日本では状況が異なるようですが、最近、アメリカ人が「クリスチャン」という言葉を聞くと、しばしば悪いイメージを思い浮かべることがあります。
ある程度、それはイエス様を愛する人々に対して当然の反応だとも言えます。イエス様はこう言われました。
世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。。。
人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ18:18,20)
でも時々、私はこう疑問に思います。「どうして彼らはそんな悪いイメージを持っているのでしょうか。それは私たちがイエス様に従っているからなのでしょうか。それとも、私たちが一番大切なことを忘れてしまっているからなのでしょうか。」
アメリカのクリスチャンたちの多くは、毎週の日曜日に教会に行ったり、バイブルスタディーに参加したり、毎日聖書を読んだり、祈ったり、聖書的な価値観を周りの人々に伝えたりしています。
実は、イエス様の時代にも、そのような人々がいました。それはパリサイ人たちと律法学者たちです。しかし、イエス様は彼らについてこう言われました。
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみあわれみと誠実をおろそかにしている。
十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。(マタイの福音書23:23-24)
ルカ11:24では、イエス様はもう一つのことを加えられました。それは、彼らが神への愛を持っていなかったということです。
また、ある時、イエス様は弟子たちにこう言われました。
互いの間に愛があるなら、その弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)
だから、私たちが自分自身にこう訊くべきだと思います。私の人生は神様の愛と憐れみで印されているでしょうか。
周りの人々が私たちを見るとき、私たちからの愛と憐れみを見ることができるでしょうか。私たちが彼らを愛しているのを知っているでしょうか。彼らに対する私たちの憐れみを見ることができるでしょうか。それとも、ただ彼らを責める人を見るだけでしょうか。
私たちの職場では、周りの人々は誠実さのある人を見るでしょうか。また、忠実な人を見るでしょうか。それとも、彼らはできるだけ仕事をサボる人を見るでしょうか。
もし、周りの人々が私たちの中に愛と憐れみと誠実を見ることができないなら、私たちは彼らの批判に値します。残念ですが、私たちのせいで彼らは決してクリスチャンにならないかもしれません。
神様は彼らを裁かれますが、私たちをも裁かれます。なぜなら、私たちの行動によって、「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」からです。(第二サムエル記12:14)
では、あなたはどうでしょうか。あなたの心からは何が出ているでしょうか。愛?憐れみ?正義?誠実?
神様にとって、それが一番大切なことです。
