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コリント人への手紙第一

分かりやすい言葉で伝える?

この異言と預言に関するパウロの話の中には、牧師に対しても、教会に集う人々に対しても、大切な真理があります。

パウロはこう語りました。

笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分るでしょうか。また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。

同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。

世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。

それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。(コリント人への手紙第一14:7-11)

パウロの要点は、教会の礼拝において、訳されていない異言には価値がないということです。

ところが、時に牧師たちは、神様の真理を教会の人々に伝えようとするよりも、自分の聖書的な知識を披露しようとしているように見えることがあります。

彼らは難解な神学的な言葉を用いますが、その言葉を理解できる人はほとんどいません。そのため、メッセージの後、人々は次のように反応します。

「そのメッセージは素晴らしく、霊的に深いものに聞こえました。けれども、牧師が一体何を言いたかったのか、さっぱり分かりません。」

私もそのような神学書を読んだことがあります。もちろん、それは学問的な書籍であり、著者は読者が一般の人々よりも深い知識を持っていることを前提としています。それでも、私にはその本が難解すぎて、途中で読むのを諦めました。

さらに、時に私たちは福音を伝える際、「クリスチャン語」を使ってしまいます。たとえば、「贖い」や「イエス様の血によって救われる」、「聖化」、「義と認められる」といった言葉を用います。

しかし、相手がこれらの言葉を聞いても、その意味を理解できないでしょう。

「罪」という言葉も明確に説明する必要があります。「すべての人は罪を犯す」と言うと、相手は「え?私は一度も犯罪を犯したことがない」と思うかもしれません。

だからこそ、福音を伝えるときは、言葉の使い方に注意するべきです。

私たちが理解しやすい言葉を使わなければ、相手はそれを理解できず、私たちの努力は無駄になってしまいます。彼らにとって、私たちはまるで外国語を話しているように聞こえるのです。

そうではなく、むしろ、福音をシンプルかつ明確に伝えましょう。

また、もし聖書を教える立場にあるなら、人々を自分の知識で感動させようとするのではなく、彼らが理解できる言葉を用いましょう。そうすれば、神様は彼らの心に働かれることができます。

パウロの模範に従いましょう。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。

それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(第一コリント2:1-5)

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コリント人への手紙第一

神の力をもってみ言葉を宣べ伝える

私は教会でよく話をするし、もちろんこのブログも書いているので、この箇所は私にとって非常に重要です。

パウロは次のように書きました。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。

そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。

それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(コリント人への手紙第一2:1-5)

牧師やバイブルスタディーのリーダー、または日曜学校の先生として聖書を教えているなら、この箇所を暗記し、メッセージを準備するたび、そして語るたびに、その言葉を深く味わうべきだと思います。

正直に言えば、私自身もこの箇所をもっと復習すべきなのです。

私は日曜日に良いメッセージを伝えたいと思っています。そして、私のメッセージが分かりやすいものであることを願っています。

しかし、忘れてはならないことがあります。私の言葉や知恵によって人々に影響を与えることはできるかもしれません。けれども、私の力で人を変えようとするには限界があります。

なぜでしょうか。それは、私の知恵と説得力が極めて限られたものだからです。

さらに、私は人々に自分自身を変える力を与えることはできません。彼らは私の言葉を聞いて同意するかもしれません。

彼らは、「敵を愛するべきだと同意します。相手を許すべきだと同意します。罪を捨てて、義を着るべきだと同意します。」と言うかもしれません。

しかし、もし神様が彼らの心の内で働かれないなら、何も変わることはないでしょう。

パウロが理解したのは、人を変えることができるのはただ一つ、それは十字架のメッセージにある神様の力だということです。

十字架にかけられたイエス様の働きによって、私たちは神様との関係を持つことができました。

イエス様の働きによって、神様に対する反抗的な心が取り除かれ、新しい心が与えられました。

イエス様の働きによって、私たちは古い人生を捨て、本当の命を知ることができるのです。

だから、パウロは次のように語りました。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。(2)

あなたはどうでしょうか。教会でどのようなメッセージを聞いていますか。そのメッセージは、十字架を中心としたものでしょうか。それとも、牧師の知恵に基づいたものですか。

あるいは、「自分自身を変えるべきだ」という内容でしょうか。

もしあなたが聖書を教える立場にあるなら、あなたのメッセージの準備における焦点は何でしょうか。

それは、教会の人々を楽しませることですか。自分の知恵と知識を用いて、人々を感動させようとしているでしょうか。あるいは、あなたはイエス様、とりわけ十字架につけられたキリストを述べ伝えているでしょうか。

あなたが語るとき、神様の力はあなたを通して流れているでしょうか。教会の人々の信仰は、あなたではなく、イエス様に基づいているでしょうか。