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創世記のデボーション

この世には、苦難があっても

ヨセフは長子をマナセ(意味:「忘れる」)と名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。

また、二番目の子をエフライム(意味:「実り多い」)と名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。(創世記41:51ー52)

イエス様、あなたは、「世にあっては苦難があります」と言われました。(ヨハネ16:33)

でもヨセフと同じように、ある日、私の苦しみはなくなり、過去が私に影響を及ぼすことはなくなります。(黙示録21:24)

やがて私に啓示される栄光に比べれば、今の時の私の苦難が取るに足りないものであることを感謝します。(ローマ8:18)

私の苦しみの中で、私がどう祈ればいいのかよく分からないとき、御霊が私のために祈ってくださることを感謝します。(ローマ8:26)

あなたを愛する私たち、あなたのご計画にしたがって召された私たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを感謝します。(ローマ8:28)

それが私の希望です。あなたこそが私の希望なのです。

だから苦しみに満ちたこの世にいる間、私はあなたに信頼することを選びます。

私のためにあなたの計画を成し遂げてください。私があなたのために実を結ぶように。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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詩篇のデボーション

神様が苦しみを許されるとき

あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられました。。。(詩篇71:20)

それは酷いと思いませんか。

神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときがあるのでしょうか。

はい、あります。

誤解しないでください。神様が積極的に私たちをバットで打つわけではありません。

多くの場合、私たちのトラブルは自分のせいです。他の時、周りの人々のせいで、私たちは苦しみます。また、この壊れた世界のせいで、私たちは時に試練に直面します。

もちろん、神様はそのトラブルを阻止することができます。神様の恵みによって、時には神様がそうしてくださいます。

たぶん、私たちが気づかずに、神様は私たちをたくさんのトラブルから守ってくださったのでしょう。

でも、神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときもあります。

どうしてでしょうか。神様は私たちを憎んでいるのでしょうか。神様が酷い方なのでしょうか。

違います。

むしろ、ダビデはこう歌います。

私を再び生き返らせ、地の深みから再び引き上げてくださいます。(21b)

苦しむとき、私たちは神様の腕に抱かれて、神様に頼ることを学びます。(6)

また、私たちは神様を待ち望むことを学びます。(14)

そして、神様が私たちを引き上げてくださるとき、私たちは、神様がやっぱり良い方であることを学びます。(16〜17)

私たちは神様を畏れ、ダビデと一緒に叫びます。

神よ、あなたの義は天にまで届きます。

あなたは大いなることをなさいました。

神よ、だれがあなたのようでしょう。(19)

でも、試練が来るとき、大切なことを覚えておきましょう。それは、イエス様も苦しみを知っておられるということです。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。。。

したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

それで民の罪の宥めがなされたのです。(へブル書2:10,17)

神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときがあります。

でも、その前に、天の父は御子を苦難とわざわいとに合わせられました。

そういうわけで、へブル人への手紙の著者はこう言います。

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(へブル書2:18)

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ヨハネの黙示録

正義はいつ来るのか

前回の記事では、私たちは第五の封印をあえて飛ばしました。なぜなら、その封印は他のものとは性質が異なるからです。地上の裁きに関する他の封印と違って、第五の封印は天における出来事に焦点を当てています。

イエス様がこの封印を解かれると、ヨハネは祭壇の下に、イエス様のゆえに殺された人々の姿を見ます。そして彼らは、大声で叫びます。

聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。(黙示録6:10)

その人々とは誰でしょうか。おそらく、使徒の働き第7章に記されたステパノや、キリスト教の長い歴史の中で命を捧げた殉教者たち全体を指しているのでしょう。

彼らのことを考えると、「なぜ正義はまだもたらされないのか」「キリストのゆえに迫害される私たちは、なぜ神の正義を目にすることができないのか」と問いかけたくなるのは自然なことです。

そのような殉教者たちに対するイエス様の答えは、実に興味深いものです。

「あなたたちと同じように殺されることになる兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」(黙示録6:11)

言い換えるなら、イエス様がこの世に再び来られるまで、迫害は続きます。その間、神様は忍耐をもって、迫害者たちを裁かれません。

なぜでしょうか。それは、できるだけ多くの人々が御国に入ることを、神様が待っておられるからです。(使徒の働き9:1〜19をご覧ください。サウロの物語がその例です。)

しかし、イエス様がもう一度来られるとき、神の正義はついに実行されます。

けれども、その日が来るまで、イエス様はご自身のために殺された人々に、平安と安らぎを与え続けてくださいます。

この世は、不公平なことだらけです。私たちは苦しみの中で、「なぜ私が苦しまなくてはならないのか」と問いかけたくなります。

ところが、イエス様は「苦難がない」と約束されません。むしろ、「あなたがたは苦難に遭う」と約束されるのです。(ヨハネ16:33)

そういうわけで、私は、反キリストが来る前にイエス様が私たちを天に迎えてくださるとは思いません。(とにかく、それが私の一つの理由です。)

けれども、私たちが苦しむときでも、心に留めておきましょう。最終的には、神の正義がもたらされます。

だからこそ、希望を持ち、イエス様の言葉を覚えて歩みましょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

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ヨハネの黙示録

試練や苦難を経験するのに

以前にも述べましたが、黙示録に記された手紙の目的は、教会を、反キリストたちや、迫り来る試練に備えさせることです。

あなたは、クリスチャンが最後の反キリストや大患難時代を経験しないと信じているかもしれません。実際、多くのクリスチャンがそう信じています。

けれども、黙示録やその他の新約聖書を読むかぎり、私はその見解に同意できません。何度も、イエス様や使徒たちは、私たちがさまざまな苦難に直面すると警告しています。とりわけ、彼らは私たちが反キリストと向き合うことになると告げています。

私は、クリスチャンが大患難時代を完全に回避できるという約束を聖書の中で見たことがありません。

私が信じるのは、私たちが反キリストや大患難時代に直面するとしても、神様は決して私たちを見捨てないということです。また、その患難の時は一時的なものであると信じています。

だから、私たちがどんな試練に直面しても、神様は私たちが神様にしがみつくように促してくださいます。

今日の箇所では、その真理を余すところなく見ることができます。イエス様は、スミルナという都市の教会に語りかけます。ご自身を紹介されるとき、イエス様は、「初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方」と呼ばれます(8節)。

興味深いのは、スミルナという都市もまた「死んでよみがえった」経験を持っていることです。紀元前600年に一度滅びましたが、紀元前290年に再建されました。

スミルナのクリスチャンたちは、イエス様のために迫害や処刑に直面しました。だからこそ、イエス様は彼らを励まされたのです。「何が起ころうとも、私はすべてのことを支配しています。私は初めであり終わりである者なのですから。」

つまり、神様の言葉によって、すべてのものは造られ、神様の言葉によって、人間の歴史は閉じられます。

さらに、イエス様は死に打ち勝たれました。死に直面するクリスチャンたちも、イエス様のように復活し、永遠のいのちを受けるという確信を抱いていました。

だからこそ、イエス様は彼らにこう語られました。

わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている。だが、あなたは富んでいるのだ。ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられていることも、わたしは知っている。(黙示録2:9)

彼らはユダヤ人たちから迫害を受けていたようです。そのユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配者たちにこう訴えました。

「キリスト教はユダヤ教の一部ではありません。実際、クリスチャンの中には多くの異邦人がいます。あなたの律法によれば、私たちユダヤ人は皇帝を礼拝する必要はありません。けれども、彼らは異邦人なのだから、皇帝を礼拝しないなら、処刑しても構いません。」

こうして、ローマ帝国はクリスチャンたちへの迫害を始めました。

しかし、イエス様は彼らにこう語られました。「ユダヤ人たちは、あなたが真のユダヤ人ではないと主張します。けれども本当は、あなたこそが真のユダヤ人です。あなたこそがアブラハムの真の子孫です。なぜなら、アブラハムのように、あなたは信仰によってわたしのもとに来たからです。

それどころか、彼らは偽りのユダヤ人であり、彼らの会衆は神の会衆ではなく、むしろサタンの会衆なのです。」

そしてイエス様は彼らに語れました。「心配するな。あなたたちは決して迫害を経験しません。私は迫害からあなたたちを救い出します。」

イエス様はそう語れたでしょうか。違います。逆に、イエス様はこう言われました。

あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。(10)

言い換えると、こうです。「あなたは苦しむことになる。だが恐れるな。サタンはあなたに大きな試練を与えるだろう。けれども、その試練は永遠には続かない。しばらくの間は続くが、やがて終わるのだ。」

この言葉は、当時の人々だけのためではありません。これは、私たち自身のためであり、反キリストに直面するクリスチャンたちのためでもあるのです。私たちは苦しみに向かっていきます。それでも、イエス様によれば、その苦しみはほんの一瞬なのです。

だからこそ、イエス様は私たちにこう言われます。

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によって害を受けることはない。(10b-11)

イエス様がこの世におられたとき、同じようなことをご自分の弟子たちに語っておられました。イエス様はこう言われました。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)

私たちが神様を畏れるなら、ほかのものを恐れる必要はありません。死さえも、恐れる必要はないのです。なぜなら、人々は私たちのからだを殺すかもしれませんが、魂を滅ぼすことはできないからです。

イエス様によれば、私たちは第二の死、すなわち地獄を経験しません。むしろ、私たちは永遠に、天においてイエス様と共にいるのです。

あなたはどうですか。あなたは、自分の信仰ゆえに迫害を受けていますか。それが、ひと時の苦しみにすぎないことを覚えていましょう。人々があなたに何を言っても、あなたを傷つけても、魂に触れることはできません。

だからこそ、忠実でいましょう。たとえあなたが死んでも、あなたは生きるのです。(ヨハネ11:25)

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テモテへの手紙第二

この世はますます悪に落ちていくのに

もしこの世が良くなると考える人がいれば、その人は私が読んでいる聖書を読んでいないでしょう。聖書によれば、イエス様が帰って来られるまで、この世はますます悪くなります。

特に、この世の人々の不敬虔さはだんだん悪化します。自分がクリスチャンと自称する人の性格も悪化します。

だから、私は今パウロの言葉を読むと、その言葉の重さを10年前に感じたよりも、感じることができます。パウロはこう言いました。

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。(テモテへの手紙第二3:12-13)

パウロは、「もしかしたら、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けるかもしれない」と言いませんでした。むしろ、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は迫害を受けます」と言いました。その言葉は確実です。

どうしてでしょうか。なぜなら、悪者や偽クリスチャンたちはますます悪に落ちていきますから。偽教師たちがみ言葉に反することを教えます。そして、その聞き手はその偽教師たちを信じて騙されてしまいます。

その結果は、人々の道徳観念が曲がってしまって、この世がますます罪に落ちていくことです。それだけではなく、もし神様の光を暗闇に照らす人がいれば、その人は嫌われます。

だからイエス様はこう言われました。

そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。(ヨハネ3:19-20)

この世では、その真理を見ることができます。人々はいろんな新しい道徳の教えを受け入れますが、神様のみ言葉を拒絶します。

パウロ自身、この世の憎しみを経験しました。だからパウロは光のための自分の苦しみに関してテモテに思い出させます。パウロはテモテに警告します。

「私の経験は意外なことではありません。この世の人々が暗闇に落ちれば落ちるほど、私たちは迫害と苦しみを経験します。

では、私たちはどのように反応するべきでしょうか。パウロは私たちに教えます。

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。(テモテへの手紙第二3:14-15節)

簡単に言うと、真理にしがみつかなくてはいけません。周りの人々は真理に背を向けるかもしれないし、あなたを迫害して、その真理を絶滅しようとするかもしれませんが、真理を持っていて、宣言し続けるべきです。

どうして、私たちはみ言葉を持ち続けなくてはならないのでしょうか。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(16-17節)

神様のみ言葉は私たちのいのちです。そして、私たちがこの世の暗闇と向き合うと、そのみ言葉はすべての良い働きのために私たちを整えます。

み言葉は神の剣で、人々の心を貫いて、その心の中の暗闇を追い出すことができます。

さらに、神様のみ言葉は義について教え、私たちが罪に落ちると、そのみ言葉は私たちを訓戒します。それだけでなく、そのみ言葉は私たちを引き上げ、私たちがどのように生きるべきか訓練します。

最後に、そのみ言葉によって、私たちは試練を耐えることができます。私たちは暗い世界に生きていますが、神様は聖霊様を通していのちの言葉を私たちの心に静かに語りかけてくださいます。

イエス様は「私に従うと、あなたは楽な人生を送る」と約束されません。むしろ、イエス様はこう言われました。

世にあっては苦難があります。 (ヨハネ16:33a)

もしあなたは真理を宣言し、この暗い世界に光を照らすと、苦難を経験します。でもその光を手放さないでください。暗闇によって、その光が消えるように許してはいけません。

むしろ、イエス様の心強い言葉を覚えていましょう。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33b)

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ローマ人への手紙

神様は私を罰しておられるでしょうか

前回の記事で、私は6-8節について話しましたが、その箇所を文脈に戻した方がよいと思います。そうすることで、私たちはパウロの主張をより明確に理解できるでしょう。

パウロが言ったのは、私たちは苦難さえも喜ぶということです。なぜなら、その苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、その品性は希望を生み出すからです。

しかし、多くのクリスチャンは苦難に直面すると、喜びません。むしろ、苦々しい思いを抱きます。忍耐を持たずにあきらめ、希望を持たずに絶望してしまいます。

なぜでしょうか。

多くの人々は、神様が彼らを罰していると思っているからです。彼らが失敗したために、神様が怒り、彼らを苦しませているのだと考えています。

さらに、時々彼らはそう感じますが、なぜ神様が彼らを罰しておられるのか分かりません。だから、その罰が不公平だと感じるのです。

では、パウロは何と言っているのでしょうか。

「神様があなたを罰しておられるという考え方を捨てなさい。」

パウロはこう説明します。

「少し考えてみてください。あなたがクリスチャンになる前、あなたは神様に背を向け、数多くの罪を犯しました。それでもイエス様はあなたのために死んでくださいました。

イエス様は、あなたの悔い改めを待っておられませんでした。あなたが自分自身を清めるのを待っておられませんでした。

あなたがイエス様を求める前に、イエス様はすでにあなたをお探しになり、手を伸ばしておられました。

ルールにこだわる人のために命を捨てる人はほとんどいないでしょう。優しい人のために命を捨てる人はいるかもしれません。

しかし、あなたが神様のルールに背き、神様や周りの人々を傷つけたにもかかわらず、神様はあなたを愛してくださいました。

神様はあなたのために御子を送り、イエス様があなたのために死なれました。

神様がこれほどのことをしてくださったのに、どうして神様があなたを罰しておられると思うのでしょうか。」

パウロはこう言いました。

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方(つまり、イエス様)によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。

敵であった私たちが、御子の死によって、神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが御子のいのちによって、救われるのは、なおいっそう確かなことです。(ローマ人への手紙5:10-11)

つまり、神様の目には、私たちはすでに義と認められています。では、どうして「神様は私を罰している」と思うのでしょうか。私たちはすでに神様の怒りから救われています。

そして、私たちが神様の敵であった時に神様が御手を伸ばしてくださったのなら、今私たちが神様の友である時に、なおさら御手を伸ばしてくださらないでしょうか。

だからこそ、苦難に直面しても、私たちは喜ぶことができます。神様は私たちを罰しておられません。神様は私たちの試練を無視しておられません。

むしろ、神様が私たちを罪から救われたように、試練からも救ってくださいます。

だから、パウロはこう言います。

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(11)

あなたは苦難に直面しているでしょうか。神様があなたを罰しておられるのか疑問に思っているでしょうか。

心に留めておきましょう。神様はあなたを罰しておられません。

もし神様に信頼するなら、火の中を歩いても、あなたは焼かれることはありません。むしろ、その火を通して、神様はあなたを清め、強めてくださいます。

だから、諦めないでください。絶望しないでください。むしろ、神様に信頼し続けましょう。

神様はこう言われました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(5)