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コリント人への手紙第一

自慢する余地がない

神様の「愚かさ」を描写するために、パウロはコリントの教会を示しています。

もしあなたが神であり、多くの人々を救いたいと願うなら、まず金持ちや権力者、賢い者たちを救おうとするのではないでしょうか。なぜなら、彼らは多くの人々に影響を与えることができるからです。

ところが、パウロはコリントの人々について、次のように語りました。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えて見なさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるためにこの世の弱い者を選ばれました。

あるものをないものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。(コリント人への手紙第一1:26-29)

もちろん、パウロは、神様が知者や力ある者、身分の高い者を決して救わないと言っているわけではありません。彼は、教会にそうした人々が全くいないとは言わず、「そのような人は多くない」と述べたのです。

けれども、パウロの強調点は、神様が人の財産や身分によってではなく、恵みによって人々を選ばれることです。そして、神様は弱い者や取るに足りないと見なされた者を用いて、強い者や賢い者を恥じ入らせました。

では、どのようにしてその弱い者や取るに足りない者が、強い者や賢い者を恥じ入らせたのでしょうか。それは、彼らが神様に信仰を置いたからです。

例えば、年老いたノアは神様を信じ、大きな箱舟を造りました。隣人たちはノアを愚かだと思ったことでしょう。なぜなら、その地域には海がなく、そんな巨大な箱舟を必要とする理由が見当たらなかったからです。

ところが、雨が降り、洪水が到来したとき、ノアの知恵が証明されたのです。

イスラエルの民をエジプトから救い出した後、神様は彼らを堅固な城壁を持つエリコへ導かれました。けれども、彼らはすぐに攻撃せず、まずエリコの周囲を一度回りました。

これを6日間続け、7日目には7度エリコを回り、祭司たちが角笛を吹き鳴らしました。そして、彼らは叫びながら城壁に向かって走り始めました。

この作戦を初めて聞いたとき、イスラエルの兵士たちは将軍ヨシュアの判断を疑ったかもしれません。さらに、エリコの人々もイスラエルの民が町の周囲を回るのを見て、彼らが何をしているのか不思議に思ったことでしょう。

ところが、7日目にイスラエルの民が城壁に向かって走り始めた瞬間、城壁は崩れ落ちました。こうして、その日、イスラエルの民は大勝利を収めたのです。

何百年後、若きユダヤ人ダニエルはバビロンへ追放されました。それでも、ダニエルとその仲間は神様の律法に従いたいと願い、王が用意した食事を拒みました。彼らはただ野菜を食べ、水を飲むことを選びました。

ほかのユダヤ人たちはそれを見て、ダニエルたちの行動を愚かだと思ったかもしれません。ところが最終的に、ダニエルたちはほかのユダヤ人たちよりも健康で、賢く、有能な者となりました。

神様は幾度となくこのようなことをなされました。

しかし、その究極の例は十字架です。その時代の人々にとって、十字架は弱さと敗北の象徴でした。

それでも、十字架を通して、神様は私たちに救いをもたらしました。そして、神様は世が称賛する者だけでなく、世が軽蔑する者も救われるのです。

クリスチャンは弱い存在だと考える人もいます。彼らは、賢くない者や、感情的に傷ついた者だけが神様を必要とするのだと思っています。私たちが自分自身に頼らず、神様に頼るからこそ、彼らは私たちを軽蔑するのです。

しかし最終的に、彼らは恥じ入ることになるでしょう。

そして、忘れないでください。クリスチャンであるあなたには、自慢する余地はありません。神様があなたを救われたのは、あなたの身分や行いによるものではなく、神様がどのようなお方であるか、そして神様の御業によるものです。

だからこそ、パウロはこう書きました。

しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(30)

パウロの結論は何でしょうか。

「誇ろ物は主を誇れ」と書いてある通りになるためです。(31)

あなたは何を誇りますか。自分自身を誇るのでしょうか。それなら、最終的には恥じることになります。

神様を誇るのでしょうか。もしそうであれば、プライドを持つ余地はありません。

あなたはどのような態度を持っていますか。

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詩篇

勝利と祝福がどこから来るか思い出す

何かがうまく行かない時や思い通りにならない時、私たちはすぐに神様について考えます。

けれども、勝利の時、また、祝福の時はどうでしょうか。その時、私たちはすぐに神様をほめたたえるでしょうか。もしくは、私たちは誇って、自分の偉さについて考えるでしょうか。

ダビデにも、その罠で倒れる時もありました。(第二サムエル記11-12章;24章)

しかし、詩篇21篇で、ダビデは勝利と祝福がどこから来るかを思い出しました。だから、彼はこう歌いました。

主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。

あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。セラ

あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。

御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。

あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。(詩篇21:1-6)

それに、ダビデは、どうして神様が彼を祝福してくださったか思い出しました。

まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。(7)

勝利の時、あなたの考えはどこに向くでしょうか。

自分の力と知恵について自慢するでしょうか。もしくは、神様をその御業のために賛美するでしょうか。

あなたは、おもに自分の力と能力に頼るでしょうか。もしくは、おもに神様とその力に頼るでしょうか。