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テモテへの手紙第ー

どうして私たちの行動は大切なのでしょうか

この手紙の2章から3章13節にかけて、パウロは教会について語っていました。とくに、礼拝の場において人々がどのようにふるまうべきか、また、牧師や執事がどのような性格を備えているべきかについて語っています。

その後、パウロは1章で示した要点に立ち返ります。それは、何よりも大切なのは神の働きであるということです。私たちは、神の御国のために信仰の務めを果たしていくべきなのです(テモテへの手紙第一1:4)。

このような理由から、パウロは偽教師たちと彼らのむなしい議論を厳しく非難しました。彼らは神の働きを妨げていたからです。

しかし、神の働きを妨げるのは偽教師だけではありません。クリスチャン自身のふるまいが妨げになることもあります。そのためにパウロは、教会における男性と女性のふるまいや、リーダーたちの資質について詳しく語ったのです。

それらを語り終えたあとで、パウロはこの教えをまとめます。

私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながら、これらのことを書いています。

たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。

神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。(テモテへの手紙第一3:14-15)

この世界に対して、教会は真理の柱であり、土台としての役割を果たすべきです。

世の人々は、教会やクリスチャンの男性、女性、そしてリーダーたちを見るとき、福音の真理を目にするはずです。それは、私たちの言葉によってではなく、神様によって変えられた人生を通して、その真理が明らかになるからです。

教会のリーダーが、世のリーダーたちと同じように振る舞い、 また、クリスチャンの男性や女性がこの世の人々と同様に生きているとしたら、私たちが宣べ伝える神の真理は、世の目には汚されて映ってしまうでしょう。

本来、そうであってはならないのです。しかし残念ながら、多くの場合、それが現実です。

だからこそ、私たちは自らの行動に注意を払わなければなりません。神の教会として、この世の価値観に調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにされることによって、自分を変えていただきましょう。

この文化の圧力に屈してはなりません。この文化の思考に従ってもなりません。むしろ、この世に対して真理の柱と土台として、クリスチャンの兄弟姉妹と共にしっかりと立ちましょう。

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ルカの福音書 ルカ11章

私たちの行動は私たちの言葉に反対するとき

律法学者たちとパリサイ人たちは、旧約聖書の預言者たちを称賛していました。彼らは預言者たちのために墓を建て、こう言いました。

「この預言者たちは本当に偉大だった。もし私たちが先祖だったなら、決して彼らを迫害しなかっただろう。」

ところが、もう一人の預言者が現れました。いや、ただの預言者ではなく、神様が約束された、長く待ち望まれていたメシアがついに来たのです。

それでも、パリサイ人たちと律法学者たちはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様とその弟子たちを殺そうとさえしました。

その行動は彼らの心を示していました。もし彼らが本当に預言者たちを信じ、尊敬していたなら、イエス様をも信じ、尊敬したはずです。しかし、彼らはイエス様に激しく反対しました。

そして、彼らがイエス様に反対したとき、知識の鍵を奪い去りました。彼らは自分たちが神の国に受け入れられると思っていましたが、イエス様は彼らが拒絶されると語られました。

さらに深刻なのは、彼らがイエス様を拒絶したことで、他のユダヤ人たちも天国に入ることができなかったことです。なぜなら、ユダヤ人たちはパリサイ人たちと律法学者たちが真理を知っていると考え、彼らの模範に従ったからです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様に従うと主張していますか。あなたの行動は、あなたの言葉を証明していますか。

それとも、あなたの行動は、あなたがキリストを軽んじていることを証明しているでしょうか。いや、むしろ、あなたの行動はあなたがキリストを拒絶していることを証明しているでしょうか。

正しいことを言うだけでは足りません。あなたの行動は、言葉と一致しなければなりません。

あなたの心には、何が入っていますか。

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ルカの福音書 ルカ10章

知識をもって、行動する?

この箇所を読む時、もう一つの考えが心に浮かびました。

この話の中には、神様の言葉をよく知っている三人が登場します。

もちろん、律法の専門家は実在した人物ですが、残りの二人(祭司とレビ人)はフィクションの登場人物です。とはいえ、そのフィクションの登場人物にも、律法の専門家と同じ問題がありました。

この三人は神様の律法を熟知しており、もしイエス様が律法に関する質問をしたなら、彼らは即座に答えることができたでしょう。

しかし、彼らの心の中で、その律法の意味を本当に理解していたわけではありませんでした。そのため、たとえ話の中で、祭司とレビ人は怪我をした人を助けることがありませんでした。

彼らは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神を愛すること」と「隣人を愛すること」の本質を理解していなかったのです。むしろ、自分の愛の欠如に対して言い訳をしていたのです。

律法の専門家も同様でした。律法を読んで自分の弱さを見た時、彼は「イエス様、どうすればよいでしょうか。私は神様の基準を満たすことができません」とは言いませんでした。

代わりに、彼は自分の正しさを証明しようとしました。イエス様は彼の心の状態を示そうとされましたが、律法の専門家は律法の意味を議論したいと考えていました。

その結果、彼はイエス様にこう尋ねました。「では、私の隣人とは、誰のことですか。」

だから、イエス様はたとえ話を通して律法の専門家に自分の質問に答えさせました。そしてイエス様はこう言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」

そのあと、律法の専門家はどうしたのでしょうか。私たちにはわかりません。

おそらくルカは、私たち自身が自分の心を探ることを望んだのだと思います。私たちはイエス様の言葉を聞いて、どう応答するでしょうか。

聖書の知識を持つだけでは足りません。聖書の言葉を引用するだけでも足りません。その言葉に従い、その言葉を心に受け入れて、私たちの内面を変えていく必要があります。

もう一つのことを考えましょう。

このたとえ話では、サマリヤ人は祭司とレビ人の行動を目撃したでしょうか。もし目撃していたとしたら、彼らを見てどう感じたでしょうか。

周囲の人々は私たちを見る時、何を見るでしょうか。彼らはこう言うかもしれません。

「どうしてこの人は愛にこんなに満ち溢れているのだろう。どうしてこの人はこんなにも憐れみ深いのだろう。私もそのようになりたい。」

あるいは、彼らはこう言うかもしれません。「これがクリスチャンですか?私の方がずっと良い人間だと思いますけど。」

私たちは知識だけを持つことのないようにしましょう。むしろ、神様の言葉を心に受け入れ、その言葉に従いましょう。

日曜日に教会に行って宗教的な活動をするだけではなく、憐れみ深く、恵み深い人生を送りましょう。

そうすれば、私たちを見る時、周りの人々はイエス様を見ることができ、イエス様についてもっと知りたいと思うようになります。