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マタイの福音書のデボーション

許せないのか?許したくないのか?

彼の仲間はひれ伏して、「もう少し待ってください。そうすればお返しします」と嘆願した。

しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。(マタイの福音書18:29ー30)

「しかし、承知しませんでした。」

直訳すると、「彼はそうしたくなかった。」

彼は何をしたくなかったのでしょうか。

彼は、借金の返済を待ちたくなかったのです。

もちろん、彼は、絶対にその借金を許したくなかったのです。

原語では、しもべの仲間は何度もあわれみを願いましたが、しもべは何度も「嫌だ」と言いました。

「私は待ちたくない。我慢したくない。許したくない。」

あなたは、そのような態度を取っているでしょうか。

多くの人々は「許せない」と言います。

でも、「許せない」とは、「許すことができない」という意味でしょうか。それとも、「相手を赦したくない」という意味でしょうか。

神の子どもたちは、そのような態度を取ってはいけません。なぜなら、神様は私たちをたくさん赦してくださったからです。

「許せない、許したくない」という態度は、罪です。

もちろん、許すのが難しいときもあります。許すのが非常に難しいときもあります。神様はそれを理解しておられます。

しかし、頑なに「私は許したくない」と主張する態度と、へりくだってイエス様のもとに来て、「私は許したいけれど、私の傷は深いです。どうやって許すことができるのか、よく分かりません。助けてください」と願う態度は、まったく異なります。

ペテロはこう言います。

みな互いに謙遜を身に着けなさい。

「神は高ぶる者には敵対し、 へりくだった者には恵みを与えられる」 のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ぺテロ5:5~7)

プライドは、自分の傷を手放すことを拒みます。「私は傷ついた。私はもっと優しく扱われるべきだ。あいつは罰せられるべきだ。」

けれども、謙遜な人は、自分が人を傷つけることがあると認めます。

謙遜な人は、自分が神様に対して罪を犯したことがあると認めます。

謙遜な人は、周囲の人々のあわれみ、そして神様のあわれみをどれほど必要としているかを認めます。

だから、謙遜な人は自分の傷を手放し、相手を許すことを選びます。

とはいえ、以前にも言ったように、人を許すのが難しいときもあります。傷が深ければ深いほど、相手を許すのは難しくなります。

しかし、ペテロは、神様が私たちのことを心配してくださることを思い出させてくれます。神様は、私たちの傷を癒したいと願っておられます。

そして神様は、私たちの傷が癒されるためには、まず私たちが相手を許さなくてはならないことをご存じです。

もしあなたがへりくだって、「どうやって相手を許すことができるのか分かりません。でも、許そうとします。助けてください」と祈るなら、神様は喜んで助けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様は、今あなたに誰かについて語っておられるでしょうか。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

人を愛しているのか?それとも、つまずいているのか?

光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。

自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。(ヨハネの手紙第一2:9ー10)

たぶん、私たちの多くは、上のことばをよく読み流します。なぜなら、私たちは「私は大丈夫だ。私は誰も憎んでいない」と思うからです。

それはそうかもしれないけれど、私たちがよく裁く人がいるでしょうか。

私たちが許していない人がいるでしょうか。

今日、私は4人の人たちのことを考えていました。私は彼らを憎んでいるわけではないけれど、彼らを思い出すたびに、私はよくつまずいてしまいます。

私は、「私は彼らを本当に愛していないのだろう」と思いました。

だから、彼らに対する私の態度を直せるように祈っています。そのために、私は本当に神様の助けが必要です。

あなたはどうですか。神様は、あなたに誰かについて語りかけておられるでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

自分自身に気をつけなさい

イエスは弟子たちに言われた。

「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。

あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。

一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」(ルカの福音書17:1ー4)

「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉は、その前の言葉に繋がっているでしょうか。もしかすると、そのあとの言葉に繋がっているでしょうか。答えは少し微妙です。

(新約聖書の節番号は、西暦1555年に発明されたことをご存じでしたか。)

とにかく、「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい」という言葉は、どちらにも繋がると考えるのが理にかなっています。

1ー2節を読むと、いつも身に染みます。今朝、私は祈りました。

「天のお父さん、私はつまずきをもたらす者になりたくありません。私のせいで妻と娘がつまずかないように。私のせいで同僚たちと生徒たちがつまずかないように。私のせいで教会の兄弟たちと姉妹たちがつまずかないように。」

でも、もう一つのことに関して、私たちは自分自身に気をつけなければなりません。

私たちは傷ついたとき、苦々しい思いに気をつけなければなりません。私たちは相手への怒りを心にずっと抱いてはいけません。むしろ、私たちはすぐに相手と話さなくてはなりません。その目的は、単に怒りをぶつけることではなく、和解を求めることです。

でも、相手が悔い改めても、悔い改めなくても、私たちは許すべきです。それは相手の益のためではなく、私たちの益のためです。

相手を許さないと、苦々しい思いは私たちの心を蝕んでしまいます。だから、そういう意味でも、私たちは自分自身に気をつけなければなりません。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

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ルカの福音書のデボーション

許し

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。

兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て「悔い改めます」と言うなら、赦しなさい。。。

同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカの福音書17:1ー4,10)

主よ、私は、あなたの子供たちをつまずかせる者になりたくありません。私の行為や言葉を守ってください。私が人をつまずかせる者ではなく、人の成長に役立つ者となるようにしてください。

そして、人々が私を傷つける時、私が相手を許すことができるように助けてください。

あなたは七回以上、私を赦してくださいました。あなたに何度も赦されたしもべである私が、相手を許すべきなのは当然のことではないでしょうか。それが、私のなすべきことではないでしょうか。

でも、時々、それは簡単なことではありません。特に、桑の木のように私の痛みが根深いときには、許すのは難しいのです。

でも、あなたが言われたのは、相手を許すために私には大きな信仰は要らないということです。私の小さな信仰でも、十分なのです。なぜなら、あなたは偉大な神だからです。

あなたがしてくださったことのゆえに、私がいつも感謝の心を持つことができますように。特に、あなたは私の多くの罪を赦してくださいました。

十人の人のツァラアトを清められたように、私の罪を清めてくださいました。私がその赦しを決して当たり前のものと思わないように。むしろ、その感謝の念が深まるにつれて、私が相手を許すことができますように。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第二のデボーション

「許せない!」

「許せない!」

アヒトフェルは、ダビデが自分の孫バテ・シェバとその夫ウリヤに何をしたかを知ったとき、たぶんそう言ったのでしょう。(第二サムエル記11:3;23:34)

自分の行為によって、ダビデはバテ・シェバに恥をかかせ、アヒトフェルの家名を汚してしまいました。

だから、私たちはダビデに関するアヒトフェルのアドバイスをよく理解できます。

たぶんアブサロムがダビデの側女たちと寝た場所さえも、アヒトフェルには意義があったのでしょう(第二サムエル記11:2;16:20-22)。

また、どうしてアヒトフェルが兵士ではなく、ただの助言者でありながら、自らダビデを殺す軍隊を率いたかったのか、私たちは理解できます。

でも、最終的に、アヒトフェルはダビデを許せなかったため、自分の人生が壊れてしまいました。

あなたはどうですか。許してあげなければならない人はいますか。

許すとは、
囚人を自由にし、
その囚人が自分であったと分かってくることです。

ルイス・B・スメデス
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サムエル記第二のデボーション

いつまで?

いつまで私たちは怒りや苦々しい思いを持ち続けるでしょうか。

いつ、その怒りと苦々しい思いを手放すのでしょうか。

アブネルはヨアブの弟アサエルを殺していたため、ヨアブともう一人の弟アビシャイはアブネルを殺そうとしました。

しかし、彼らがアブネルを追うにつれて、他の兵士たちも殺されていきました。

そして、太陽が沈んでもヨアブとアビシャイが諦めようとしないのがわかったとき、アブネルは彼らにこう言いました。

いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

いつになったら、兵たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。(サムエル記第二2:26)

後の章で見るように、ヨアブは非常に暴力的な人でした。(アビシャイも暴力的な人でした。)それでも、その日、彼はアブネルの知恵を認めて、帰りました。

あなたはどうでしょうか。心の中に、どんな傷を抱えているでしょうか。

許せない人がいるでしょうか。

自分の怒りのゆえに、相手を傷つけ続けようとしているでしょうか。

私たちの主の言葉に耳を傾けましょう。

「いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

あなたの怒りを手放しなさい。あなたの痛みを私に委ねなさい。そうすれば、私はあなたを癒します。」

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ペテロの手紙第一のデボーション

不公平

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは。。。あなたがたを神に導くためでした。(ぺテロの手紙第一3:18)

「不公平だ!こんなこと許されない!」

そのような言葉を言ったことがあるでしょうか。私にはあります。

でも、18節を読んだとき、私が気づいたのは、イエス様が最大の不公平を受けていたということです。

イエス様は義人でした。彼は罪を犯したことがありませんでした。それでも、十字架で、イエス様は私たち罪人のために苦しみました。私たちの罪のために苦しみました。

どうしてでしょうか。

私たちを神様に導くためです。

でも、イエス様がただ「公平さ」だけを考えていたとしたら、私たちはどうなっていたでしょうか。

イエス様がそのように考えていなくて、本当に良かったですね。

むしろ、イエス様は私たちのことを心配してくださいました。

イエス様は、天の父と私たちとの関係が回復されることを望まれました。

だからイエス様は、「公平さ」への関心を脇に置かれました。

主よ、人々が私を不公平に扱うとき、私があなたの態度を取るように助けてください。彼らに対するあなたの愛と心配を私に与えてください。

あなたが十字架で苦しんでいた時、私に模範を残されました。私があなたの足跡に従うようにしてください。(第一ペテロ2:21~23)

私が悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、平和を求めるように助けてください。

私を傷つけた相手と私との平和だけではなく、その人とあなたとの平和をも求めるように助けてください。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ローマ人への手紙

人々が私たちを憎むとき

最初のクリスチャンたちは、この世の憎しみや迫害に直面しました。2000年後の今も、クリスチャンは同じ問題に向き合っています。

だから、パウロの言葉は今もなおクリスチャンにとって重要なのです。パウロはこう語りました。

あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。(ローマ人への手紙12:14)

イエス様は、山上の垂訓で同じような教えを語られました。

自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

イエス様はご自身の言葉を実践されました。十字架の上で、イエス様はご自身の敵のために祈られました。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)

私たちはイエス様の模範に従うべきです。もし私たちが苦々しい思いを持ち続けるなら、その思いは私たちの心を蝕み、やがて私たち自身を滅ぼしてしまいます。

だから、パウロは私たちに語ります。「その苦々しい思いや恨みを手放しなさい。むしろ、相手のために祈りなさい。」

そして、パウロはさらにこう語ります。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。(ローマ人への手紙12:17)

もちろん、パウロは私たちに対して、神様の律法に反する世の道徳に従うべきだとは言いません。

むしろ、パウロが語ったのは、たとえ迫害されても、世の考え方が神様の律法に反しない限り、すべての人が良いと認めることを行いなさいということです。

だから、私たちは苦々しい思いや怒り、報復の心を捨て去るべきです。

そして、パウロはさらにこう語ります。

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(18)

時には、私たちは相手の意見に同意できないことがあります。しかし、そのようなときこそ、謙遜な態度を持つべきです。

時には、私たちは相手があまりにも傷つきやすいと感じることがあります。それでも、もし私たちの言葉や行為によって相手を傷つけてしまったなら、その人に誠実に謝るべきです。

また、神様の言葉を守りながらも、私たちは妥協点を見つける知恵を持つべきです。

例えば、私のクリスチャンの友人たちは家族の仏教の葬儀には参加しませんが、その前後でできる限り家族に仕えます。

そして、最後にパウロはこう語ります。

愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。

「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。

次のようにも書かれています。

「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」(19-20)

簡単に言えば、最終的な正義は私たちの責任ではなく、神様の責任です。神様はすべての人々とその行いを正しく裁かれます。

だから、悪に悪で報いることなく、苦々しい思いを抱え続けないでください。そのような思いは、やがてあなた自身を蝕んでしまいます。

むしろ、イエス様の模範に倣い、イエス様の愛を彼らに示しましょう。

もしかすると、あなたの反応によって、彼らはクリスチャンになるかもしれません。ステパノの祈りはどのようにパウロに影響を与えたでしょうか。(使徒の働き 7:60)

そして、パウロはこの教えを次のようにまとめます。

悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(21)

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ルカの福音書 ルカ17章

赦し

この箇所で、イエス様は赦しについて語られています。けれども、その言葉は非常に厳しいものです。イエス様はこう言われました。

もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。(ルカの福音書17:3)

相手があなたを傷つけたとしても、いつまでも怒りを抱いていてはいけません。イエス様は私たちに「その人と直接話し合いなさい」と命じられました。

もちろん、感情を整理するために、少し時間を置くことは必要かもしれません。それでも、怒りを長く溜め込むのはよくありません。そしてイエス様は、「相手が悔い改めれば、赦しなさい」と教えられました。

しかし、イエス様はさらに語られます。

かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、「悔い改めます」と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。(4)

これは単なる助言ではありません。イエス様は、「もし相手が謝るなら、赦すことを少し考えた方がいいかもしれない」と言われたのではありません。

イエス様は私たちに命じられました。「赦しなさい。」

弟子たちはどのように反応したでしょうか。

私たちの信仰を増してください。(5)

私たちの多くは、そのように考えるでしょう。

「主よ。私の傷はとても深いのです。私が赦せるかどうかわかりません。私たちが相手を赦せるように、私の信仰を増してください。」

イエス様は弟子たちに、また私たちにこう答えられました。

もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、「根こそぎ海の中に植われ」と言えば、言いつけどおりになるのです。(6)

つまり、どれほど深い傷を抱えていても、その根は引き抜くことができるのです。そして、たくさんの信仰を持つ必要はありません。

あなたがどれくらいの信仰を持っているかは、それほど重要ではありません。

本当に大切なのは、あなたが誰を信じるかということです。イエス様は偉大な癒し主です。どんな傷を負っていたとしても、イエス様はあなたを癒すことができます。

だから、自分を変えようとする強い意志があるかどうかは問題ではありません。

実は、神様の戒め自体に、私たちを変える力はありません。私たちは自分の心を変える力を持っていないのです。自分の力だけで、完全な人間になることはできません。

しかし、イエス様は私たちを変えることができます。

だから、自分の力に頼って、「頑張ろう。相手を許そう。」と思うのではなく、むしろ、イエス様に向かって、イエス様の癒しと助けを求めましょう。

そして、イエス様を信じるなら、あなたは奇跡を目にするでしょう。

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雅歌

怒り、傷、和解

夫婦の関係はいつもスムーズにいくわけではありません。この罪によって壊れた世界では、夫婦が怒りや傷を経験するのは当たり前のことです。それでは、どのように反応すべきでしょうか。

この箇所から、そのことを学ぶことができます。

多くの聖書の解説者によれば、この箇所は夢を描写しています。しかし、結婚では、しばしば起こる状態や感情を描写しています。

おそらく、その夫は仕事や他の用事のために遅く帰りました。だから、彼女は怒って、彼が帰る前に寝てしまいました。そして、彼が帰ってきたとき、ドアの鍵がかかっていたので、彼は「開けて」と叫びます。

しかし、彼女はまだ怒って答えます。「もう寝ているよ。なぜあなたのために起きなければならないの。」

パウロは私たちに言います。

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26-27)

たまには、私たちは妻や夫に怒ることがあります。私たちは無意識に相手を傷つけてしまうからです。

けれども、パウロは私たちに、怒っても罪を犯さないようにと言います。怒りや恨みを持ち続けてはいけません。そうすると、サタンに私たちの人生や結婚を壊す機会を与えてしまうからです。

ソロモンが遅く帰ってきたので、その妻は彼に恨みを持ちました。彼は頻繁に遅く帰ってきたかもしれません。または、その日だけ遅かったけれども、連絡をしていなかったのかもしれません。

いずれにせよ、彼が帰ってきても彼女はドアを開けてあげませんでした。

私たちは妻や夫を家に入れない経験はないかもしれませんが、どれほど私たちは自分の心を相手に対して閉ざすでしょうか。

また、もし相手が自分の心をあなたに対して閉ざした場合、どうしたら良いでしょうか。ソロモンは良い方法を私たちに示しています。彼は無理矢理に入ろうとしませんでした。むしろ、彼は彼の愛のしるしを残して去りました。

彼女はやっとドアを開けようと思ったとき、かんぬきの取っ手の上に没薬の液がありました。

その文化では、恋人はそのようにして、そこにいたことを示しました。現代では、それは花を贈るようなものです。(アメリカでは、謝る時に男性はしばしばそうしますが、日本では男性はどうするでしょうか。)

とにかく、時々、私たちは妻や夫に怒ってしまいます。時々、私たちはその怒りが正しいと思いますし、私たちの方が悪かったと思う時もあります。

けれども、サタンに私たちの結婚を壊す機会を与えたくないなら、相手の怒りに怒りで反応してはいけません。謝ってください。そして、あなたの愛を示してください。

彼女の夢では、彼女は彼の愛にもう一度感動しましたが、もう遅すぎました。彼はすでに去ってしまったので、彼女は彼を探しに行きました。

多分、自分の態度のために彼女は自分自身を責めてしまいました。だから、その夢では、巡回していた夜回りたちは彼女を打ちました。

他の人が彼女に「どうしてそんなに必死に彼を探しているのか」と尋ねたとき、彼女はソロモンについて好きなことを説明しました。

私たちが相手に怒っても、そのことについて考えるべきです。怒る時に、相手の欠点に焦点を合わせるのは簡単ですが、特に私たちが怒る時は、相手の良い点を覚えていた方が良いです。

彼女は彼の外見について話しますが、彼女は彼を恋人や友人としても描写します。私たちもそのことを覚えておくべきです。相手が私たちをがっかりさせるかもしれませんが、彼らはまだ私たちを愛しています。

彼女の友人が「では、私たちは彼を見つけるのを手伝うよ」と言ったとたんに、突然彼女は夢から目が覚めて、ソロモンが彼女の隣にいるのを見ました。彼は「ゆりの花の間で群れを飼っています」と言いました。(4:5と5:13を読んでください。)

彼女は自分の怒りをすぐに忘れて、こう言いました。

私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。(雅歌6:3)

結婚は自然に美しいものにはなりません。私たちは良い結婚のために努力しなくてはなりません。愛を育てなくてはなりません。ですから、自分の怒り、また相手の怒りを良い方法で処理しなくてはなりません。

あなたはどうですか。その怒りをどのように扱っていますか。

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詩篇

悪に負けない

それでは、今日詩篇119を終えます。

以前私は言いましたが、私たちはこの詩の著者を知りません。しかし、もしダビデがこの詩篇を書いたのだとしたら、驚くには及びません。なぜなら、この詩篇の終わりで、私たちは詩人が経験したことを読むからです。

つまり、彼は敵に追いかけられたり、迫害されたりしましたが、彼は復讐を求めませんでした。むしろ、彼は主に叫びました。

私はあなたを呼びました。私をお救いください。私はあなたのさとしを守ります。

私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。(詩篇119:146-147)

それでも、彼の神様の道を行く決心は決して揺るぎませんでした。

彼は寝る前に、どうやって復讐しようか全然考えませんでした。むしろ、彼はこう言いました。

私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。(148)

彼の敵が神様の言葉を捨てて、彼を殺そうと思ったのに、彼は神様の言葉を捨てずに、自分の命を神様の手に委ねました。

私の悩みを顧み、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。

私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。みことばにしたがって、私を生かしてください。(153-154)

また、

ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。(159)

また、

君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。(161)

どうして、彼はそのように生きたのでしょうか。なぜなら、彼は神様の道が最も良いと思ったからです。彼はこう書きました。

あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。(165)

そして、彼はもう一度、へりくだって、神様の導きを頼み、神様の道を行くことを決心し、自分の命を神様の手に委ね、神様からの救いを待ち望みました。

あなたはどうですか。あなたは傷ついたら、どう反応するでしょうか。攻められる時、あなたは怒って、悪をもって悪に報いるでしょうか。

あなたは「それは許せない。神様の道じゃないかもしれないけど、復讐する」と言うでしょうか。

そう思うなら、詩人の態度を覚えておきましょう。また、十字架にかけられたイエス様の態度を覚えておきましょう。

イエス様は復讐を求めませんでした。むしろ、その敵を赦してくださいました。また、イエス様は私たちをも赦してくださいました。

最後に、パウロの言葉も覚えておきましょう。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19-21)

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サムエル記第一

裏切り

聖書で裏切りの話を考えるとき、多くの人はこの話を思い出さないでしょう。つまり、ケイラという町の人々がダビデを裏切ったことです。なぜなら、最終的にダビデは逃げ延びて助かったからです。

けれども、もし逃げていなかったら、ダビデはサウルに殺されていたかもしれません。

それでも、おそらくダビデとその民は傷ついたでしょう。

ペリシテ人からケイラ人を救うために命を危険にさらしたにもかかわらず、ケイラ人はダビデを助けませんでした。それどころか、サウルと戦うことを避け、ダビデをサウルに引き渡そうと決めたのです。

ダビデはこのことを知ると、すぐに彼とその民はケイラを離れました。その結果、サウルは諦めました。

裏切りに直面したとき、ダビデの例から何を学べるでしょうか。

一つ目は許しと理解です。理解によって私たちは許すことができます。

ダビデにはケイラ人に怒る権利がありました。彼とその民が命を危険にさらしてケイラ人を助けたにもかかわらず、ケイラ人はダビデとその民を助けませんでした。

それでも、ダビデは自分の怒りによってケイラ人に対して行動することはありませんでした。ダビデはケイラ人を責めず、むしろ彼らの状況を理解し、許しました。

ダビデは彼らがどうしてそのように反応したかを理解していました。つまり、ケイラ人は自分自身を守る力がありませんでした。

だから、ペリシテ人が攻めたときにはダビデの助けが必要でしたし、サウルとその軍隊が来たときには恐れ、結果としてダビデを裏切る決断をしたのです。

ある話を聞いたことがあります。ある人は子供の頃、父から虐待を受けていました。そのため、ずっと父を許すことができませんでした。

けれども、その人にとっての転機は、父もまた虐待を受けていたことを知ったときでした。父の傷を理解するようになったとき、その人は父を許すことができるようになったのです。

もしあなたが裏切られ、許すことができないのであれば、大切なことは「理解」を得られるよう祈ることです。

なぜなら、イエス様が祈られたように、私たちを傷つけた多くの人々は、実際に何をしたのか、また、どうしてそれをしたのかを知らないからです。

でも、二つ目に重要なことは、相手を理解し許すべきではあるけれど、危険な環境にとどまる必要はないということです。つまり、相手があなたを傷つけ続けるならば、距離を置くことも許されるということです。

ダビデはケイラ人の弱さを理解しました。そして彼らを許しました。それでも、彼らの裏切りを知ったとき、ダビデはすぐに逃げました。

時として、人々は許しについて誤解を抱きます。許しとは、相手が自分を傷つけることを許可することだと考える人もいます。

しかし、それは間違いです。許すべきですが、相手が悔い改めない場合や、さらに危険が伴う場合には、逃げることも選択肢に含まれます。

だからこそ、ダビデはケイラから、またサウルから逃げたのです。

あなたは裏切られたことがありますか。

神様は私たちに相手を理解しなさいと言われます。そして、相手を許しなさいとも言われます。

しかし、神様は相手の手による苦しみに耐え続けることを求められるわけではありません。