多分、パウロは裁判でのイエス様の気持ちがよくわかったことでしょう。
イエス様のように、パウロは処刑の可能性に直面した時、裁判で一人で立ちました。それ以前、パウロにはたくさんの友達がいましたが、その裁判でパウロを支える人はいませんでした。
その時、多分パウロは十字架でイエス様の祈りを覚えていたでしょう。だから、イエス様のように、パウロは自分を裏切った友達のために祈りました。
どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。(テモテへの手紙第二4:16)
どうやって、パウロは裁判での敵対的な「獅子」に直面したことができたでしょうか。(多分、それは文字道理の獅子ではなかったでしょう。) パウロはその答えを私たちに与えます。
しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。
こうして私は獅子の口から救い出されたのです。(17節)
パウロは友人たちに見捨てられながらも、イエス様の臨在を感じていました。おそらく、イエス様が弟子たちに約束されたように、パウロは自分を弁護した際に、聖霊様からの知恵を受けていたのでしょう。(マルコ13:11)
そういうわけで、自分の裁判で処刑に直面したのにパウロは大胆に福音を述べ伝えることができました。
さらに、パウロは強い希望を持っていました。
主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(18節)
パウロは、神様が自分の命を救ってくださると信じていたわけではありませんでした。むしろ、彼は自分が間もなく死ぬことを信じていました。(6節)
でも、パウロが信じていたのは、ローマ人たちは彼の身体を殺しても、彼の魂を殺すことができないということです。だから、パウロの身体が死んだとしても、彼の魂は天国に行って永遠にイエス様と共にいることを信じていました。
そういうわけで、パウロは平安を持っていました。
あなたはどうですか。あなたはパウロの確信と希望を持っているでしょうか。
私はこれまで何度もお伝えしてきましたが、イエス様は私たちに楽な人生を約束されたわけではありません。むしろ、イエス様は苦難を約束されました(ヨハネ16:33)。
それでも、試練の中でイエス様があなたと共におられることを、しっかりと心に留めてください。たとえ周りの人々があなたを見捨てたとしても、イエス様は決してあなたを見捨てられません。
そして、あなたが亡くなる時でさえ、イエス様はあなたを天国に連れて行ってくださいます。
だから、どんな試練に直面しても、勇気を持ってあきらめないでください。むしろ、ヘブル書の著者の言葉を覚えておきましょう
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル書12:2-3)
パウロが祈ったように、私もあなたのために祈ります。
主があなたの霊とともにいてくださいますように。恵みがあなたがたとともにありますように。(テモテへの手紙第二4:22)
