福音書を統合すると、一つの疑問が浮かびます。それは、ユダが最初の聖餐式に参加していたかどうか、ということです。
ルカは、ユダが参加したことを暗示しているようですが、他の著者の記述を見ると、ユダは参加しなかったように思われます。
私の考えでは、ユダは恐らく聖餐式に参加していたのではないでしょうか。おそらく、他の著者は最後の晩餐の出来事を年代順には記録していなかったのだと思います。
いずれにせよ、この箇所では、イエス様が裏切り者であるユダをどのように扱われたのかが描かれています。この話には、興味深い点がいくつかあります。
ヨハネは(「イエス様が愛しておられた弟子」はヨハネのことだと考えられます)、イエス様の隣に座っていたようです。けれども、ユダもイエス様の隣に座っていた可能性があります。
私がそう考えるのは、弟子たちがユダに対するイエス様の言葉をすべて聞いていたわけではないからです。もし彼らが、イエス様がユダを裏切り者としてはっきり指摘されるのを聞いていたなら、きっとユダを責めていたことでしょう。
多くの最後の晩餐の絵画とは異なり、この場面では誰も椅子に座っていなかったと考えられます。彼らは低いカウチに座り、横になって左肘で体を支えていました。そのため、彼らの頭は隣の人の胸の近くにあるような状態でした。
したがって、おそらくイエス様の右側にはヨハネが座り、左側にはユダが座っていたのでしょう。
以前述べたように、イエス様の隣に座ることは大変光栄なことと考えられていました。そのため、イエス様はユダを左側に座らせることで、ユダに特別な光栄を与えられたのです。
それでも、イエス様はユダの心をよくご存じでした。
そして、イエス様はこう言われました。
まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。(ヨハネ13:21)
弟子たちはそれを聞いて、衝撃を受けました。そして、一人一人がイエス様に尋ねました。「まさか私ではないでしょうか。」
ユダ自身もイエス様に同じように尋ねました。
もしかすると、ユダはイエス様を完全に欺いたと思っていたのかもしれません。しかし、イエス様は答えられました。「はい。あなたですよ。」
ユダのショックを想像してください。彼の秘密は明るみに出ました。もしかすると、彼はイエス様が皆の前で彼を暴露し、その結果、自分が殺されるのではないかと恐れたかもしれません。
おそらくその頃、ペテロはヨハネに尋ねたでしょう。「イエス様が誰について話しているのか、聞いてみてくれ。」(ヨハネ13:24)
イエス様はヨハネに答えられました。
わたしがパン切れを浸して与える者が、そのひとです。(ヨハネ13:26)
実は、その時代において、パン切れを浸して与えることは、もう一つの光栄を示す方法でした。
そのため、イエス様がパンを浸してユダに与えたとき、おそらくヨハネ以外の弟子たちは「すごいな。私たちが思っていたより、ユダは偉いのかもしれない。」と思ったでしょう。
ユダ自身も驚いたことでしょう。一瞬、彼はイエス様の言葉の意味を誤解したかもしれません。
けれども、イエス様は彼に言われました。
あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。(ヨハネ13:27)
ユダはそれを聞いて、イエス様が彼の心をよく知っておられたことを悟りました。そして、彼はその家を出て、イエス様を裏切るためにイエス様の敵のもとへ向かいました。
この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
第一に、私たちを裏切る人もいるということです。彼らは意図的に私たちを傷つけることがあります。そのようなとき、私たちが苦々しい思いを抱き、彼らを軽蔑するのは簡単です。
しかし、イエス様がユダを神によって造られた人間として尊重されたように、私たちも裏切り者を神によって造られた人間として尊重すべきです。
それでも、私たちは彼らの性格をよく理解している必要があります。彼らの本質について、私たちは自分自身を欺いてはいけません。そして、可能な限り、私たちは自分を守るべきです。
イエス様の生涯を見ると、イエス様もそのような姿勢を取られました。人々がイエス様を殺そうとしたとき、イエス様はすぐに身を避けられました。
ユダの場合だけは、イエス様は逃げませんでした。なぜなら、ついにイエス様の時が来たからです。イエス様がこの世に来られた目的は、私たちの罪のために死ぬことでした。
とはいえ、神様は一般的に、私たちが虐待を甘んじて受けることを求めているわけではありません。そのため、できる限り、その人から距離を取りましょう。
もし、どうしてもその人を避けられないのであれば、あなたの盾を常に持っていてください。つまり、彼らがいるときには、警戒しなければなりません。
もし相手の性格をよく理解し、彼らの言動によって自分の心の備えができていれば、自己防衛することができます。
それでも、私たちは相手を許すべきです。そしてさらに、彼らを神によって造られた人間として尊重すべきです。
ペテロはこう記しました。
悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(第一ペテロ3:9)