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マルコの福音書のデボーション

自給自足?神様に頼る?

イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(マルコの福音書9:28-29)

今日、弟子たちとその失敗について思いを巡らせていました。彼らは男の子から悪霊を追い出そうとしましたが、できませんでした。

どうしてでしょうか。彼らは自分自身の権威と力に頼っていたように見えます。「祈ろう」という発想はまったくありませんでした。

その場面を読んで、私はこう思いました。「私は、弟子たちのようにどれほど振る舞っているだろうか。神様とその力に頼ることなく、どれほど自分に頼っているだろうか。」

私の最初の本能は祈ることだろうか。自分の力を超える問題に直面するときだけでなく、どんな状況であっても、それが私の第一の反応だろうか。

天のお父さん、私が決して自分の力で生きようとせず、いつもあなたに頼って生きる者となれますように。

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ヨハネの黙示録

自給自足、冷淡、役に立たない

私の娘が4~5歳ぐらいの時、私がうちに帰ると、彼女は「ダディー」と叫びながら、私を出迎えてくれました。

でも、今は、私がうちに帰ると、彼女はリビングで座ったまま、ただ「お帰り」と言うだけです。

また、彼女は私がうちに帰ってきたことに、まったく気づかない時もあります。

愛の反応が冷淡な反応になることは、寂しいことです。

いろいろな意味で、ラオディキアにある教会は私の娘のようです。イエス様は、ほかの教会を責める時でも、良い点をも褒められました。けれども、ラオディキアにある教会については、良いことが一つもありませんでした。

サルデスの教会の中でも、イエス様が褒められたクリスチャンたちがいました。ところが、ラオディキアの教会の中では、イエス様が褒められたクリスチャンは誰もいませんでした。

彼らの問題は何だったのでしょうか。イエス様は彼らにこう言われました。

わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。

むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。(黙示録3:15-16)

イエス様は、何を意味されたのでしょうか。ラオディキアの近くには、二つの有名な都市がありました。

一つ目はヒエラポリスという都市です。その都市は温泉で知られていました。その温泉は体を癒すために役立ちました。

その反面、コロサイという都市は、冷たい飲み水で知られていました。

けれども、ラオディキアの人たちは都市の南にある温泉からお湯を得ていました。そのために、彼らは10キロメートルの水路を使わなくてはなりませんでした。

けれども、そのお湯が着いた時には、すでにぬるくなっていました。つまり、その水は入浴にも適しておらず、飲み水としても美味しくありませんでした。

要するに、その水はあまり役に立たないものでした。

教会が自分の役割をきちんと果たすならば、主にとって有益な存在となります。ヒエラポリスの温泉が人の体を癒したように、教会は人の魂を癒します。また、イエス様の愛はクリスチャンたちを通して流れ、冷たい水のように、疲れた人々を生かすことができます。

しかし、ラオディキアの教会は傷ついた人々を癒さず、疲れた人々を生かしませんでした。その教会は、主にとってまったく役に立たない存在となりました。

そこで、イエス様は彼らに言われました。「あなたたちは、自分の都市の水のようです。だから、わたしは口からあなたを吐き出します。」

彼らがなぜ役に立たない教会になったのでしょうか。一つ目の理由は、彼らが自給自足の姿勢を取り、主に対して冷淡な態度を示し始めたということです。イエス様は彼らにこう言われました。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。(17)

この教会では、クリスチャンたちは自給自足でした。ラオディキアのクリスチャンたちだけでなく、その都市の人々も同じような性質を持っていました。

ラオディキアが地震によって壊れた時、彼らはローマ帝国の援助を断り、「私たちは十分です。自分たちで再建できます」と主張しました。

このように、ラオディキアの教会の人々は裕福で、自給自足の生活を送り、イエス様が必要だとは考えませんでした。彼らにとって教会は社交クラブとなっていたのです。

その結果、彼らはイエス様にとって、役に立たない教会となってしまいました。彼らはイエス様のために周囲の人々に触れようとせず、さらに、イエス様に対して冷淡な態度を示しました。彼らは基本的にこう言っていたのです――「私たちはもう十分です。あなたの助けは要りません。」

しかし、実際には彼らは非常に困難な状態にありました。

だからこそ、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。(18)

この言葉によって、イエス様は彼らの自給自足の態度を厳しく批判されました。彼らは黒い羊毛や目薬を売っており、裕福な人々でした。

けれども、イエス様は彼らに言われました。「それらのものは不十分です。私から離れて、あなたたちは死にかけています。」

残念なことに、多くの人々はラオディキア人のようです。

日本では、大きな問題の一つは、非常に多くの人々が自給自足の状態にあることです。彼らは自分の人生に満足し、霊的な必要を認識することができません。そのため、「私にはイエス様が必要ではありません」と考えてしまいます。

ところが、あるクリスチャンたちも同じように考えることがあります。彼らは、イエス様を必要としていることを忘れてしまいます。

「以前はイエス様を必要としていましたが、今はもう十分です」と彼らは主張します。そして、自分の人生からイエス様を追い出してしまいます。

教会に通い続けるかもしれませんが、時間、経済、仕事、人間関係などに関しては、彼らはイエス様に対して「あなたは必要ありません」と言っているのです。

このようなクリスチャンたちは、主にとって役に立たない者となってしまいます。そして、教会がそのような人々に満ちているなら、その教会は深刻な状態に置かれています。

だからこそ、イエス様はラオディキアのクリスチャンたちにこう言われました。

わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。(19)

私は、ある英語訳の聖書が非常に心に響きました。「悔い改めなさい」という言葉の代わりに、「自分の冷淡な態度を捨てなさい」と意訳されているのです。

そして、イエス様は彼らにこう言われました。

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(20)

ラオディキアの人々は、自分たちの教会からイエス様を締め出してしまっていました。だからこそ、イエス様はその教会の戸の外に立ち、たたいておられました。

「わたしは、あなたがたを今もなお愛しています。和解の機会を与えています。どうか、心を開いてくれませんか。」

あなたはどうでしょうか。

イエス様に対して冷淡な態度を取っているでしょうか。イエス様をあなたの人生から締め出し、「あなたは要りません」と言ってしまっているでしょうか。

それでもなお、イエス様はあなたを愛しておられます。イエス様は、ご自身の御国のためにあなたを今も用いたいと願っておられます。もしあなたが冷淡な態度を悔い改めるなら、いつかイエス様と共に支配することになるでしょう。(21)

しかし、悔い改めなければ、あなたは懲らしめを受けることになります。

あなたの教会はどうでしょうか。自己満足している人々で満ちた、単なる社交クラブのようになってしまってはいないでしょうか。

教会が悔い改めなければ、イエス様はあなたたちの燭台をその置かれた所から取りはずされます。あなたたちは、もはや世の光として輝くことができなくなってしまいます。

イエス様は、あなたとあなたの教会に何を語っておられるでしょうか。

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エペソ人への手紙

私たちの目的を果たすには

ディズニー映画『アナと雪の女王』では、エルサ女王が自分の力を現してしまい、人々の恐れによって王国を離れざるを得なくなります。

それまでエルサは、自分の力を周囲の人々から隠していました。けれども、追放された後、彼女は「ありのままの姿を見せるのよ。ありのままの自分になるの」と決意します。

そして、彼女は歌います。

もう自由よ。
何でもできる。
どこまでやれるか、自分を試してみたい。

英語では、彼女はこう歌います。

正しいも悪いもない。
私にとって、もうそんなルールは存在しないのよ。
私は自由だから。

しかし、その「自由」は長くは続きませんでした。 妹のアナがエルサのもとを訪れ、彼女が「自由」を活用した結果、王国がどれほど混乱してしまったかを伝えます。

だから、エルサは英語の歌でこう歌います。

なんて愚かだったの….自由なんて無理。
内なる嵐から逃れる術はないのよ。
コントロールできない…この呪いを!
なんて恐ろしい。

そして、アナがエルサに「すべてを治せる」と説得しようとしたとき、エルサは答えました。

「私にはできない。」

多くの人々は「ありのままで」という歌を好みますが、エルサが最終的に何を悟ったのかを理解している人はどれほどいるでしょうか。

つまり、本当の自由はただ自分自身を理解することからは生まれないのです。

なぜなら、私たちの内にあるものは、結局私たちを滅ぼしてしまうからです。そして、私たちは自分自身を恐れるようになり、また、自分の問題を解決することができないと気づきます。

けれども、多くの人々はこのことに気づいていません。むしろ、パウロによれば、彼らはむなしい心で歩んでいるのです。

パウロはこう言います。

彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。

無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。(エペソ人への手紙4:18-19)

もちろん、このすべての言葉をエルサに当てはめることはできません。なぜなら、その映画はクリスチャンの寓話ではないからです。

とはいえ、エルサの知性が暗かったため、彼女は自分がどうあるべきかわかりませんでした。彼女を拒絶した人々の影響で心が頑なになり、彼女は自分の道を進むことで自由を得たと思いました。

同じように、多くの人々の知性が暗く、彼らは自分が何者であるべきかを理解できません。神様は愛を持って彼らを御自身の似姿に造られましたが、彼らは無知のゆえに神様に対して頑なな心を持っています。

そのため、彼らは善悪という「鎖」を捨て、自分の道を歩んでしまいます。そして、「自分の道を行けば自由を見つけられる」と思っています。

ところが、結局彼らは自由を得ることはありません。むしろ、人生は混乱し、何をすればよいのかわからなくなってしまいます。

クリスチャンとして、私たちはそのように生きるべきではありません。

むしろ、私たちは古い人生を捨てるべきです。私たちは古い態度や習慣も捨てなくてはなりません。 なぜなら、それらは腐敗したものであり、それに従い続ければ、私たちは滅びてしまうからです。(22)

特に、私たちは一つの考え方を捨てなくてはなりません。それは、神様からの独立を求める態度です。 自分の道を行くことで自由を得ることはできません。むしろ、その道は呪いとなり、私たちを縛ってしまいます。

だから、パウロは言います。

あなたがたが霊と心において新しくされ続け(なさい)。(23)

神様が私たちの心を変えてくださるように祈るべきです。 そして、私たちは「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着るべきです。」(23ー24)

私たちはそのような人になるべきです。私たちは神様のように歩むべきです。

もちろん、クリスチャンにはそれぞれ違いがあります。私たちは多様な賜物を与えられており、それぞれの性格を持っています。 クリスチャンになったからといって、それらを失うわけではありません。

むしろ、エルサのように、私たちの賜物は神様の計画のもとで美しく輝くものとなります。 また、神様の御心に従うことで、私たち自身も神様が意図された通りに美しい創造物となります。

しかし、その美しさを持つためには、自給自足の態度を捨てなくてはなりません。神様からの独立を求める思いを捨てなくてはなりません>。 そして、私たちは自分が何者であるべきかを忘れずに歩まなくてはなりません。

それは、神様の似姿に造られた者であるということです。

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コリント人への手紙第二

自立の問題

私の両親は、私が自立できるように育てました。私は親元を離れて数年後、父はこう言いました。「私がうれしいのは、おまえと兄姉が決して私たちにお金をねだらないことだよ。」

親子関係において、自立は良いことだと思います。私たちは皆、成長し、やがて両親から独立しなければなりません。

しかし、神様との関係において、自立は決して良いことではありません。私たちが神様から独立できる瞬間はありません。なぜなら、私たちは常に神様を必要としているからです。

この人生を歩むために、私たちは常に神様の力を必要とします。仕事、人間関係、ミニストリーにおいて、私たちは必ず神様を必要とします。

自立の問題は、私たちの人生の中で神様の力を本当に経験できなくなることです。神様からの独立を求めると、神様の力にアクセスできなくなります。

パウロはこの真理を学び、それをコリントの人々に教えようとしました。

パウロには素晴らしい霊的な経験がありました。彼は天国を見ました。

だから、パウロにとって「私はクリスチャンとしてたどり着いた。もう神様の助けは必要ないでしょう。私は霊的に成熟しているので、自分の力でこの人生を歩むことができるでしょう」と考えるのは容易だったでしょう。

そういうわけで、パウロが高慢にならないように、神様は彼の肉体に「とげ」を与えられました。そのとげが何であったのかについて、パウロは具体的に説明しませんでした。

もちろん、それは文字どおりのとげではありませんでしたが、それは健康上の問題だったかもしれません。(多くの人は、パウロが目の疾患を抱えていたと考えています。)あるいは、それは霊的な試練だったのかもしれません。

いずれにせよ、パウロは三度、主に願いました。「このとげを私から取り去ってください。」

しかし、神様はこう答えられました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(コリント人への手紙第二12:9)

要するに、「この問題を取り去らなくてもよい。なぜなら、あなたは私の恵みを持っているからである。そして、あなたの弱さのうちに、私の力は完全に働く。」

神様が意味されたものは何でしょうか。

私たちは弱いとき、自分の力に頼らず、神様の力に依り頼まなければなりません。私たちが自分の力に頼り続ける限り、神様の力は私たちの人生において完全に働くことができません。

だから、パウロはこう言いました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(9b-10)

なぜ、パウロは自分の弱さを誇ったのでしょうか。それは、弱さゆえにパウロがさらに神様に依り頼まなければならなかったからです。

その結果、彼は以前にもまして、神様の力を知るようになりました。それだけではなく、パウロと神様との関係はさらに深まったことでしょう。

あなたはどうでしょうか。自分の力だけで人生を歩もうとしていませんか。もしそうであれば、神様の力を経験することも、神様との親しい関係を築くこともできません。

私自身、神様の力と、神様との親しい関係の両方を持ちたいと願っています。

だからこそ、自分の自立を誇るのではなく、毎日、神様の力に依り頼むことを学びましょう。