8)

自己中心になるのは簡単なことです。自分のことだけを考えるのは、誰にとっても容易なことです。しかし、イエス様が望まれるのは、私たちが受けた喜びを周りの人々と分かち合うことです。

多くの人々が苦しんでおり、イエス様を必要としています。だからこそ、私たちは毎日御霊に満ち溢れるべきです。そうするならば、私たちが周りの人々に触れるとき、彼らは御霊に触れられ、変えられるのです。

カテゴリー
使徒の働き

神様の働きに加わる?

正直に言うと、神様は私に人に触れる機会を何度も与えてくださるのに、私はその機会を何度も逃してしまいます。なぜでしょうか。それは、私が自分の予定に集中しすぎてしまうからです。

例えば、私は買い物に行って誰かに出会っても、挨拶だけしてすぐに買い物に戻ってしまいます。時には本当に時間がないかもしれません。

とはいえ、なぜ私はその人と約束をしなかったのでしょうか。むしろ、多くの場合、私は心の中で言い訳をし、すぐに立ち去ってしまいます。

今日の箇所では、乞食の前を通り過ぎるとき、ペテロとヨハネが同じように言い訳をするのは簡単だったでしょう。なぜなら、彼らはちょうど神殿へ向かっている途中でした。彼らには神様を礼拝する予定がありました。だから、乞食と話す時間がなかったはずです。さらに、彼らにはお金が全くありませんでした。

そのため、乞食を無視するのは本当に簡単なことだったでしょう。

また、「ごめん、お金がない」と言って、そのまま立ち去ることも簡単だったでしょう。

けれども、彼らはそうしませんでした。彼らは立ち止まり、その人を見つめました。

そして、自分たちができないこと(つまり、お金を渡すこと)を気にせず、聖霊様ができることを示しました。

ペテロはこう言いました。

金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。(使徒の働き3:6)

そして、ペテロはその乞食の手を取って立たせました。すると、その乞食は突然歩き始め、跳びはね、神様を賛美し始めたので、皆は驚きました。

あなたはどうでしょうか。自分の予定に集中しすぎて、聖霊様が何をしたいのかを見逃してはいないでしょうか。

自分の限界に意識を向けすぎて、聖霊様が何をすることができるのかを見落としてはいないでしょうか。

毎日、聖霊様の導きに従って歩みましょう。聖霊様がどのように働かれるのかを見て、その導きに従い、その働きに加わりましょう。

カテゴリー
使徒の働き

イエス様の再臨を待つ

イエス様が天に上っていくのを目にするのは、本当に驚くべき光景だったでしょう。だから私は、弟子たちが口をぽかんと開けて、イエス様が見えなくなるまで空を見つめていたことがよく理解できます。もし私がその場にいたなら、同じことをしていたでしょう。

しかし、そのとき二人の天使が現れて、彼らにこう言いました。

ガラリヤの人たち、どうして天を見上げて、立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

その言葉から、私たちは二つのことを学ぶことができます。

一つ目は、私たちの希望の理由です。この世は混乱し、ますます悪化しているように見えますが、イエス様は必ずこの世に戻られます。その日、イエス様はすべてを新しくされます。

二つ目は、イエス様が戻られるまで、私たちには果たすべき重要な使命があるということです。

おそらく、天使たちが伝えたかったのは、「ここにただ立ち尽くしているのではなく、イエス様の言葉に従いなさい」ということだったのでしょう。

弟子たちはまずエルサレムに行き、御霊を待つ必要がありました。もし私たちがミニストリーを志すなら、まず同じように、御霊を待つことから始めるべきです。

前回の記事で述べたように、私たち自身の力には限界があります。しかし、聖霊に満たされた人は、この世を変えることができます。

だから、この世を見渡すとき、ただ不平不満を言うだけではなく、ただ天を仰ぎながらイエス様の再臨を待つだけでもなく、むしろ、聖霊に満たされて、神様の言葉に従いましょう。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ24章 使徒の働き

世界を変える力

それでは、福音書に関する最後の記事です。そして今日から、使徒の働きについてお話しします。

以前気づいていたかどうかわかりませんが、おそらく使徒の働き1:4で、ルカはルカの福音書24:49を参照しているでしょう。その箇所では、イエス様は弟子たちに「聖霊様が来るまで、エルサレムで待ちなさい」と命じられました。

その後、およそ40日が経ち、イエス様は弟子たちをベタニヤ、つまりオリーブ山へ連れて行かれました。

オリーブ山に立っていた時、弟子たちはゼカリヤの預言を覚えていたかもしれません。ゼカリヤの預言によれば、国々がイスラエルを征服した後、主はオリーブ山に降り立ち、その国々と戦って、世の王となられます。(ゼカリヤ書14章)

もしかすると、彼らはその預言を思い出し、それを確かめるためにイエス様に尋ねたのかもしれません。

主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。(使徒の働き1:6)

しかし、イエス様はこのように答えられました。

いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威を持って、定めておられることです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:7-8)

多くの人々はイエス様がいつ戻られるのかを気にします。もちろん、イエス様の再臨のしるしに注意を払うことは重要ですが、それ以上に、イエス様が戻られるまでの間に私たちはイエス様から受けた使命に目を向けなければなりません。

それは何でしょうか。それは、福音を宣べ伝えることです。私たちはイエス様の証人となるべきです。

では、イエス様の証人になるとはどういうことでしょうか。

基本的に、それは私たちが見たこと、聞いたこと、そして知っていることを伝えることです。

イエス様があなたの人生にどのように働かれたかを伝えるべきです。あなたが教会で学んだことや、聖書から得た教えを周りの人々に分かち合うべきです。そうすれば、私たちはこの世を変えることができます。

とはいえ、私たち自身の中には世を変える力はありません。私たちの言葉だけでは、人の心を変えることはできません。

むしろ、私たちの内に住んでおられる聖霊様こそが、ご自身の力によってこの世を変えることができます。私たちの力では何も成し遂げることはできません。

だからこそ、イエス様は弟子たちに「あなたたちはすべてのことを知っているから、行きなさい。この世を変えなさい」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らにこう言われました。「聖霊様が来るのを待ちなさい。聖霊によるバプテスマを受ける時、あなたがたは力を受けます。その後、行きなさい。」

私たちはしばしば、自分の力と知恵によってミニストリーをしようとします。そうすると、多くのことを成し遂げるかもしれません。

けれども、本当にこの世界を変えたいと願うなら、聖霊によるバプテスマが必要です。私たちは聖霊様の力に満たされるべきです。なぜなら、人間の力や知恵には限界があるからです。

一方で、神様には限界がありません。

聖霊様、どうか私を満たしてください。 私はしばしば、自分の知恵と力によってミニストリーをしようとしてしまいます。けれども、あなたから離れては私は何もすることができません。

私はもう、自分の力や知恵に頼ることに疲れました。だから、聖霊様、私を満たしてください。あなたのためにこの世に影響を与えるために、力を与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ28章

私たちと共におられる方

私たちはもうすぐ福音書を読み終えます。予想以上に時間がかかりましたが、それでも楽しむことができました。

さて、イエス様は弟子たちに指示を与えた後、こう言われました。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイの福音書28:20)

イエス様はすぐに天に戻られる計画を立てておられました。そして、イエス様が天に戻られた後、弟子たちは大きな使命を担わなければなりませんでした。それは神の国を広げることです。

もちろん、その使命には喜びが伴いました。しかし、イエス様が弟子たちに教えられたのは、彼らが迫害や苦しみを必ず経験するということでした。最終的に、弟子たちの多くは自分の信仰のために命を捧げました。

それでも、イエス様は彼らにこう約束されました。

「あなたがたは私を見なくなります。それでも、私はいつもあなたがたと共にいます。あなたたちを捨てて孤児にすることはありません。

むしろ、私はあなたたちに聖霊様を与えます。そして、聖霊様はあなたたちと共に住み、あなたたちのうちにおられます。」(ヨハネ14:16-20)

イエス様は私たちにも同じ約束を与えてくださいました。私たちがどこへ行っても、何をしていても、どんな喜びや苦しみを経験していても、イエス様は私たちを決して見捨てることがありません。

イエス様は今も私たちと共におられ、永遠に私たちと共にいてくださいます。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ3章

新しく生まれる?

ヨハネの福音書3章は、聖書の中でも特に有名な箇所の一つです。この章でイエス様は「新しく生まれること」について語られます。しかし、それはどういう意味なのでしょうか。

この話では、ニコデモというパリサイ人がイエス様を訪ねます。

イエス様がいくつもの奇跡を行い始めていたため、ニコデモはほかのパリサイ人とは異なり、イエス様を尊敬していました。彼はイエス様が行った奇跡を通して、イエス様が神様のもとから来られた方であることを認めました。

では、なぜニコデモはイエス様を訪ねたのでしょうか。それについて明確な答えはありません。

確かに彼は、まだ大胆にイエス様の弟子になる決意ができていなかったでしょう。実際、彼は夜にこっそりイエス様を訪ねました。それでも彼は、イエス様と直接話し、相談することを選びました。

ニコデモは丁寧にイエス様に挨拶しましたが、イエス様は挨拶を返すことなく、率直に核心をつく言葉を話されました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネの福音書3:3)

ニコデモはそれを聞いて、驚きました。彼はパリサイ人であり、神様の律法を尊重し、それに従おうと懸命に努力していました。おそらく彼は、天国に行くためにはその律法を完全に守らなくてはならないと考えていたのでしょう。

けれども、イエス様はこう言われました。「その考え方は間違っています。神様の国に入るためには、あなたは新しく生まれなければなりません。」

ニコデモにはイエス様の言葉の意味が全く理解できませんでした。そのため、彼は質問しました。

人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。(4)

福音書、特にヨハネの福音書では、このような問題をしばしば目にします。つまり、イエス様が霊的な真理を教えようとしているのに対して、人々が物理的な考え方にとらわれてしまうということです。

私たちも、どれほど物理的な考え方を持っているために、神様の真理を理解できないことがあるでしょうか。

いずれにせよ、イエス様の次の言葉によって、ニコデモはさらに混乱してしまいました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。(5)

「水によって生まれる」という言葉にはさまざまな解釈がありますが、おそらくイエス様はエゼキエル書37:25-27を参照されていたのではないかと考えられます。

その箇所では、神様が「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかける」と語られています。

この言葉の意味は「あなたがたを罪から清める」ということです。おそらく、これが「水によって生まれる」という言葉の真意でしょう。

さらにその箇所では、神様が続けて「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と語っておられます。これこそ「新しく生まれる」という意味です。

神様は私たちに新しい心と霊を与えてくださいます。そしてその新しい心と霊を持つことによって、私たちは自然に神様を喜ばせたいと願うようになるのです。

ニコデモはパリサイ人であり、きっとエゼキエル書のこの箇所をよく知っていたことでしょう。そのため、イエス様はこの言葉をおっしゃったのかもしれません。

あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。(7)

この世に入るためには、私たちはまず生まれなくてはなりません。私たちの働きによって、この世に入ることはできません。ただ、生まれることがその条件です。

同じように、神様の国に入るためには、その国に生まれなくてはなりません。あなた自身の働きによって、神様の国に入ることはできません。ただ、その国に生まれる必要があります。言い換えると、御霊によって生まれることが必要なのです。

そのため、エゼキエル書で神様はユダヤ人にこう語られました。

わたしの霊をあなたがたのうちに授け[ます]。(エゼキエル書36:27)

物理的な出産は母の働きによるものです。霊的な出産は御霊の働きによるものです。

そして、イエス様は御霊を風にたとえられます。風の影響は私たちに見えますが、風そのものを見ることはできません。

同じように、私たちには御霊を見ることはできませんが、御霊は人間の心の中で働き、その人を内側から変えてくださいます。

そして、最終的には私たちは御霊の働きの結果を見ることができます。御霊によって私たちは全く違う人へと変えられます。つまり、私たちは新しく生まれ変わるのです。

ニコデモはこの真理を知っているはずでした。預言者エレミヤはこの真理について教えています(エレミヤ書31:31-34)。そしてもちろん、エゼキエルも同じ真理を教えていました。

しかし、ニコデモは自分の働きによって神様の国に入ることができると考えていたようです。

あなたはどうでしょうか。自分の働きによって天国に入ろうとしていませんか。それとも、あなたはすでに新しく生まれ変わっているのでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ3章 マルコの福音書 マルコ1章 ヨハネの福音書 ヨハネ1章 ルカの福音書 ルカ3章

天の父に愛され、御霊に満たされた人

バプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていた時、イエス様もヨハネのもとを訪れ、バプテスマを受けることを求められました。彼らはいとこでしたが、ヨハネはイエス様について何を知っていたのでしょうか。

ヨハネの両親はイエス様について何を教えたのでしょうか。そして、神様はヨハネにイエス様についてどのようなことを示されたのでしょうか。

ヨハネは一人暮らしができる年齢になると、砂漠で生活を始めた可能性があります。そのため、イエス様を見た時に、イエス様を認識することができたのでしょうか。

もしかすると、ヨハネがイエス様を見た瞬間、イエス様が特別な存在であることを理解したのかもしれません。ヨハネはイエス様が悔い改めを必要としていないことに気づきました。それゆえ、彼はこう言ったのです。

私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。(マタイ3:14)

けれども、イエス様はこのように答えられました。

今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。(マタイ3:15)

どうしてイエス様はバプテスマを受ける必要があったのでしょうか。おそらく二つの理由が考えられます。

一つ目は、ヨハネがユダヤ人たちの心を誰のために整えるのかを明確に知るためです。その後、ヨハネはこのことについて証をしました。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が「私のあとから来る人がある。

その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ」と言ったのは、この方のことです。

私もこの方を{メシヤとしては}知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」

またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。

しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。「御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」

私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:29-34)

ヨハネの言葉によれば、ヨハネはイエス様が特別な存在であることを理解しましたが、イエス様がメシアであることはまだ知りませんでした。

二つ目の理由は、バプテスマを通してイエス様が次のように示されたことです。「私は、この罪人たちの兄弟です。」

イエス様がこの世に来られた時、こうは言われませんでした。「私は偉大な神です。あなたは惨めな罪人です。」

むしろ、イエス様はこう言われました。「あなたは罪人だけど、私はあなたの兄弟です。」(ヘブル人への手紙2:11-12)

もちろん、イエス様は決して罪を犯されませんでした。それでも、十字架の上でイエス様は私たちの罪を背負い、その罪のために死なれました。

イエス様は生まれた時、私たちと人間として共感されました。そして、バプテスマを受けられた時、私たちと罪人として共感してくださいました。

さらに、イエス様がバプテスマを受けられた時、もう一つの出来事が起こりました。

イエス様がバプテスマを受けられた時、聖霊がイエス様の上に下り、イエス様を力で満たされました。それだけではなく、天の父がイエス様に対する愛を宣言されたのです。

もし、私たちが影響力のあるクリスチャンになりたいなら、その二つのことが必要です。神の一人子であるイエス様にそれらが必要だったなら、私たちにもそれらが必要です。

つまり、私たちは、天の父が私たちを愛しておられることを知らなくてはなりません。その愛を知らなければ、私たちは神様を恐れてしまい、決して神様に近づこうとはしません。いつも神様からの叱責を恐れ、神様と親しい関係を築くことができません。

また、天の父の愛を知らないと、私たちの人間関係も難しくなります。周りの人々が私たちの愛に、私たちが期待するように反応しなければ、彼らを愛し続けることも、許すことも難しくなります。

もしあなたが神様のように周りの人々を愛することができないなら、それは神様の愛を十分に理解していないからかもしれません。実は、私自身も神様の愛を十分に理解していないので、神様のように人々を愛することができない時があります。

しかし、イエス様は神様の愛で満たされていたので、周りの人々の失敗や欠点を見る中でも、彼らを愛し続けられました。

天の父はイエス様に対する愛を宣言されました。そして、聖霊はイエス様を力で満たしてくださいました。イエス様はその力を受けられるまで、ミニストリーを始められませんでした。

それゆえ、私たちが神様のために効果的なしもべになりたいなら、聖霊で満たされる必要があります。バプテスマのヨハネによれば、それはイエス様の働きの一つです。イエス様は私たちを聖霊によってバプテスマを授けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様の愛を知っているでしょうか。聖霊に満たされていますでしょうか。

カテゴリー
詩篇

私たちを救い、 満たしてくださる神

私はこの詩篇がいつ書かれたのか分かりません。もしかすると、神様の裁きによってイスラエルには飢饉があったのかもしれません。けれども、その後イスラエル人が悔い改めたので、もう一度神様の祝福を受けたのでしょう。

だから、詩人は神様のあわれみに感謝します。

神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。

祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。(詩篇65:1-4)

この個所で、詩人はイスラエルの罪と神様の裁きを思い出します。私は3節が大好きです。

咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。

私たちは自分の罪に圧倒されました。私たちは神様の裁きから逃げられなかった。けれども、パウロが言ったように、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。」(ローマ5:8)

だから今、神様は私たちを近づけて、祝福を注いでくださいます。私たちはもう神様を恐れる必要がありません。むしろ、神様のあわれみと恵みを受けたので、愛で満たされた心で私たちは神様を仰ぎます。

そして、ある日、天国で私たち皆は神様のあわれみを賛美します。(1)

5節でダビデはこう言います。

私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。

この詩篇の後半で、ダビデは神様の創造の力を思い出し、どうやって神様が雨を降らして、この世を支え、祝福することについて歌います。

けれども、この詩篇を読むとき、私はもう一つのことを見ます。それは私たちの救い主の業です。つまり、イエス様は私たちの罪のために死んでくださったので、この死にかけている世においても、私たちには希望があります。

神様がこの世を祝福するために天から雨を降らすように、神様は生ける水、つまり聖霊を私たちに注ぎ、毎日私たちを満たしてくださいます。

また御霊によって、神様は私たちと私たちが触れる人に恵みを注いでくださるので、私たちは豊かな実を結びます。

主よ、あなたが私に注いでくださった恵みを感謝します。その恵みによって私は救われました。私が自分自身を救う力がないとき、あなたは私を救ってくださいました。

今、あなたの聖霊で私を満たしてください。あなたの聖霊が私の人生にあふれ、私が実を結び、周りの人々に触れるように。

あなたが私の人生に注いでくださる喜びを感謝します。主イエスキリストのみ名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
ゼカリヤ書

神様の働きを成し遂げるために満たされた

私がゼカリヤ書を読めば読むほど、ますます好きになります。この箇所も、私たちにとって深い意味があります。

その時、ユダヤ人たちは主の宮を再建していた最中でしたが、まだ反対に直面していました。彼らは、ダリヨス王がその再建に許可を出せるかどうかまだ分かりませんでした。だから、総督ゼルバベルは失望していたかもしれません。

しかし、神様はゼカリヤに金の燭台を示されました。その燭台は宮の燭台のようでしたが、一つ違いがありました。大祭司はいつもその燭台に油を注ぎ続けなければなりませんでした。

けれども、ゼカリヤの幻では、二本のオリーブの木がその燭台を満たしていました。

そして、天使はゼカリヤにこのメッセージを伝えました。

「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。

大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

ついで私に次のような主のことばがあった。「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。(ゼカリヤ書4:6-9)

つまり、「心配しないでください。あなた自身の力や周りの人々の力によってこの宮を完成させるのではありません。むしろ、あなたを通して働いている聖霊によって、この宮の再建は完了するのです。

どんな大きな障害に遭遇しても、その山はあなたの前で平らになります。そして、その宮のかしら石を運び出すとき、あなたは私の恵みによってこの宮が完成したことを知るでしょう。」

その宮の再建が遅れ、またソロモンの宮と比べると、新しい宮が美しくなかったために、失望する人もいました。けれども、神様は彼らにこう言われました。

だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。(10)

つまり、「あなたの目には、あなたが成したことが小さく見えるかもしれません。

しかし、小さな一歩を軽んじてはいけません。また、私があなたに小さい仕事を与えても、その仕事を軽んじてはいけません。

なぜなら、私の民がその仕事をするとき、私はそれを喜び、あなたに報いを与えるからです。」

そして、天使は金の燭台とオリーブの木について説明しました。ゼカリヤがその意味、特にオリーブの二本の枝の意味について尋ねたとき、その天使は答えました。

これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。(14)

つまり、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルのことです。神様はその宮を完成させるために、彼らを自分のしもべとして選ばれました。

けれども、一番重要なのは、油が御霊のシンボルであるということです。そして、御霊は私たちを通して神様の働きを成し遂げるために注がれます。御霊は私たちを通じて周りの人々に触れ、その人々に影響を与えるのです。

そのため、神様の御心は私たち自身の力によって成就するのではなく、私たちを通して働かれる御霊によって成就します。

ですから、小さなことを軽んじずに神様の働きをしましょう。神様は御霊によって私たちを満たし、私たちを通して流れることで、この世に影響を与えることができます。

カテゴリー
イザヤ書

この同じ御霊

もちろんこの箇所はイエス様についてです。つまり、イエス様はこの世に来られ、そして御霊がイエス様の上にとどまって、イエス様を知恵と悟りと力に満たされました。

そして、イザヤは将来の国について話しました。その時、狼は子羊とともに宿り、子供はコブラの隣に遊び、イエス様はイスラエルを回復し、この世界を義によって治められます。

けれども、この箇所を読んだ時、私はこう思いました。イエス様の上にとどまった御霊は私たちに与えられました。この同じ知恵と悟りとはかりごとと能力の御霊は私たちにも与えられました。

イエス様が約束されたのは「私は天国に帰ると聖霊をあなたに送る。その御霊によってあなたは私よりも素晴らしい業を行う」という事です。(ヨハネ14:12−17)

また、イエス様は、御霊が私たちにすべてのことを教えると約束されました。(ヨハネ14:26)

また、イエス様は、私たちがこの世に影響を与えるために、御霊が私たちに知恵を与えると約束されました(ヨハネ16:13−15)。

今日まで、私は気づいていませんでしたが、多分パウロはエペソ人への手紙を書いた時に、この箇所について考えていたかもしれません。パウロの言葉はイザヤ書のパラフレーズのようです。

パウロはこう記しました。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ[た」。(エペソ1:17-20)

「私たちが神様を知るための知恵と啓示の御霊。」

心の目がはっきり見えるようになったので、私たちは与えられた望みが分かります。全能の力ある御霊は私たちの中で働いています。その力によって神様はキリストをよみがえらせました。

時々、私たちは「どうして神様はこの世の中にもっと働かないの?」と訊きます。

一つの理由は御霊に満たされたクリスチャンがあまりいないからです。知恵と悟りと力に満たされたクリスチャンは少ないです。また神様を恐れるクリスチャンもあまりいません。

むしろ、私たちはこの世の物で私たちの人生を満たそうとします。私たちは仕事や趣味に集中しすぎます。私たちは御霊の力に満たされずに、空っぽで生きます。だからこそ、この世界は死にかけているのです。

しかし、イエス様の上にとどまっていた同じ御霊を、私たちも受けることができます。

御霊を求めているでしょうか。御霊に満たされることを望んでいるでしょうか。そうすれば、私たちの人生だけでなく、この世界も変わります。けれども、そうでなければ何も変わりません。

あなたはどうですか。あなたは空っぽでしょうか。あなたは御霊に飢えているでしょうか。

私たちが求めると、きっと満たされます。

イエス様は言われました。

してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:13)

カテゴリー
ヨエル書

聖霊が来ると

旧約聖書の時代と新約聖書の時代の一つの大きな違いは、御霊の働きです。

旧約聖書の時代においては、時々御霊が特別な働きのために人を満たされました。多くの場合、それは一時的なものでした。その働きが終わると、御霊はすぐにその人から去ってしまわれたのです。

二つの例は、サムソン(士師記14:1;16:20)とサウル王(第一サムエル11:6;16:14)です。

ダビデはバテ・シェバと罪を犯したとき、こう祈りました。

あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。(詩編51:11)

でも、このヨエルの箇所で、神様は約束されました。ある日、御霊は少数の人々に注がれるのではなく、神様のすべての民に注がれるということです。

つまり、神様は男性にも、女性にも、若者にも、年を取った人にも、御霊を注がれます。それは、終わりの日のしるしです。

使徒の働き2章によれば、御霊が来て、この予言を成就しました。

その日に、エルサレムで御霊はすべての信者たちを満たされました。周りの人々が驚いたので、ペテロはこのヨエルの箇所を引用して、何が起こったかを説明しました。

「終わりの日」は、その日から始まりました。私たちも、この終わりの日に生きています。ですから、この終わりの日は2000年以上続いています。

では、どうして神様は私たちに御霊を注がれるのでしょうか。それは、神様の働きをするためです。

その働きとは何でしょうか。裁きの日まで、福音を述べ伝えることです。

何度も何度も、旧約聖書の預言者たちは主の日について警告しました。

実際には、たくさんの「主の日」があります。

神様がある国を裁く時、それが「主の日」です。しかし最終的には、主の大いなる恐るべき日が来ます。(ヨエル書2:31)

その日に、すべての人々は神様の王座の前に来て、裁かれます。けれども、主が呼ばれた者だけが救われます。(32)

だから、御霊の働きは本当に大切です。

イエス様が言われたのは、私たちに力を与えるために御霊を送られたということです。何のための力でしょうか。

それは、イエス様の証人になる力です。つまり、イエス様の福音をこの世に述べ伝える力です。(使徒の働き1:8)

神様は、私たちが自分の霊的な賜物について自慢するために御霊を送ったわけではありません。周りの人々があなたにない賜物を持っていないからといって、彼らを見下すために御霊を送ったわけでもありません。

むしろ、裁きの日が来るまで、死にかけている世界に福音を述べ伝えるために御霊を送られました。なぜなら、その日が来たら、もう悔い改める時間がないからです。すべての人々は裁かれます。

神様は、あなたがこの世に影響を与えるために御霊を注がれました。あなたは周りの人々に影響を与えていますか。

それとも、自分自身や、神様から何をもらえるかに焦点を当てているでしょうか。

私たちが神様の御霊に満たされ、周りの人々に触れることができるように。彼らが裁きの日の前に神様を知ることができるように。