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コリント人への手紙第一

悪霊と交わること

日本では、多くのクリスチャンたちは仏教の葬式や法事について、どうすべきか悩みます。

意見はさまざまです。そうした儀式に参加しないクリスチャンもいれば、参加はするものの、数珠を使わず、焼香もしない人もいます。

私の考えですが、こうした儀式への参加については、自分の良心に従うべきです。

ただし、参加する場合は、事前に何をするのか、しないのかをよく考えておいたほうがよいでしょう。そうしなければ、自分の良心に反する行動を取ってしまうかもしれません。

例えば、あるクリスチャンはこう考えます。「私は焼香するけれど、特に深い意味はない。この偶像は本当に神々ではないし。」

コリントのクリスチャンも同じような考えを持っていたようです。パウロは彼らに、「偶像に捧げられた肉を食べてもよい」と語りました。

けれども、一部のクリスチャンはそれを聞いて、その言葉以上の行動に踏み出したようです。彼らは市場で偶像に捧げられた肉を購入するだけでなく、友人の家でその肉を食べるだけでなく、さらに偶像礼拝の祭りにも参加していたようです。

もしかすると、彼らはこう考えたかもしれません。 「私は本当にその偶像を礼拝しているわけではない。ただ家族や友人と過ごしているだけだ。」

または、こう考えたかもしれません。 「この祭りに参加することで、家族や友人に愛を示している。それに、この偶像は大したものではない。本当の神々ではないのだから。」

しかし、パウロは彼らにこう言いました。

ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。(コリント人への手紙第一10:14)

そして、パウロは二つのことを指摘します。一つ目は聖餐式についてです。彼はこう言いました。 「聖餐式に参加するとき、キリストの血とからだにあずかることではありませんか。」(16)

つまり、「そのパンを食べ、そのぶどう酒を飲むとき、あなたはイエス様との交わりを示している。イエス様の十字架の御業によって、今やあなたはイエス様との関係を持っていることを表している。」ということです。

そして、パウロは旧約聖書を引用し、イスラエルの民のいけにえについて語ります。彼らの供え物のひとつが「和解のいけにえ」でした。

牛を捧げた後、その肉の一部を家に持ち帰り、家族と共に食しました。それは神様との平和、また神様との交わりの象徴でした。

パウロは言います。 「偶像礼拝の祭りに参加することは、まさに同じことをしているのではないでしょうか。あなたはその偶像との交わりを示しているのです。」

では、偶像の本当の問題とは何でしょうか。ただの金や銀や木の像でしょうか?

そのような考え方は誤りです。パウロはこう言いました。

私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(19-20)

要するに、コリントの人々がその祭りに参加するとき、彼らは実際に悪霊と交わっていました。同様に、焼香をし、仏壇の前で拝むとき、人々は悪霊と交わっていることになります。

では、私たちクリスチャンはそのような行為をしてもよいのでしょうか。

パウロは、それを一切許しませんでした。

あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。

それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。(21-22)

私たちは霊的な事柄を扱うとき、十分に注意する必要があります。私たちは何に向き合っているのでしょうか。神様でしょうか。それとも、悪霊でしょうか。

偶像だけでなく、占星術、手相占い、ウィジャ板、タロットカードも単なる娯楽ではありません。それらは悪霊と関わる行為です。

私たちはそのようなことを避けるべきです。むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(コリント人への手紙第二7:1)