ああ、良かったですね!これは年代順に書かれている本なのですね。😊
エレミヤ書は本当に大変です。いつもあっちこっちに飛ばなくてはならないですから。
さて、エホヤキン王(最後から二番目のユダの王)が捕囚として連れ去られてから5年目に、エゼキエルは預言し始めました。
エゼキエルは、エホヤキンと他のユダ人たちと共にバビロンに追放されました。エゼキエルは祭司の息子で、30歳になり祭司として仕えるはずでしたが、神様は彼を預言者として召されました。
エゼキエルは最初に「ケルビム」という天使を見たようです。
ケルビムは4つの顔を持っていました。それらは人間の顔、獅子の顔、牛の顔、そして鷲の顔です。多くの聖書学者たちは、それらの顔がイエス様を象徴すると考えています。
- マタイの福音書では、イエス様はユダの獅子として表されました。つまり、イエス様は王です。
- マルコの福音書では、イエス様は牛として表されました。つまり、イエス様はしもべです。
- ルカの福音書では、イエス様は人間として表されました。つまり、イエス様は人の子です。
- ヨハネの福音書では、イエス様は鷲として表されました。つまり、イエス様は神の子です。
ケルビムは神様の全知を象徴しています。(4つの顔が別々の方向を向いていたため、何でも見ることができたのです。)
またケルビムは神様の偏在をも象徴していました。(1つの輪が他の輪の中にあり、どこにでも行くことができました。)
そして、神様が現れ、エゼキエルに語られました。
まず、神様はこう言われました。
人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。
彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。
あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。
人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。
たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。
彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。
彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。(エゼキエル書2:3ー7)
神様はエゼキエルに二つのことを言われました。
1つ目は、神様がエゼキエルをイスラエル人に遣わされるということです。
2つ目は、イスラエル人がエゼキエルのメッセージを聞こうが聞くまいが、エゼキエルはそのメッセージを伝えなければならないということです。
神様は私たちにも同じことを言われます。
神様は私たちを周りの人々に遣わしておられます。私たちが神様のメッセージを伝える時、聞く人もいれば、聞かない人もいます。
けれども、彼らが聞こうが聞くまいが、私たちはそのメッセージを伝えなければなりません。
そして、神様はエゼキエルにこう言われました。
あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。(エゼキエル書2:8)
神様はエゼキエルに巻物を与えられました。しかし、その巻物に幸いな言葉は書かれていませんでした。むしろ、「哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」(2:10)のです。
つまり、それらの言葉は裁きの言葉でした。なぜなら、イスラエル人たちが罪を犯していたからです。
エゼキエルがその巻物を食べると、その言葉は蜜のように甘かったのです。
私たちも神様の言葉を受け入れるべきです。そして、その言葉を味わうべきです。けれども、その言葉を自分のためだけに保つのではなく、周りの人々にシェアしなければなりません。
もちろん良い言葉もシェアすべきですが、警告の言葉もシェアすべきです。なぜでしょうか。
神様はエゼキエルにこう言われました。
人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
わたしが悪者に、「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。
もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。
それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。
しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17ー21)
神様は何を言われているのでしょうか。
私たちは神様の見張り人です。だから、人々に「罪を悔い改めなさい」と伝える責任があります。
彼らが聞いて悔い改めれば、救われます。もし聞かなければ、滅びます。いずれにせよ、その場合、神様は彼らの血の責任を私たちに問われません。
しかし、もし私たちが彼らに警告しないなら、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます。
私たちは周りの人々が神様のメッセージにどのように反応するかをコントロールすることはできません。
とはいえ、彼らが聞こうが聞くまいが、神様は私たちにそのメッセージを伝えるように命じておられます。
私たちは友達、同僚、そして家族にこのメッセージを伝えるべきです。そのメッセージを聞いて救われる人もいれば、そのメッセージを聞かずに滅びる人もいます。
しかし、自分自身にこの質問をしてみてください。「私は神様が命じられたことを行っているでしょうか。私は周りの人々に神様の裁きと救いについて伝えているでしょうか。」
あなたはどうですか。
