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ヨハネの黙示録

天国:花嫁が現れた!

いいえ、この記事でこのブログを終えることはありません。私たちは永遠に新しい天と新しい地にいるのですから、数日にわたって、それらがどんなところであるのかについて話していきましょう。🙂

皮肉なことに、最後の七つの災害に満ちた七つの鉢を持っていた七人の御使いのうちの一人がヨハネのもとに来て、「ここに来なさい。あなたに、子羊の妻である花嫁を見せましょう」と言います。

この御使いは、古い天と古い地の破壊に関わっていましたが、 彼は新しい天と新しい地をヨハネに紹介するのです。

前回の記事でも触れましたが、「新しいエルサレム」とは、文字通りの都市なのか、神様の民なのか、それともその両方なのかは分かりません。

でも、この場面を読んでいると、高価な真珠のたとえ話を思い出しました。そこでは、ある人がその真珠を得るために、持っていたものすべてを売り払いました(マタイ13:45〜46)。

イエス様は、十字架でご自分の血によって、教会という高価な真珠を、ご自分の花嫁として買い取られたのです。

パウロによれば、

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:26-27)

今日の聖句では、キリストの花嫁が登場し、私たちはその美しさを目にすることができます。ヨハネはこう語ります。

都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。(黙示録21:11)

ヨハネが花嫁を描写するとき、「12」という数字や「12の倍数」という数字が頻繁に登場し、それらの数字は時に「1000」(完全さを表す数字)と組み合わされています。

なぜ「12」なのでしょうか。その答えは、21章12節と14節にあるかもしれません。

「12」とは、神様の民を象徴する数字です。イスラエルの十二部族は旧約聖書時代の神様の民を象徴し、12使徒は新約聖書時代の神様の民を象徴します。(私たちも新約聖書の時代に生きています。)

旧約の信仰者たちは、新約の信仰者たちと共に神様の民なのです。

そして、花嫁は旧約時代の祭司たちのように宝石で飾られます(出エジプト記28:15〜21)。

エデンの園もまた、宝石で飾られていました(エゼキエル書28:13)。

この花嫁には、神様と出会うために神殿に行く必要はありません。なぜなら、神様ご自身と子羊ご自身が「神殿」だからです(21:22)。

つまり、昔は神殿が神様の臨在を表しましたが、新しい天と地において、神様はご自身が私たちの間におられるため、そのような建物は不要です。その上、神の栄光、そして子羊の栄光が都市を照らしています(21:23)。

しかも、花嫁自身も輝いています。この世の国々は彼女の栄光によって照らされ、国民たちはそれぞれの栄光を彼女にささげます(21:24)。

花嫁は完全に安心しています。侵入者が入る恐れがないため、その都市の門は常に開かれています。アダムとエバが裸でも恥を感じず安心していたように、キリストの民も人間関係において完全に安心しています。

御霊の喜びに満たされるにつれて、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出ます(ヨハネ7:37-39)。そのため、私たちはいのちの実を結び、味わいます(22:1-2)。

でも、天国で花嫁にとって最も素晴らしい事は何でしょうか。それは、私たちが神様のみ顔を見ることです(22:4)。

この都市は立方体として描写されています(21:16)。

聖書の中で、他に立方体として描かれているのはただ一つ。それは神殿の至聖所であり、神様がそこに住んでおられました(列王記第一6:20)。

その立方体の意味は?前回の記事で、私たちはその意味を見ました。

見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(21:3)

また、

もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え。。。彼らは世々限りなく王として治める。(22:3,5)

どうして、私たちはそんな素晴らしい祝福を得ることができるのでしょうか。

なぜなら、2000年前、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んでくださいました。イエス様の働きのおかげで、私たちはイエス様の尊い宝石のように輝き、イエス様の花嫁として栄光を持って、イエス様と共におり、共に治めます。

私はその日が来るのを待ちきれません。

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詩篇

イエス様と結婚する

詩篇45篇のタイトルは、「愛の歌」と書かれています。おそらく、この歌は王の結婚式で歌われました。

この歌は人間の王の結婚式のためのものでしたが、この歌から、王の王であるイエス様の結婚式も見ることができます。

私たちはキリストの花嫁と呼ばれます。この詩篇で、私たちの花婿であるイエス様を見ることができ、花嫁として私たちがイエス様にどう反応するべきかを知ることができます。

この詩篇の最初の部分は王について語ります。その言葉によって、イエス様のいろんな描写が見られます。例えば、イエス様は恵み深い方です。

あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。(詩篇45:2)

また、イエス様は勇士です。

雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。あなたの尊厳と威光を。

あなたの威光は、真理と柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め。あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。

あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。(3-5)

また、イエス様は私たちの王です。

神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。

あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。(6-7)

へブル人への手紙の著者は、イエス様について語る際に、詩篇45篇の6-7節を引用しました。(へブル1:8-9)

そして、詩人はキリストの花嫁である私たちに語りかけます。

娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。(10)

その言葉は創世記から来ます。神様は結婚についてこう言われました。

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記2:24)

創世記の箇所は特に男性について話していますが、この詩篇によれば、女性もそうするべきです。

そのため、私たちはイエス様と結ばれるとき、キリストとの結びを邪魔するものを捨てなければなりません。

私はクリスチャンホームで育ちましたが、ある人はクリスチャンになると、その親たちと喧嘩します。また、ある人は、友達から離れなければならない。なぜなら、その友達が、その人を神様から引き離そうとするからです。

もちろん、それは極端な状態です。理想を言えば、私たちにはそのような必要はないと言いたいところです。私たちの証しによって彼らがキリストを求めるようになれば、それも理想的です。

けれども時々、私たちは「すみません。私はあなたが行く道を行くことができません。私はイエス様に従うからです。」と言わなければなりません。

そして、詩篇の著者は花嫁にこう言いました。

そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。(11)

それはどんな美しさでしょうか。体の美しさでしょうか。違います。ペテロはクリスチャンの妻たちにこう言いました。

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。(第一ペテロ3:4)

私たち皆、そんな美しさが必要です。

また、イエス様が私たちの主なので、生涯イエス様を敬わなくてはなりません。

そして、詩人は歌います。

王の娘は奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織り合わされている。

彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、彼女に付き添うおとめらもあなたのもとに連れて来られよう。

喜びと楽しみをもって彼らは導かれ、王の宮殿に入って行く。(13-15)

どうして、花嫁には栄華があるでしょうか。それは、その王が彼女を選び、きれいな着物を着せ、美しくしたからです。

イエス様は私たちのために同じことをしてくださいました。イエス様は、

教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。

みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25-27)

私たちがそのような花嫁になるように。