人々に傷つけられると、恨みを抱くのは容易です。相手が謝罪しても、許したくないと感じることがあります。
または、口では許すと言いながらも、心の中でその恨みを手放すことを拒んでしまうこともあります。その結果、相手は私たちの恨みを感じ続け、私たちと話すときに不安を覚えます。
教会のリーダーたちが罪を犯したメンバーを訓戒するときも、同じようなことが起こるかもしれません。
その人が悔い改めても、リーダーたちや他のメンバーたちは、その人を疑い、距離を置いてしまうことがあります。
もしかすると、彼らはこう考えるかもしれません。「すぐに相手を受け入れてはいけない。もう少し悲しませた方がいい。そして、その人が十分悲しんだと思ったら、受け入れよう。」
しかし、パウロはそのような訓戒の仕方を教えませんでした。むしろ、パウロはこう語りました。
その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。
そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。(コリント人への手紙第二2:6-8)
「あの処罰で十分」とは、どういう意味でしょうか。
おそらく、パウロが言いたかったのは、その処罰が目的を果たしたということです。つまり、その人が悔い改めたということです。そして、人が悔い改めたならば、処罰を続ける必要はありません。
むしろ、私たちはその人を許し、慰めるべきです。神様がその人を赦されたことを伝え、私たちも許したことを示すべきです。そして、その人に対して私たちの愛を確認することが大切です。
もちろん、私たちが罪を犯すとき、神様は私たちがその罪を悲しむことを望まれます。
しかし、悲しみには二つの種類があります。悔い改めへと導く悲しみもあれば、死へと導く悲しみもあります。
この「死へと導く悲しみ」とは、パウロが語ったように、絶望や神から離れることを意味します。
その一方、悔い改めへと導く悲しみは良いものです。けれども、もし私たちがその人を赦さないならば、相手は深く悲しみすぎて、霊的な死へと導かれてしまうかもしれません。それは神様の望まれることではなく、むしろサタンの望むことです。
サタンの目的は、盗み、殺し、滅ぼすことです。だから、私たちが相手を許さず、その人が深い悲しみに沈んでしまうならば、私たちは神様と協力するのではなく、むしろサタンの働きを助けていることになります。
あなたはどうでしょうか。誰かがあなたを傷つけたことがありますか。または、教会の中で、誰かが深刻な罪を犯したことがありますか。その人は悔い改めたでしょうか。
もしそうならば、神様と協力して、その人を許し、受け入れましょう。
イエス様の言葉を心に留めましょう。
あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルカ6:36)
