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ヨハネの福音書 ヨハネ4章

真の礼拝

イエス様とサマリヤ人の会話から、私たちは礼拝の本質について多くを学ぶことができます。

その女性は、自分の罪に直面した瞬間、話題を変えようとしました。それで、彼女はこう言いました。

先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(ヨハネの福音書4:19-20)

ユダヤ人とサマリヤ人の間では、これは大きな議論でした。おそらく、このサマリヤ人の女性は、その議論によってイエス様を怒らせようとしたのかもしれません。それでも、イエス様は優しく応じられました。

わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(21-24)

簡単に言うと、イエス様が来られたことで、どこで礼拝するべきかという疑問には意味がなくなりました。大切なのは、どのように礼拝すべきかということです。

私たちは、どのように礼拝すべきなのでしょうか。

まず、私たちの礼拝は神様の真理によらなければなりません。

サマリヤ人には、本当に重大な問題がありました。彼らは、神様のことを正しく知らないまま礼拝を続けていました。

その会話の何百年も前、北イスラエル王国は崩壊しました。そして、他国の人々がイスラエルに定住し、残っていたユダヤ人と結婚しました。

それだけではなく、彼らの宗教をユダヤ教と混ぜ合わせた結果、神様についての教えは混乱しました。そんな状態では、誰も神様を正しく礼拝することはできません。私たちは真理によって礼拝しなければなりません。

けれども、それだけではありません。私たちは霊によっても礼拝しなければなりません。神様は礼拝の形式そのものには興味を持っておられません。神様は私たちが心から礼拝することを望まれます。そして、私たちの人生全体が神様に対する礼拝となることを望まれます。

毎日、私たちは神様のために生きるべきです。毎日、神様の愛によって周囲の人々に触れるべきです。毎日、私たちの人生は神様に捧げる賛美の歌であるべきです。それが、霊によって礼拝することなのです。

あなたはどうですか。真理によって礼拝していますか。サマリヤ人のように、間違った神様に関する考え方があるなら、神様を正しく礼拝することはできません。

神様は聖書を通してご自身を表されました。そのため、自分の神様に関する間違った考えを捨てて、神様の言葉を受け入れなくてはなりません。

しかし、神様は書かれたみ言葉だけではなく、生きている言葉を通してもご自身を表されました。つまり、イエス様を通して、神様はご自身を完全に示されたのです。(ヨハネ1:1;14)

使徒パウロはこう言いました。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。(コロサイ2:9)

あなたは神様がどんな方であるか知りたいなら、イエス様を見てください。

神様を霊によって礼拝していますか。歌を歌うだけではなく、あなたの人生を通して神様を礼拝していますか。

私の友人は素敵な歌を書きました。今でも私は、その歌のことをよく思い出します。そして、その歌の中の言葉を祈りとして用います。

私の人生があなたへの賛美となるように。

毎日、あなたが霊と誠によって神様を礼拝することができますように。」

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

暗い世にある光

数年前、私は非常に賢いアメリカ人の女の子についての記事を読みました。

彼女の高校の成績は完璧だった上に、SAT(一般のアメリカの大学入学試験)の点数も満点であり、さらにカリフォルニア大学の受験点数も満点でした。そして、ある記者が彼女にこう尋ねました。「人生の意味をご存じですか。」

彼女の答えはどうだったのでしょうか。

「私は全く知りません。私も知りたいと思っています。」

私たちはそのような世界に住んでいます。この世の人々は、神様から離れているため、暗闇に迷っています。

彼らは人生の意味を探しているものの、暗闇の中でずっと躓いているのです。そして、自分の罪に目がくらみ、その罪がどこへ導くのかを理解していません。

そのような世界にイエス様は2000年前、赤ちゃんとして来られました。ヨハネはイエス様についてこう言いました。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネの福音書1:1:4)

イエス様がこの世に来られた時、イエス様はこの暗い世のための光となられました。では、どのようにして光となられたのでしょうか。

1.イエス様は神様がどのような方であるかを教えられました。

昨日の記事でも述べたように、イエス様は私たちに神様を説明されました。神様は目に見えない方ですが、イエス様が現れたことで、神様は見える存在となったのです。

私たちはもはや神様を想像する必要はありません。私たちがイエス様を見る時、神様を見るのです。

2.イエス様は人生の意味を教えてくださいました。その意味とは何でしょうか。それは、神様との関係を持つことです。

3節で、ヨハネはイエス様がすべてのものを造られたと述べています。イエス様は私たちも造られました。

ところが、イエス様が来られた時、その被造物はイエス様を自分の創造主として認めませんでした。さらに、彼らはイエス様を拒絶しました。(10-11)

けれども、ヨハネはこう記しました。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(12-13)

つまり、私たちがイエス様を私たちの主と救い主として受け入れるなら、私たちは神様の家族に養子として迎えられます。

私たちは自然に神様の家族として生まれるわけではありません。たとえあなたの両親がクリスチャンであっても、あなたがクリスチャンであるとは限りません。

あなたは神によって新たに生まれる必要があります。言い換えれば、あなたは神様の召しに応えて「はい」と言わなければなりません。

つまり、「はい、イエス様。私の王になってください。私の主になってください。」と言うことです。

そうするなら、あなたは神様の家族に迎え入れられます。そして、あなたの人生の目的を見つけるでしょう。それは、天の父との関係を持つことです。

3.イエス様は命の道を教えてくださいました。イエス様がすべての生き物に命と息を与えられるように、イエス様はご自身を信じる人々に永遠の命を与えてくださいます。

ヨハネはこう言っています。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(5)

「打ち勝たなかった」と翻訳されていますが、もう一つの意味として「分からなかった」という解釈もあります。

イエス様がこの世に来られた時、罪深い人々はイエス様を理解しませんでした。宗教的な人々ですら、イエス様を理解しなかったのです。だからこそ、彼らはイエス様を殺しました。

けれども、彼らがイエス様を殺したとしても、イエス様に打ち勝つことはできませんでした。むしろ、イエス様が死なれた時、イエス様は私たちの罰を引き受けてくださいました。そして、イエス様は死に打ち勝ち、三日目によみがえられました。

そのため、今ではイエス様は、ご自身のもとに来る人々に命を与えてくださいます。

だからこそ、ヨハネはこう言っています。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(16-17)

律法を通して、モーセは私たちに神様の要求を示しました。けれども、その律法は私たちを救うことはできませんでした。律法は、私たちの罪を明らかにしただけでなく、私たちが死に値することも示したのです。

しかし、イエス様を通して、私たちは恵みと誠を見出します。 イエス様によって、私たちは二つの真理を見ることができます。 一つは、私たちの罪です。 けれども、十字架を通して、私たちは神様の愛を見ることもできるのです。

さらに、私たちがイエス様を受け入れる時、恵みの上にさらに恵みを受け取ります。その恵みは決して尽きることはなく、私たちの罪を覆います。そして、その恵みは私たちに命を与えてくださいます。

キリストの光があなたの心に輝きますように。