私たち皆は、鬱状態になることがあります。時々、私たちは落ち込んで、希望がないと思います。
この二つの詩篇の詩人も同じように感じました。彼は本当に心を打つ描写を使います。
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。(詩篇42:1-2)
アダム・クラークという聖書学者は、この箇所について興味深いことを言いました。
鹿は追いかけられて、本当に疲れて、のどが渇いた時、川に飛び込んで隠れます。その鼻だけが出ています。
私たちも時々そう感じます。八方から攻撃され、疲れ果ててしまいます。だから、私たちは疲れと恐れを抱えて、神様を慕いあえぎ、神様の腕の中に飛び込みます。
けれども、時々、どこを見ても神様を見つけられません。だから詩人のように私たちは叫びます。
いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。(2)
また、詩人のように、私たちは食事を楽しめなくなり、涙が私たちの食べ物になります。
そして、私たちは良い時を思い出します。
その時、教会に行って、友達と一緒に喜びました。また、私たちが祈った時、神様が近くにいて、神様に触れられるように感じました。
しかし今、嵐の中で私たちは溺れているように感じます。何度も大波が私たちの上を越えて行き、希望が失われます。
時々、私たちは自分自身を励まそうと思って、詩人のようにこう言います。
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。(42:5-6)
けれども、すぐに落ち込んで、私たちは神様に尋ねます。
なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。(9)
この箇所から、私たちは何を学ぶことができますか。
一つ目は、あなたが普通の人間であることです。その感情を経験する人は、あなただけではありません。
サタンのよく言う嘘は、「あなただけです。」ということです。
「そんな経験をするのはあなただけだ。あなただけが心の中で苦しむのだ。」
だから、私たちは恥ずかしくなります。他の人には自分の感情など分からない、と思います。
しかし、この詩人は分かっていました。だから、神様はこの詩人にこの詩篇を書かせたのです。
この詩篇によって、私たちは思い出します。「私だけじゃない。他の人も私の戦い、私の苦しみを分かってくれる。」
だから、私たちはどうすれば良いでしょうか。
まず一つ目は、神様が良い方であることを信じ続けることを選択することです。41-42篇で、詩人は3回言います。
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。私の神よ。
神様があなたの神であることを思い出しましょう。神様があなたを愛して、御子イエス様を私たちを救うために送ってくださったことを思い出しましょう。
昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。(42:8)
つまり、あなたが良い時の光の中にいても、悪い時の暗闇の中にいても、神様はあなたを決して捨てておられません。あなたが神様の臨在を感じなくても、神様はあなたのそばにおられます。
だから、詩人のように祈りましょう。
どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。(43:3)
詩人はこう言っています。
「主よ、あなたが見えず、私をどこに導いておられるのか分かりません。どうか、あなたの光を私の上に照らしてください。私が進むべき道を教えてください。
あなたが私を捨てたという嘘を信じないように、どうか私をあなたのもとへ導いてください。」
もう一つ、言いたいことがあります。
あなたが落ち込んでいる時、クリスチャンの友達に話しましょう。彼らは不完全な人ですが、この世にあるキリストの体として、彼らがキリストの手、足、口、耳であることを覚えておきましょう。
そうすれば、あなたが一人ぼっちではないと分かります。
