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ヤコブの手紙

私たちの益のため

「どうして神様はこの試練を許しているの?神様は僕が躓くことを望んでいるの?」

試練に直面するとき、私たちは時々そう感じるものです。私たちは、神様が自分が躓くことを望んでおられると考えてしまいます。また、神様がいつも私たちに怒り、罰したいと望んでおられると考えることもあります。

しかし、そのような考え方は誤りです。確かに神様は試練を許されます。けれども、それは私たちを罰するためではありません。むしろ、神様の望みは、私たちが何一つ欠けたところのない、成熟した完全な者となることです。(1:4)

だからこそ、ヤコブは私たちにこう言います。

だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。

人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブの手紙1:13-15)

原語では、「誘惑」と「試練」は同じ言葉です。もしかしたら、ヤコブの読み手たちはその言葉を読んだとき、少し混乱したかもしれません。彼らは、「神様は私たちを誘惑するの?」と考えたかもしれません。

現代でも、多くのクリスチャンがそれを疑問に思います。

以前に言ったように、神様は試練を許されます。神様はその試練を通して私たちの心を探りたいと望んでおられます。また、その試練を通して、神様は私たちの信仰を強めたいと望んでおられます。

しかし、神様は私たちに罪を犯させるために決して誘惑されません。神様は決して、「情欲に負けなさい」とか、「妻を虐待しなさい」とか、「私を呪いなさい」とは言いません。

ヤコブによれば、その誘惑は神様からではなく、私たちの罪深い心から来るのです。私たちは、自分の欲に引かれます。そして、その欲に負けると、その欲は罪を生み、罪が熟して死を生みます。

しかし、それは神様の私たちのための望みではありません。

むしろ、ヤコブはこう言います。

私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。

父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。(16-18)

要するに、神様は私たちに良い物だけを与えてくださいます。そして、そのすべての賜物は完全なものです。その賜物は不良品ではありません。また、神様には隠れた腹黒い意図はありません。

私たちの救いはその一つの例です。神様は、私たちを自分のために死なせることもできました。しかし、逆に、神様はイエス様を通して私たちに永遠の命を与えてくださいました。

また、神様には移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。神様はある日私たちを祝福し、次の日に滅ぼそうとすることは決してありません。

むしろ、神様の目的は、私たちが完全な者になることです。神様は私たちが神様の聖さにあずかることを望んでおられます。(へブル12:10)

だから、どんな試練に直面しても、神様があなたを滅ぼそうとしているのではないことを心に留めておきましょう。神様はあなたの人生を壊そうと思っているのではありません。

むしろ、私たちは自分の選択と行為によって、自分の人生をめちゃくちゃにすることがよくあります。

しかし、その試練を通して、神様は私たちに神様に信頼することを教えたいと望んでおられます。そして、その時、私たちは神様の良さと忠実さを悟ります。

また、私たちはその火を通過し、精錬された金のように出てくるでしょう。その時、私たちは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となるのです。

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コリント人への手紙第一

励ましと警告

この箇所では、私たちは誘惑についての励ましと警告を読むことができます。

まず、パウロはこう記しました。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(コリント人への手紙第一10:12)

おそらく、パウロは特に「私の信仰は強い」と考えていたクリスチャンについて語っていました。

以前も述べたように、コリントには「信仰の弱い」人々がいました。つまり、彼らの良心は傷つきやすく、偶像に捧げられた肉を食べることに罪悪感を抱いていました。

現代では同じ状況は少ないかもしれませんが、ワインやビールを飲むことに罪悪感を抱くクリスチャンもいるでしょう。

そのため、「強いクリスチャン」にとって、「弱いクリスチャン」を見下し、「私は強い信仰を持っているので、そんなくだらないルールは必要ない」と自慢するのは簡単なことでした。

けれども、パウロは彼らに警告しました。 「気をつけなさい。自分が強いと思うかもしれないが、そのプライドによって罪に陥り、実際には弱いクリスチャンであることが証明されてしまうかもしれません。」

例えば、ビール一杯がすぐに二杯、三杯、四杯、五杯へと増え、気づけば酔っぱらってしまうかもしれません。そして、その習慣を続けると、アルコール依存の問題が生じる可能性もあります。

どちらの場合も、罪に陥ることになります。

しかし、その罪に直接陥らなくても、プライドの罪に囚われるかもしれません。自分の自由を誇示し、他者を見下すことで、彼らの目の前で自由を行使し、その結果として彼らを罪へと誘ってしまうこともあります。

また、ほかの罪に陥る可能性もあります。例えば、職場で神様に信頼せず、会社の業績を優先したり、自分の立場を守るために神様の教えを曲げてしまうかもしれません。

あるいは、周囲の人々に対して怒りを爆発させてしまうかもしれません。

または、傷ついたときに恨みを抱き、相手を許すことを拒むことがあるかもしれません。

私たちはさまざまな方法で罪に陥る可能性があります。けれども、プライドを持つと、パリサイ人のように、自分の罪が見えなくなってしまうでしょう。

だから、パウロは警告しています。 「注意しなさい。あなたが思うほど、あなたは強くありません。あなたも簡単に罪に陥る可能性があります。」

しかし、その後、パウロはコリントの人々を励ましました。

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。

あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(コリント人への手紙第一10:13)

原文では、「試練」には二つのニュアンスがあります。一つ目はもちろん「試練」です。けれども、この言葉には「誘惑」という意味も含まれています。

だからこそ、パウロの要点はこうです。どんな試練や誘惑に直面しても、神様はあなたの限界を知っておられます。だから、神様はあなたが耐えられない誘惑や試練を許されません。むしろ、神様はいつも脱出の道を備えてくださいます。

もう一つ覚えておくべきことがあります。それは、私たちが経験する試練や誘惑は、決して特別なものではないということです。

あるクリスチャンはこう考えることがあります。 「私だけがこの罪と戦っている。どうして私はこんなに悪い者なのだろうか。」

しかし、それこそサタンがあなたに思わせたいことなのです。

けれども、パウロははっきりと言います。 「あなたがどんな誘惑に直面しても、ほかのクリスチャンも同じ誘惑に直面したことがあります。」

自分の罪をほかのクリスチャンに告白することの益の一つは、同じ罪と戦っている仲間がいることを知ることです。

一人で戦うなら、弱さを感じるかもしれません。しかし、主の力によって共に戦うと、強くなることができます。

あなたはどうでしょうか。自分が強いと思いますか。気をつけないと、罪に陥る可能性があります。

それとも、自分が弱いと感じていますか。どうか勇気を持ちましょう。あなたは決して独りぼっちではありません。

ほかのクリスチャンもあなたと同じ戦いを経験し、その苦しみを理解しています。そして、神様もあなたとともにいて、助けてくださいます。

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マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ18章 ルカの福音書 ルカ22章

自分の心を見極める

イエス様の裁判を見る前に、少しペテロの話を振り返りたいと思います。

この話については、福音書を統合するのが少し難しいです。 けれども、この話をよく理解すると、ペテロは実際にイエス様を知ることを4回否定したものの、証人たちの前では3回否定したようです。

ペテロの最初の否定は、大祭司の家の中庭で起こりました。

もう一人の弟子(もしかするとヨハネか、あるいは12弟子の外から来た弟子かもしれません)が大祭司をよく知っていたため、中庭に入りました。

そしてその弟子がペテロのことを保証したため、ペテロも中庭に入ることができました。(ヨハネ 18:15-16)

この話に、一人のしつこい女性が登場します。彼女は門番として働いていたので、ペテロが中庭に入った際にこう尋ねました。

あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね。(ヨハネ18:17)

ペテロは「違う」と答えました。

そして、彼女から逃れたものの、ペテロが火に当たっていると、彼女は彼を追い、じっと見つめながら言いました。

あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。(マルコ14:67)

そして、大声で、彼女はその場の全員に向かって叫びました。

この人も、イエスと一緒にいました。(ルカ22:56)

それを聞いて、彼らはペテロに訊きました。

あなたもあの人の弟子ではないだろうね。(ヨハネ18:25)

ペテロはこのように答えました。

弟子ではない。何を言っているのか分からない。理解できない。(ヨハネ18:25b;マルコ14:68)

そして、ペテロはすぐに前庭の方に向かいました。 けれども、間もなく、その同じ女性がほかのしもべと共にペテロと対峙しました。

もしかすると、その友人は以前にペテロとイエス様を見たことがあったのかもしれません。 その時、門番はペテロを指して言いました。

「この人はあの人たちの仲間です。」(マルコ 14:69)

さらに、その友人も皆の前でこう言いました。

この人はあの人たちの仲間です。(マタイ26:71)

その中庭にいた一人がそれを聞き、ペテロをじっと見ました。 彼もペテロを認識し、大声で叫びました。

あなたも彼らの仲間だ。(ルカ22:58)

ペテロはそれを聞いて、誓いました。 「いや、違う。そんな人は知らない。」(マタイ 26:72;ルカ 22:58b)

その言葉を聞いて、たぶん皆は一瞬静まったかもしれません。 けれども、1時間後、別の大祭司のしもべが通りかかり、ペテロを見ました。

そのうえ、彼はペテロに耳を切り落とされた人の親類でした。 それで彼はこう言いました。

あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。(ヨハネ18:26)

ペテロがそれを否定しようとした時、別の人が大声で叫びました。

確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。ことばのなまりで分かる。(マタイ26:73;マルコ14:70)

それを聞いて、ペテロはパニックになり、もし自分が嘘をついているなら呪われてもよいと誓い始めました。そして叫びました。「そんな人は知らない。」(マタイ 26:74)

すると、鶏が鳴きました。

その瞬間、ペテロは大騒ぎの音を聞き、イエス様がピラトの元へ連れて行かれるところを見ました。そしてイエス様は振り向いてペテロをじっと見つめられました。ペテロは自分が何をしたのかを悟り、外に出て激しく泣きました。

これが私が福音書を統合して描いた話です。(もしかすると少し間違いが含まれているかもしれません。)

とにかく、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

ペテロを批判するのは簡単です。彼の臆病さや偽善を非難することもできるでしょう。しかし、そうする前に、私たちは自分自身の心をまず振り返るべきではないでしょうか。

実は、もし私がペテロだったなら、もっと勇気を持てたかどうか自信がありません。

私自身、十代の時に似たような経験をしました。友人に「君はクリスチャンか?」と尋ねられた時、その質問を避けようとしました。「はい」と正直に答えることができなかったのです。

今でもそのことを思い返すたびに恥ずかしい気持ちになります。

さらに、私は他のクリスチャンが様々な罪に陥るのを見たことがあります。特に性的な誘惑に負けることが多いです。

私自身もそのような誘惑に頻繁に直面します。そして、気をつけなければ私もその罪に陥るかもしれません。私は弱い存在です。神様の恵みによってのみ、私は立つことができています。

私たちが他の人が罪に陥るのを目撃する時、忘れてはならないことがあります。それは、私たち全員が弱いものであるということです。そして誰もが罪に陥る可能性があるのです。

ですから、他人を裁く前にその人を憐れみ、その人の回復のために祈りましょう。

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。

また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(ガラテヤ人への手紙6:1)

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弱い

サタンが優しい存在だと言う人は誰もいません。サタンは私たちの肉体的な弱さや精神的な弱さを見つけると、すぐに攻撃してきます。

この箇所では、それがはっきりと分かります。イエス様と弟子たちがゲツセマネに着いたとき、イエス様は彼らに警告されました。

誘惑に陥らないように祈っていなさい。(ルカ22:40)

その時、弟子たちはすでに精神的に疲れ果てていました。彼らはまだイエス様の言葉を理解しようとしていました。つまり、イエス様が裏切られること、そしてイエス様が彼らのもとを去っていくことを、受け入れられなかったのです。

そのため、彼らは肉体的に、精神的に、そして霊的に弱くなりました。(ルカ 22:45)

だからこそ、イエス様が「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われたのに、彼らは眠ってしまいました。イエス様は何度も彼らに警告し、願われましたが、彼らは1度だけではなく、3度も眠ってしまいました。

その結果どうなったのでしょうか?イスカリオテのユダとユダヤ人の指導者たちがやって来ると、彼らは逃げ去ってしまいました。

しかし、イエス様はさらに過酷な試練に直面されました。イエス様は十字架を背負い、すべての人々の罪を担われました。その時、天の父はイエス様に背を向けられました。

この箇所では、イエス様の祈りをほんのわずかしか見ることができません。けれども、イエス様の最初の祈りは約1時間続き、その後さらに2度祈られました。

イエス様が祈るとき、その苦しみはあまりにも深く、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

さらに、その時、弟子たちは眠っていたため、イエス様には精神的な支えがありませんでした。

けれども、イエス様が弱さの中におられた時、天の父はイエス様を力づけてくださいました。

そして、天の父はイエス様を支えるために天使を遣わされたのです。(ルカ22章43節)

だから、捕らえられた時、イエス様は冷静に、最後の試練に直面する覚悟を決められました。

では、なぜ弟子たちは目を覚まして祈ることができなかったのに、イエス様はできたのでしょうか。

おそらく、イエス様は生前、毎朝目を覚まして祈ることを習慣としていたからです。 それは朝だけでなく、夜にも行われました。(マルコ 1:35、マタイ 14:23)

そのため、イエス様は最も弱い時に、日々の訓練によって培われたように自然に反応されたのです。

けれども、弟子たちはその訓練を積んでいなかったため、弱さの中で失敗してしまいました。

あるアメリカの有名なアメリカンフットボールの監督は、自分の選手たちと試合のビデオを見る際、相手チームの選手について語りました。 そのチームのある選手は、何度も同じミスを繰り返していました。そこで、その監督はこう言いました。

「その選手は練習の時、自分の技術について、きちんと気をつけなかったのだろう。 たぶん、彼はこう思ったのかもしれない。「正しいやり方はもうよく知っている。だから、今は気をつけなくても、試合の時にはちゃんとできるだろう」”

けれども、疲れ果てた時、人はただ反応するだけだ。 そして、その反応は、自分が普段どのように訓練してきたかによって決まるのだ。」

霊的な世界においても、これは同じです。

もし、あなたが 「私は困った時、何をすべきかよく知っている。だから、その時が来たらちゃんと祈るだろう」 と思っていたとしても、 毎日その訓練をしていなければ、肉体的に、そして精神的に疲れた時に、 あなたは本当に祈ることができるでしょうか。

そして、試練が訪れた時、弟子たちのようにあなたも自分の弱さに負けてしまうかもしれません。

しかし、もしイエス様のように、毎日神様を求め、目を覚まして神様と語るならば、 試練に直面した時、あなたは迷うことなく、すべきことを行い、固く立つことができるのです。

あなたはどうでしょうか? あなたは、毎日目を覚まして神様と語っていますか?

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マルコ14:38)

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山上の説教:日常の霊的な戦い

毎日、私たちは霊的な戦いに直面しています。そのため、イエス様は私たちにこのように祈るべきだと教えられました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

私たちは邪な世界に生きています。この世界はサタンの住まいであり、彼は私たちに対して悪意を持っています。どうしても私たちを倒したいと思っているのです。

つまり、サタンは私たちの心の中で働き、私たちを誘惑して、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に負けさせようとします。(第一ヨハネ2:16)

だから、私たちは神様の導きを祈るべきです。具体的には、罪に焦点を当てるのではなく、神様に焦点を当てるように祈るべきです。

私たちには誰しも誘惑に負けやすい弱点があります。その弱点を正しく認識し、できる限りその誘惑から逃げるべきです。しかし、してはいけないことに過剰に注目しすぎると、その誘惑がますます強くなってしまうこともあります。

一方で、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、自然と誘惑から離れることができます。ただ罪を避けるだけでは十分ではなく、神様に従うことが必要なのです。

さらに、サタンは私たちを誘惑するだけでなく、私たちを滅ぼしたがっています。サタンは人々を通して私たちを攻撃することもあります。

また、サタンは私たちに嘘をつくことがあります。「あなたはもうダメだ。神様があなたを愛するはずがない。あなたは失敗しすぎたから、神様はもうあなたを赦さない。」

だからこそ、イエス様は私たちに「悪からお救いください」と祈るよう教えられます。(もう一つの翻訳では「悪者から、つまり悪魔からお救いください」となっています。)

私たちは、私たちを憎むサタンと戦っています。だから、ペテロもこう言いました。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

神様がサタンの私たちに対する影響を制限してくださるように祈りましょう。

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天の父に従う?

この箇所は本当に有名な聖書の話です。それは、イエス様が砂漠で誘惑される話です。

サタンからの誘惑に対するイエス様の反応は、私の心に深く響きます。イエス様が本当に天の父を信頼されたからです。

洗礼を受けられた後、イエス様は聖霊に満たされ、また聖霊に導かれて砂漠に行かれ、そこで40日間過ごされました。

だからこそ、サタンが来た時のイエス様の反応は特にふさわしいものだったと思います。サタンは三度イエス様を誘惑しましたが、イエス様が答えられた時、すべて申命記から引用されました。

なぜそれがふさわしかったのでしょうか。それは、イスラエル人が砂漠で40年間過ごした後に、モーセが申命記を書いたからです。そして、イエス様が誘惑された時、その言葉に従われたのです。

では、モーセは何を言ったのでしょうか。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:2-3)

天の父がイスラエル人を試すために彼らを砂漠に導かれたように、天の父はイエス様を試すために、彼を砂漠に導かれました。イスラエル人と同じように、イエス様も苦しみ、飢えを経験されました。

けれども、イスラエル人と違って、イエス様は文句を言わず、天の父がふさわしい時にイエス様の必要を備えてくださることを信じ続けられました。

サタンは言いました。「自分の力を使えばいいじゃないか?あなたの天の父はあなたの必要に備えていないじゃないか。もう40日間が経った。だから、この石をパンに変えたらどうだ?」

しかし、イエス様はサタンの薦めを拒絶されました。むしろ、イエス様は天の父がイエス様の必要に備えてくださることを信じ続けられました。

次に、サタンは聖書を引用してイエス様にこう言いました。「神殿の頂から身を投げてみなさい。天使たちはきっとあなたを救うでしょう。」

(サタンも聖書をよく知っています。だからこそ、私たちは聖書の箇所の前後をしっかりと読まなければなりません。)

けれども、イエス様は再びモーセの言葉を引用されました。

あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6:16)

マサでは何が起こったのでしょうか。イスラエル人はもう一度神様を信頼しなかったため、文句を言いました。水を見つけることができなかったので、彼らは叫びました。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」(出エジプト記17:7)

時々、私たちも同じ質問をします。私たちが苦しんでいる時、神様に「あなたは私と共におられるのですか、それともおられないのですか」と訊きます。

同じように、サタンはイエス様が天の父を疑うように誘惑しました。

「あなたの天の父は本当にあなたと共におられるでしょうか。天の父に仕えたいなら、そのことを確認した方がいいですよ。だから、神殿の頂から飛び降りてみなさい。もし天の父が本当にあなたと共におられるなら、あなたを救ってくださいます。」

けれども、イエス様は拒絶されました。それは、たとえイエス様に天の父が見えなかったとしても、天の父がイエス様と共におられることを信じておられたからです。

最後に、サタンはこう言いました。

もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(マタイ4:9)

しかし、イエス様は再び拒絶されました。それは、イエス様が天の父に従うことを決心されていたからです。そこで、イエス様はこう答えられました。

引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。(マタイ4:10/申命記6:13;10:20)

あなたは誰に従っているのでしょうか。天の父に従っているのでしょうか。天の父があなたと共におられることを信じていますか。天の父があなたの必要を備えてくださることを信じていますか。天の父を家族よりも、友達よりも、仕事よりも大切にしていますか。

あなたは誰に従っているのでしょうか。

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詩篇

私たちを試みに会わせないように

詩篇140篇では、主の祈りのように、ダビデは「悪からお救いください」と祈りました。

詩篇141篇も、主の祈りに似ている点があります。この詩篇では、ダビデは祈りました。

私たちを試みに会わせないように。(マタイ6:13)

特に、ダビデはこう祈りました。

主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。

私の心を悪いことに向けさせず、不法を行なう者どもとともに、悪い行ないに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。(詩篇141:3-4)

ダビデは二つのことを気にしました。つまり、彼の言葉と思いを気にしました。

最初に、彼は祈りました。「私の口から悪い言葉が出ないように」

多くのクリスチャンは口の罪と戦います。彼らは文句を言ったり、噂をしたり、人々を傷つけたりします。私もそんな罪と戦います。時々その誘惑に負けてしまうこともあります。

でも、ダビデは自分の思いも気にしました。彼は祈りました。「私の心を悪いことに向けさせないように。私は悪者の生活を見たら、彼らをねたまないように。」

もし私たちが罪について考えて、悪者をねたんだら、罪に落ちるのは簡単なことです。

イエス様は私たちの思いについて注意を促されました。イエス様が言ったのは、もし私たちが心の中で兄弟に対する怒りを抱いたら、心の中で彼らを殺したのと同等であるということです。(マタイ5:21-22)

また、

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)

神様は私たちの行いだけでなく、私たちの心や思いも気にされます。ダビデはそのことを知っていたので、神様に彼の口と心を守ってくださるように祈りました。

そして、彼は謙遜な態度と柔らかい心のために祈りました。彼はこう祈りました。

正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。(詩篇141:5)

私たちの多くは、責められるのが嫌いです。でも、ダビデは、それを注がれる癒しの油のように受け入れました。

ダビデがバテ・シェバの夫を殺し、彼女と結婚したとき、預言者ナタンは彼を厳しく責めました。ダビデにとって、その言葉は本当に苦しかったと思います。

しかし、彼はその言葉を受け入れて、悔い改めました。だから神様は彼を赦してくださいました。

これは誘惑と戦うカギの一つです。私たちは神様の懲らしめを受け入れなくてはなりません。神様が私たちを責めるとき、私たちは柔らかい心が必要です。そして、悔い改めなくてはなりません。

この詩篇の終わりで、ダビデはもう一度、神様が彼を敵から救い出すように祈ります。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)