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創世記のデボーション

自己憐憫を捨てよう

朝、ヨセフが彼らのところに来て、見ると、彼らは顔色がすぐれなかった。

それで彼は、自分の主人の家に一緒に拘留されている、このファラオの廷臣たちに「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。(創世記40:6ー7)

ヨセフが自分の問題にくよくよし、自己憐憫に浸っていたとしたら、私たちはそれをよくわかってあげられると思います。でも、彼はそうするのではなく、他の二人の囚人たちのことを気にかけました。

この間、私の牧師は、回りの人々のニーズに気づき、彼らに触れることについて話しました。

けれども、自己憐憫に浸っているなら、私たちは回りの人々のニーズに気づくことはないでしょう。自分のことだけについて考えているなら、私たちは彼らに触れることはないでしょう。

私はヨセフのようになりたいです。自分のことだけを考えるのではなく、回りの人々のニーズに気づきたいです。神様が私を用いて、彼らに触れてほしいです。

あなたはどうですか。

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詩篇

自己憐憫に浸る

これは本当に憂鬱な詩篇です。多分、詩人はバビロンに追放されたときに詩篇137篇を書いたのでしょう。

この詩篇では、詩人はバビロンの川のそばに座り、立琴を持っていたけれど、エルサレムの没落を悩んでいたので、もう弾く気がなくなりました。

むしろ、彼は、その立琴を柳の木々に掛けて、エルサレムの没落を嘆きました。

そして、あるバビロン人が来て、彼をからかいます。「おい。歌えよ。エルサレムの歌を聞いてみたい。」

しかし、詩人は拒絶して答えました。

「一体どうしてそんな歌を歌えるでしょうか。エルサレムは滅びたので、私はエルサレムについて喜びの歌を歌えません。私がそうする前に、私の右手がその巧みさを忘れるように。また私が歌えなくなるように。」

そして、彼はバビロンとエドムを呪います。どうしてでしょうか。

エドム人の先祖エサウがイスラエル人の先祖ヤコブのお兄さんだったのに、エルサレムが没落したとき、エドム人は喜びました。

そしてバビロン人はイスラエル人の子供たちを殺し、さまざまな酷いことを犯しました。

だから、詩人は彼らを呪って、バビロン人とエドム人に対してそのようなことが起こるように願いました。

どれぐらい、私たちはそのように感じるでしょうか。自分の罪のため、私たちは苦しんで落ち込んでいます。時々、私たちの家族でも、私たちをからかい、私たちの敵は笑って、「あなたの神はどこだろう」と聞きます。

どうやって、私たちは反応すべきでしょうか。

私たちには選択肢があります。私たちは自己憐憫に浸り、私たちが失ったものを嘆き、苦々しい思いに負けることができます。けれども、そうすれば、私たちは霊的に、また肉的に枯れます。

それとも、ダニエルとネヘミヤのように、神様に向かって、悔い改めることもできます。そうすれば、神様は私たちの壊れた人生を癒してくださいます。そして、もう一度私たちは神様からの喜びを知ります。

あなたはどうするでしょうか。どの選択肢を選ぶでしょうか。