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マタイの福音書のデボーション

私のことを考えるとき、人々は何を思い出すのだろうか

マタイの福音書26:6-16では、クリスチャンたちがよく覚えている二人の人物が登場します。

もちろん、私たちはベタニヤのマリアを覚えています。なぜなら、彼女は本当にイエス様を愛していたからです。

イエス様は、彼女についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。(マタイの福音書26:13)

でも14節では、私たちはもう一人の人物を見ます。私たちはイスカリオテ・ユダもよく覚えています。なぜでしょうか。なぜなら、彼はイエス様を裏切ったからです。

私たちが亡くなった後、人々は私たちについて何を思い出すでしょうか。彼らは私たちのことを何と言うでしょうか。彼らは、イエス様に対する私たちの愛を思い出すのでしょうか。

良い知らせは、たとえ私たちが大失敗しても、評価が変わる可能性があるということです。

ペテロは「イエス様を知らない」と三回言いました。もちろん、私たちはペテロの失敗をよく覚えています。でも、私たちはペテロの人生に注がれたイエス様の恵みも覚えているでしょう。

私のことを思い出すとき、人々がその二つのことを思い出してほしいです。つまり、イエス様に対する私の愛と、私の人生に注がれたイエス様の素晴らしい恵みを思い出してほしいのです。

How will they remember me? 
人々は、私について何を思い出すのだろうか。

I hope when they remember they see you.
人々が私のことを思い出すとき、私の中にイエス様を見てもらえるように祈ります。–キム・ボイス

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ13章 ルカの福音書 ルカ22章

裏切り

福音書を統合すると、一つの疑問が浮かびます。それは、ユダが最初の聖餐式に参加していたかどうか、ということです。

ルカは、ユダが参加したことを暗示しているようですが、他の著者の記述を見ると、ユダは参加しなかったように思われます。

私の考えでは、ユダは恐らく聖餐式に参加していたのではないでしょうか。おそらく、他の著者は最後の晩餐の出来事を年代順には記録していなかったのだと思います。

いずれにせよ、この箇所では、イエス様が裏切り者であるユダをどのように扱われたのかが描かれています。この話には、興味深い点がいくつかあります。

ヨハネは(「イエス様が愛しておられた弟子」はヨハネのことだと考えられます)、イエス様の隣に座っていたようです。けれども、ユダもイエス様の隣に座っていた可能性があります。

私がそう考えるのは、弟子たちがユダに対するイエス様の言葉をすべて聞いていたわけではないからです。もし彼らが、イエス様がユダを裏切り者としてはっきり指摘されるのを聞いていたなら、きっとユダを責めていたことでしょう。

多くの最後の晩餐の絵画とは異なり、この場面では誰も椅子に座っていなかったと考えられます。彼らは低いカウチに座り、横になって左肘で体を支えていました。そのため、彼らの頭は隣の人の胸の近くにあるような状態でした。

したがって、おそらくイエス様の右側にはヨハネが座り、左側にはユダが座っていたのでしょう。

以前述べたように、イエス様の隣に座ることは大変光栄なことと考えられていました。そのため、イエス様はユダを左側に座らせることで、ユダに特別な光栄を与えられたのです。

それでも、イエス様はユダの心をよくご存じでした。

そして、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。(ヨハネ13:21)

弟子たちはそれを聞いて、衝撃を受けました。そして、一人一人がイエス様に尋ねました。「まさか私ではないでしょうか。」

ユダ自身もイエス様に同じように尋ねました。

もしかすると、ユダはイエス様を完全に欺いたと思っていたのかもしれません。しかし、イエス様は答えられました。「はい。あなたですよ。」

ユダのショックを想像してください。彼の秘密は明るみに出ました。もしかすると、彼はイエス様が皆の前で彼を暴露し、その結果、自分が殺されるのではないかと恐れたかもしれません。

おそらくその頃、ペテロはヨハネに尋ねたでしょう。「イエス様が誰について話しているのか、聞いてみてくれ。」(ヨハネ13:24)

イエス様はヨハネに答えられました。

わたしがパン切れを浸して与える者が、そのひとです。(ヨハネ13:26)

実は、その時代において、パン切れを浸して与えることは、もう一つの光栄を示す方法でした。

そのため、イエス様がパンを浸してユダに与えたとき、おそらくヨハネ以外の弟子たちは「すごいな。私たちが思っていたより、ユダは偉いのかもしれない。」と思ったでしょう。

ユダ自身も驚いたことでしょう。一瞬、彼はイエス様の言葉の意味を誤解したかもしれません。

けれども、イエス様は彼に言われました。

あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。(ヨハネ13:27)

ユダはそれを聞いて、イエス様が彼の心をよく知っておられたことを悟りました。そして、彼はその家を出て、イエス様を裏切るためにイエス様の敵のもとへ向かいました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちを裏切る人もいるということです。彼らは意図的に私たちを傷つけることがあります。そのようなとき、私たちが苦々しい思いを抱き、彼らを軽蔑するのは簡単です。

しかし、イエス様がユダを神によって造られた人間として尊重されたように、私たちも裏切り者を神によって造られた人間として尊重すべきです。

それでも、私たちは彼らの性格をよく理解している必要があります。彼らの本質について、私たちは自分自身を欺いてはいけません。そして、可能な限り、私たちは自分を守るべきです。

イエス様の生涯を見ると、イエス様もそのような姿勢を取られました。人々がイエス様を殺そうとしたとき、イエス様はすぐに身を避けられました。

ユダの場合だけは、イエス様は逃げませんでした。なぜなら、ついにイエス様の時が来たからです。イエス様がこの世に来られた目的は、私たちの罪のために死ぬことでした。

とはいえ、神様は一般的に、私たちが虐待を甘んじて受けることを求めているわけではありません。そのため、できる限り、その人から距離を取りましょう。

もし、どうしてもその人を避けられないのであれば、あなたの盾を常に持っていてください。つまり、彼らがいるときには、警戒しなければなりません。

もし相手の性格をよく理解し、彼らの言動によって自分の心の備えができていれば、自己防衛することができます。

それでも、私たちは相手を許すべきです。そしてさらに、彼らを神によって造られた人間として尊重すべきです。

ペテロはこう記しました。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(第一ペテロ3:9)

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詩篇

友達があなたを裏切る時

いつ詩篇55篇が書かれたか分かりませんが、ダビデに対するアブサロムの反抗の時に書かれたものかもしれません。

その時、ダビデの議官アヒトフェルはダビデに背を向けて、アブサロムを助け始めました。どうしてアヒトフェルがダビデを裏切ったのかについてはこちらのブログで書きました。

ダビデは追放され、絶望して、叫びました。

神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いから、身を隠さないでください。

私に御心を留め、私に答えてください。私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。

それは敵の叫びと、悪者の迫害のためです。彼らは私にわざわいを投げかけ、激しい怒りをもって私に恨みをいだいています。

私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。(詩篇55:1~4)

そして、ダビデは嘆きます。

まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。

そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。

私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。(12-14)

また、

彼は、自分の親しい者にまで手を伸ばし、自分の誓約を破った。

彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である。(20-21)

友達に裏切られるのは苦しいことです。あなたが彼らを愛していたのに、彼らはあなたに背を向けて、わざとあなたを傷つけようとするからです。彼らはあなたの友達のふりをしますが、あなたが見ていない時、ナイフをあなたの背中に刺します。

友達に裏切られるのも苦しいですが、夫や妻に裏切られるなら、本当に苦しいです。そして、その裏切りによって、あなたは人を信頼することが難しくなるかもしれません。もしくは、神様を信頼することが難しくなるかもしれません。

でも、イエス様も裏切りの苦しみを知っていることを覚えていてください。ユダがイエス様を裏切ったので、イエス様はあなたの感情がよく分かります。

それに、イエス様はあなたを決して裏切りません。むしろ、イエス様はいつもあなたに対して誠実です。

ダビデはそのことを知っていたので、こう歌いました。

私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。

夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。

主は、私のたましいを、敵の挑戦から、平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。(16-18)

言い換えれば、他の人々は私たちに背を向けるかもしれませんが、神様は決してそうしないということです。だから、ダビデは私たちに言います。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(22)

そして、ダビデは、信仰によって叫びます。

けれども、私は、あなたに拠り頼みます。(23)

あなたは裏切られましたか。あなたが人を信頼することは難しくなりましたか。あなたの苦しみに駆られることがないようにしましょう。

むしろ、あなたに忠実である神に信頼しましょう。あなたの重荷と痛みを主に委ねましょう。そうすれば、あなたは癒されます。

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ミカ書

私たちが人々に頼ることができない時に

信頼関係が破れると、その修復は非常に難しいものとなります。浮気によって心に傷を負った人々は、その事実を深く理解していることでしょう。

時として、信頼関係が破れると、他の人々を信頼することさえ困難になります。「この世で一体誰を信頼できるのだろうか」と思うこともあるかもしれません。

ミカもそのように感じた可能性があります。彼の国は暴力と不正義に満ちあふれていました。ミカにとって、誰を信頼すべきかわからない状況だったのです。

リーダーたちや士師たちさえも信頼に値しませんでした。なぜなら、彼らには正義への関心が全くなく、むしろ常に賄賂を要求していたからです。

このような堕落はすべての人々に悪影響を及ぼしました。ミカは次のように言いました。

敬虔な者はこの地から消えうせ、人の間に、正しい者はひとりもいない。みな血を流そうと待ち伏せし、互いに網をかけ合って捕らえようとする。。。

彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。(ミカ書7:2,4)

そして、ミカはこう言いました。

友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁はしゅうとめに逆らい、それぞれ自分の家の者を敵としている。(5-6)

それは確かに暗い言葉ですが、その国の中でミカは深刻な堕落を目の当たりにしていたため、そう感じたのです。

私たちも時として同じように感じることがあります。「この世で一体誰を信頼できるのだろうか」と思うことがあるでしょう。

けれども、間違いなく信頼できるお方がおられます。

ミカはこう書きました。

しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。(7)

たとえ皆が私たちをがっかりさせても、神様は決してそうなさいません。

たとえ皆が私たちに背を向けても、神様は私たちを決してお見捨てになりません。

たとえ皆が私たちを裏切っても、神様は常に私たちに忠実でいてくださいます。

神様はいつも私たちを見守ってくださっています。

神様は私たちの声に耳を傾け、私たちの祈りを聞き入れてくださいます。

神様は私たちが置かれている状況をすべてご存じです。

だからこそ、私たちは主を仰ぎ見て、主を待ち望みましょう。

主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」(へブル13:5-6)

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サムエル記第一

裏切り

聖書で裏切りの話を考えるとき、多くの人はこの話を思い出さないでしょう。つまり、ケイラという町の人々がダビデを裏切ったことです。なぜなら、最終的にダビデは逃げ延びて助かったからです。

けれども、もし逃げていなかったら、ダビデはサウルに殺されていたかもしれません。

それでも、おそらくダビデとその民は傷ついたでしょう。

ペリシテ人からケイラ人を救うために命を危険にさらしたにもかかわらず、ケイラ人はダビデを助けませんでした。それどころか、サウルと戦うことを避け、ダビデをサウルに引き渡そうと決めたのです。

ダビデはこのことを知ると、すぐに彼とその民はケイラを離れました。その結果、サウルは諦めました。

裏切りに直面したとき、ダビデの例から何を学べるでしょうか。

一つ目は許しと理解です。理解によって私たちは許すことができます。

ダビデにはケイラ人に怒る権利がありました。彼とその民が命を危険にさらしてケイラ人を助けたにもかかわらず、ケイラ人はダビデとその民を助けませんでした。

それでも、ダビデは自分の怒りによってケイラ人に対して行動することはありませんでした。ダビデはケイラ人を責めず、むしろ彼らの状況を理解し、許しました。

ダビデは彼らがどうしてそのように反応したかを理解していました。つまり、ケイラ人は自分自身を守る力がありませんでした。

だから、ペリシテ人が攻めたときにはダビデの助けが必要でしたし、サウルとその軍隊が来たときには恐れ、結果としてダビデを裏切る決断をしたのです。

ある話を聞いたことがあります。ある人は子供の頃、父から虐待を受けていました。そのため、ずっと父を許すことができませんでした。

けれども、その人にとっての転機は、父もまた虐待を受けていたことを知ったときでした。父の傷を理解するようになったとき、その人は父を許すことができるようになったのです。

もしあなたが裏切られ、許すことができないのであれば、大切なことは「理解」を得られるよう祈ることです。

なぜなら、イエス様が祈られたように、私たちを傷つけた多くの人々は、実際に何をしたのか、また、どうしてそれをしたのかを知らないからです。

でも、二つ目に重要なことは、相手を理解し許すべきではあるけれど、危険な環境にとどまる必要はないということです。つまり、相手があなたを傷つけ続けるならば、距離を置くことも許されるということです。

ダビデはケイラ人の弱さを理解しました。そして彼らを許しました。それでも、彼らの裏切りを知ったとき、ダビデはすぐに逃げました。

時として、人々は許しについて誤解を抱きます。許しとは、相手が自分を傷つけることを許可することだと考える人もいます。

しかし、それは間違いです。許すべきですが、相手が悔い改めない場合や、さらに危険が伴う場合には、逃げることも選択肢に含まれます。

だからこそ、ダビデはケイラから、またサウルから逃げたのです。

あなたは裏切られたことがありますか。

神様は私たちに相手を理解しなさいと言われます。そして、相手を許しなさいとも言われます。

しかし、神様は相手の手による苦しみに耐え続けることを求められるわけではありません。