この箇所では、エゼキエルは以前のテーマを繰り返して言っています。
神様はもう一度エゼキエルに警告されました。
「私があなたに『このメッセージを伝えなさい』と言うとき、あなたは決して黙っていてはいけません。なぜなら、もしあなたが何も言わず、その人が自分の罪によって死ぬなら、彼の血の責任をあなたに問うことになるからです。」
その後、神様はエゼキエルにイスラエルの民が言っていることを教えられました。
私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。
私たちはどうして生きられよう。(エゼキエル書33:10)
私たちはよく同じようなことを言います。私たちを束縛している自分自身の罪を見ますが、文句を言います。
「私の罪のせいで、私の人生はめちゃくちゃになってしまった。神様が私を罰しておられるでしょう。神様がこんなにも私に反対しているなら、どうやって私は生き続けることができるのでしょうか。」
けれども、神様はイスラエルの民にこう言われました。
わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。
悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(11)
神様は私たちにこう言われます。「私があなたの苦しみを見ることを喜ぶと思うのですか。人々が地獄に行くとき、私がそれを喜ぶと思うのですか。
そうではありません。悔い改めなさい。私がその苦しみを許す理由は、あなたが悔い改めることを望んでいるからです。なぜあなたはその死の道を歩み続けるのですか。」
ところが、イスラエルの民は神様の言葉に耳を傾けませんでした。
彼らはエルサレムの没落について聞きましたが、それでも自分たちの努力を通じていつかイスラエルに戻れると信じていました。
そこで、神様は彼らにこう言われました。「あなたがたは自分の力によって帰国することはできない。もしあなたがたが私に背き続けるならば、あなたがたは死ぬことになる。」
そして、神様はエゼキエルにこう言われました。
彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。
彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。
あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。(31ー32)
彼らは神様の御言葉を聞きたがり、神様を礼拝したいふりをしていました。しかし、彼らの心は神様から遠く離れていました。
彼らにとって、エゼキエルの言葉はただのエンターテインメントに過ぎませんでしたが、その言葉には従いませんでした。
時々、人々は同じような態度を持って教会に行きます。彼らはショーを観たい、楽しい時間を過ごしたいと思っています。教会で良い気分になれるから行くのです。
けれども、彼らが神様の御言葉を聞いても、その言葉に従うことはありません。その結果、彼らは生きているように見えても、罪によって霊的に死んでいるのです。
そして、いつか裁かれる日が来るでしょう。
あなたはどうでしょうか。あなたの罪のせいで苦しんでいるのではありませんか。
神様はあなたが滅びることなく、救われることを望んでいます。神様はあなたが罪から解放され、真の命を見つけることを望んでおられるのです。
2000年前、イエス様は十字架であなたの罪のために死なれました。そして、3日目にイエス様はよみがえられました。だから今、イエス様はあなたに赦しと永遠の命を提供しておられます。
神様はあなたの心を見通しています。たとえ神様に従うふりをしても、神様を欺くことはできません。神様はあなたの罪をすべて知っておられるのです。
だからこそ、悔い改めて、神様に従う生活を始めませんか。
イエス様、私の罪のせいで私の人生はめちゃくちゃになっています。私は自分の道を選んで歩んだために、今苦しんでいます。どうか私を赦してください。
あなたが私の罪のために死なれたことを信じます。私の心を清め、私を変えてください。そして、私の人生を新しくしてください。どのように生きれば良いか教えてください。
これからはあなたに従って生きたいと思います。アーメン。
