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コリント人への手紙第二

人々が私たちのことを誤解し、責めるとき

この手紙を読むにつれて、パウロとコリントの人々との関係がいかに困難であったかが、はっきりと分かるようになります。

コリントの人々は、パウロが以前に送った手紙を読んだとき、その言葉に気を悪くしたようです。彼らの中には、パウロを頼りない人物だと考えた者もいました。

さらに、ある人々はパウロが二枚舌を使い、彼らを操ろうとしていると非難しました。その理由の一つは、パウロが以前、彼らを訪れると約束していたにもかかわらず、土壇場でその計画をキャンセルしたことです。

そのため、パウロはなぜその計画を変更したのかを説明する必要がありました。主な理由は、一部のコリントの人々がパウロのリーダーシップに反対していたことです。

多くの聖書学者は、パウロが『コリント人への手紙第一』を書いた後、コリントの教会を訪れたものの、その際にパウロが強い反発を受け、困難な状況に直面したと考えています。

つまり、パウロは自分に反対したコリントの人々と向き合い、彼らの罪を指摘しなければなりませんでした。その結果、パウロとコリントの人々の関係は大きく損なわれてしまったようです。

もしパウロがすぐにコリントの教会に戻っていたら、再び大きな衝突が起こることは明らかでした。なぜなら、以前の問題がまだ解決されていなかったからです。

そのため、パウロは彼らにもう一つの手紙を書き、悔い改めるように勧めました。そして最終的に、多くのコリントの人々は悔い改めました。(コリント人への手紙第二7:6-13)

ところが、一部のコリントの人々は、パウロを頼りない人物とみなし、二枚舌を使う人だと非難し続けました。(1:7;7:2)

私たちは、そのような人々にどのように対応すべきでしょうか。私たちを誤解し、不当な非難を投げかける人々に対して、どのように振る舞うべきでしょうか。

パウロの姿勢を見ると、良い対応の仕方を学ぶことができると思います。パウロはこう語りました。

私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。(コリント人への手紙第二7:1:12)

一番大切なのは、神様の前に潔白な心を保つことです。自分に反対する人に接するとき、私たちは純真さと誠実さを持っていなくてはなりません。

相手が私たちを責めたり、不当に扱ったりしても、私たちは純真さと誠実さをもって対応するべきです。

私たちがしてはいけないのは、この世の知恵によって反応することです。ヤコブはそのような知恵について説明しています。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。

そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。(ヤコブの手紙3:14-15)

むしろ、私たちは神様の恵みから流れる知恵によって彼らに対応すべきです。

では、神様の知恵とはどのようなものでしょうか。ヤコブはそれについても定義しました。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。(ヤコブの手紙3:17)

パウロはそのような知恵を実践しました。その結果、多くのコリントの人々はパウロのことを理解しました。

まだパウロを信頼していなかった人々に対して、パウロは自分の言葉に隠された意図や裏の意味はないと主張しました。また、いつか彼らがパウロのことを完全に理解するようになることを願っていると伝えました。(コリント人への手紙第二1:13-14)

しかし、その日が来るまで、パウロは純真さと誠実さ、そして恵みをもって生き続けると言いました。

あなたはどうでしょうか。人々があなたを誤解し、責めるとき、どのように対応しますか。

パウロのように対応しましょう。純真さと誠実さ、そして恵みをもって応答しましょう。

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使徒の働き

誤解された

この話の興味深い点は、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解を解こうとしたものの、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちとの間に新たな誤解を生んでしまったことです。

クリスチャンのユダヤ人とノン・クリスチャンのユダヤ人の両方が、パウロの教えを誤解しました。彼らは、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちに対して、モーセの律法を完全に捨てるように教えていると思ったのです。

そのため、ヤコブと他の長老たちは、パウロにモーセの律法に従って、四人のユダヤ人クリスチャンたちとともに清めの儀式に参加するよう説得しました。

さらに、神様への誓願を守るために、その四人の費用をパウロが負担しました。(彼らはナジルの誓願を立てていたかもしれません。)

パウロはその考えに同意しました。しかし、ある聖書学者たちは、彼が誤った判断をしたと考えています。つまり、パウロは その儀式に参加すべきではなかったということです。

私の考えでは、パウロの選択は正しかったと思います。彼はユダヤ人を救うために、ユダヤ人にはユダヤ人のようになったのです。(第一コリント9:19-23)

それでも、ユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解は解けたものの、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちは依然としてパウロがモーセの律法に反対していると思っていました。

さらに、彼らは パウロが異邦人を神殿に連れ込んだと誤解しました。(ユダヤ人の律法では、それは禁止されており、神殿を汚す行為とされていました。)

では、私のポイントは何でしょうか。イエス様に従い、その言葉に忠実であっても周りの人々に誤解される可能性があるということです。

教会の人々だけでなく、この世の人々もあなたを誤解するかもしれません。誤解を解こうと努力しても、あなたのことを理解できない人もいるでしょう。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか。イエス様に従い続けるしかありません。神様が私たちに語られたことに従わなくてはなりません。それが唯一の道です。人々の反応を神様に委ねるべきです。

もちろん、私たちは自分の行動を振り返る必要があります。彼らの批判が完全に誤っていることもあります。ところが、時には彼らの指摘が部分的に正しいこともあるかもしれません。

だからこそ、自分の行動と動機を慎重に見極めてください。そして、神様の御心がわかる限り、神様に従いましょう。パウロのような態度を取ることが大切です。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。

それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。

主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:3-5)

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ルカの福音書 ルカ2章

誤解された

私たちは誰でも、周囲の人々に自分のことを理解してほしいと思うものです。そして、彼らが私たちのことを理解してくれないと、私たちは傷ついてしまいます。

イエス様も、その気持ちをよく分かっておられました。イエス様は何度も弟子たちに誤解され、教えた人々や癒やした人々にも誤解されました。そして、この箇所では、イエス様が自分の両親に誤解される場面が描かれています。

この話では、イエス様が他の人々と初めて交流する場面を目にすることができます。

イエス様が12歳の時、彼とその両親は過越の祭りのためにエルサレムを訪れました。祭りが終わると、イエス様の両親は他の人々と一緒に帰路につきましたが、彼らの知らない間にイエス様はエルサレムに残り、神殿で教師たちと話していました。

一日が経った後、イエス様の両親はようやくイエス様がいないことに気付きました。(彼らはイエス様が旅の一行の中にいるものとばかり思い込んでいました。)

そこで、両親はエルサレムに戻り、3日後にようやくイエス様を見つけました。

当然ながら、マリヤは非常に怒り、イエス様を叱りました。

まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。(ルカの福音書2:48)

ところが、イエス様はマリヤの反応を完全には理解されませんでした。そして、彼はこう答えられました。

どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。(49)

要するに、イエス様は「お母さんは私のことをよく理解していると思っていました。私がどこにいるべきか、知っていたはずです」と言っているようです。

けれども、50節では、ルカはこう記しています。

しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。

他の人以上に、イエス様の両親は彼を理解できるはずでした。けれども、彼らはまったく理解できませんでした。

イエス様は、この状況に対してどのように反応されたのでしょうか。

それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。(51)

イエス様は、自分が正しいと主張することはありませんでした。両親が彼を理解していなかったにもかかわらず、イエス様は彼らを叱ることはなく、むしろ仲直りをしようとされました。そして、息子として彼は両親に仕えました。

そのことを少し考えてみてください。イエス様は神であり、ヨセフとマリヤを造られた方でした。それでも、イエス様は謙虚な態度を取り、両親の権威を認めて従われました。

私たちも時々、周囲の人々に自分のことを理解してもらえないことがあります。そのようなとき、怒りや苦々しい思いを抱くのは簡単です。なぜなら、相手が自分たちのことを理解して当然だと考えてしまうからです。

それでも、イエス様のように謙虚な態度を取りましょう。そして、できる限り彼らと仲直りを目指しましょう。パウロは次のように言っています。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18)

あなたはこう感じているかもしれません。「でも、まだ傷ついています。どうして彼らは私のことを理解できないのでしょうか。」

それは、彼らが神ではないからです。彼らはすべてのことを知っているわけではありませんし、あなたの心の奥深くを見ることもできません。だから、そうした期待は手放した方が良いでしょう。

しかし、イエス様はあなたのことをよく理解されています。なぜなら、イエス様は神であり、人間としてこの世に来られたからです。

イエス様は私たちの生活を理解し、私たちの気持ちを深く知っておられます。どんな経験をしていても、イエス様はあなたのことを理解されています。

イエス様の両親が彼のことを理解できなかったとしても、天の父はイエス様を完全に理解され、イエス様を慰められました。同じように、イエス様があなたのことを理解していることを心に留めておきましょう。

だからこそ、誤解されていると感じたときや、心が傷ついたとき、イエス様にあなたの苦しみを打ち明けましょう。イエス様はあなたを理解されているからです。

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ヨシュア記

誤解と和解に導くコミュニケーション

多くの場合、誤解の原因は、悪いコミュニケーションにあります。 私たちが自分の考えを十分に伝えないために、お互いの意図を取り違え、相手を不当に裁いてしまうのです。

この箇所でも、まさにそのような状況が見られます。

ルベン族、ガド族、マナセ族の半部族は、ヨシュアの祝福を受けて、ヨルダン川の東側にある自分たちの所有地へと帰っていきました。 なぜなら、他のイスラエルの部族たちは、それぞれ自分の相続地を受け取ったからです。

ところが、帰る前に、その三つの部族は一つの祭壇を築きました。 これを見た他の部族は、非常に怒りを覚えました。 というのも、神様はイスラエルの民がカナンに入った時、命じられた所以外には祭壇を築いてはならないと命じておられたからです。

さらに、もしその三つの部族が神様に背くことがあれば、 アカンの時のように、全体にまでその悪影響が及ぶと考えられました。

そこで、他の部族たちは、彼らに面と向かって問いただし、場合によっては戦わなければならないと真剣に考えるに至ったのです。

けれども、その三つの部族は、自分たちが築いた祭壇の目的を他のイスラエルの部族に説明しました。 つまり、彼らはその祭壇でいけにえをささげるつもりはない、と語ったのです。 むしろ、その祭壇は、自分たちが他のイスラエルの部族と同じ神様を礼拝していることの証しだと言いました。

その説明を聞いて、ヨシュアと他の部族たちは納得し、それぞれの地へと帰っていきました。

この出来事から、私たちは二つのことを学べると思います。

第一に、誤解を避けるためには、良いコミュニケーションが必要だということです。

もし最初から、その三つの部族がイスラエルの族長たちと共に行動し、彼らの目の前で祭壇を築き、その目的を説明していたなら、このような誤解は起きなかったかもしれません。

ところが、何も告げずに祭壇を築いたため、他の部族たちはその意図を誤って受け取ってしまいました。

なぜ彼らがそうしなかったのかは、はっきりとは分かりません。

衝動的な決断だったのかもしれません。ヨルダン川に着いたとき、突然この考えが浮かんだのかもしれません。あるいは、他の部族も当然自分たちの意図を理解してくれていると思い込んでいたのかもしれません。

いずれにせよ、自分たちの意図をきちんと伝えなかったことによって、重大な誤解が生まれたのです。

私は妻に、いつもこう伝えています。 「あなたの心は読めないよ。もし僕があなたのことやあなたの必要を理解することを望むなら、それをちゃんと伝えてほしいんだ。」

そして、伝えてくれたなら、私はしっかりと聞いて、それを覚えなければなりません。(それは簡単ではありませんが、努力しています。)

そうすれば、私はもっと妻のことを理解でき、妻が何も言わなくても、そのニーズに気づけるようになります。

それでも私たちは、相手が自分の思いや意図を理解してくれるだろうと、勝手に思い込むべきではありません。 もし理解してほしいと願うなら、自分の思いをきちんと伝えなければならないのです。 あの三つの部族も、そのことを痛みの中で学びました。

第二に、私たちはすぐに相手と向き合って話すべきです。

彼らが祭壇を築いたとき、他の部族たちはその意図を誤解し、深く怒りました。 しかし良かったのは、彼らがその部族のもとに赴き、きちんと話し合いをしたということです。 そのため、誤解はすぐに解けました。

けれども、多くの場合、私たちはそうしません。 むしろ、自分の怒りにとどまり続けてしまうのです。 そのような態度では、問題は決して解決しません。 もし私たちが誰かに傷つけられたと感じたなら、その人ときちんと向き合って話すべきなのです。

そうすれば、正しい裁きを行い、その人と和解することができます。 しかし、問題を見て見ぬふりをしていると、その関係は少しずつ壊れていきます。 それは、決して神様が望んでおられることではありません。

あなたの人間関係は、今どうでしょうか。 あなたは、正しく物事を見極めて裁いているでしょうか。 それとも、不完全な情報に基づいて、誰かをさばいてしまってはいないでしょうか。

良いコミュニケーションをとれているでしょうか。 それとも、自分の怒りの中にとどまったままでしょうか。

神様は、あなたにどのような一歩を願っておられるのでしょうか。