「もちろん、私はクリスチャンです。聖書を信じるし、イエス様を信じます。」
多くの教会の人々はそう言いますが、本当にその言葉を信じて生きているようには見えません。むしろ、彼らの人生には何の変化もなく、クリスチャンとしての成長も見られません。
もしあなたがそれを指摘すれば、彼らはこう答えるでしょう。「私はいつもこうやって生きてきました。だから、たぶんこれからも変わらないでしょう。」
あるいは、「私を裁かないでください。」
または、「私はちゃんとした言い訳があります。神様だって理解してくれるはずです。」
あるいは、「その聖書の個所を現代人の人生に当てはめることはできません。」
または、「私は自分の思うままに生きていい。神様は私を赦してくださるから。だから、意図的に罪を犯しても構わない。あとで神様に赦しを願えばいいから。」
しかし、あなたがまったく成長せず、何も変わっていないなら、自分の信仰が本物かどうかを疑うべきです。
教会の歴史を見ると、麦畑にはいつも毒麦が混ざっています。つまり、ある人々は自分でクリスチャンだと名乗り、洗礼も受けますが、実際にはクリスチャンではありません。
だから、この手紙の著者はこう言いました。
すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。
だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。(へブル人への手紙12:14-15)
「聖さがなければ、だれも主を見ることはできません。」
あなたはそれを信じるでしょうか。わざわざ不敬虔な人生を歩みながら、クリスチャンだと自称してはいけません。
罪を悲しみ、聖い生き方を追い求め、少しずつ聖くなる人と、聖さを求めようともしない人とでは、雲泥の差があります。
神様の恵みは、前者のためのものです。後者には与えられません。
イエス様の十字架の働きを軽んじて罪に耽っているのに、どうして神様の恵みを主張できるでしょうか。神様が憎むことをわざと行いながら、どうして神様を愛していると言えるでしょうか。
モーセの時代にも、そんな者たちがいました。モーセは彼らのことを「毒草や苦よもぎを生じる根」と呼びました。
この手紙の著者が「苦い根」について語ったとき、モーセの言葉に触れていたのです。
そして、モーセは特にこう言いました。
万が一にも、今日その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々のもとに行って仕えるような男、女、氏族、部族があなたがたのうちにあってはならない。あなたがたのうちに、毒草や苦よもぎを生じる根があってはならない。
こののろいの誓いのことばを聞いたとき、心の中で自分を祝福し、「私は自分の頑なな心のままに歩んでも大丈夫だ」と言うなら、潤った者も渇いた者も等しく滅びることになる。
主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、そのとき、主の怒りとねたみがその者に対して燃え上がり、この書に記されている、すべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主はその者の名を天の下から消し去られる。
主は、このみおしえの書に記されている契約の、すべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族から選り分けて、わざわいを下される。(申命記29:18-21)
イスラエル人の中には、間違った考え方を抱いていた者たちがいました。神様はイスラエルの民と契約を結ばれました。彼らの神となり、彼らが神の民となるためです。
だから、一部の人々はこう考えました。「私はイスラエル人だから、もう問題ありません。好き勝手に生きても、神様は私を祝福してくださるでしょう。」
けれども、モーセは彼らについてこう言いました。「彼らは共同体に属してはいるが、無事には済まされない。かえって、神様の裁きを受ける。」
さらに、モーセはイスラエルの民にこう命じました。「そうした者たちは取り除かれなければならない。さもなければ、その姿勢は毒のように広がるからだ。」
同じように、ある人々は教会に通いながら、こう考えます。「私はこの教会のメンバーだから、週の六日間で意図的に罪を犯しても、神様は私を祝福してくださるはずです。」
しかし、この手紙の著者はそのような人々に警告します。「その考え方は誤っています。神様はあなたを裁かれるのです。」
そして、彼はこう言います。
また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。
あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。
涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。(16-17)
そのように、ある者たちは神様の御前に立ち、聖徒たちの遺産を求めます。
しかし、涙を流して願ったとしても、その遺産を受けることはできません。なぜなら、この世に生きていた間、彼らはイエス様とその十字架の働きを踏みにじり、自分勝手で不敬虔な生活を選んだからです。
だから、自分の心を探ってください。あなたは神様を愛し、神様が聖なる方であるように、自分も聖なる者となりたいと願っているでしょうか。
もしかすると、そのような願いがまったくないかもしれません。聖さをまったく求めないのに、神様があなたを受け入れてくださると考えているなら、自分自身を欺いています。裁きの日には、神様の恵みを受けることはできません。
あなたの心は、どのような思いに満たされているでしょうか。
