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ローマ人への手紙のデボーション

誇る理由はありません

あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。

思い上がることなく、むしろ恐れなさい。(ローマ人への手紙11:18-20)

今日の箇所では、パウロは異邦人のクリスチャンたちに向かって話しています。彼らは自分の救いに関して誇り、ユダヤ人たちにこう言っていたようです。

「あなたたちはかつて神の民だったかもしれないが、今や、私たち異邦人たちは神の民です。」

でも、パウロは彼らに言いました。

「あなたたちがユダヤ人たちより優れているかのように誇ってはなりません。神様の恵みだけによって、あなたたちは神様の民になったのです。

イエス様は根です。そして、恵みだけによって、イエス様はあなたを支えてくださっているのです。

あなたたちが素晴らしい人たちだから、神様の民になったわけではありません。むしろ、あなたたちは自分の弱さと救いの必要性がわかったから、イエス様を信じたのです。

そして、恵みによって、神様はあなたたちを自分の家族に受け入れてくださいました。だから、あなたたちはいったい何を誇っているのでしょうか。」

たぶん、「私たちはユダヤ人たちよりも優れている人」と自慢するクリスチャンたちは今あまりいません。でも、ほかのクリスチャンよりも、自分が優秀なクリスチャンだと考えることがありますか。

「私はその人よりも成熟したクリスチャンです。

私はその人よりも聖書のことをよく知っています。

私はたくさんの霊的な賜物をいただいています。

神様は私を用いてくださっています。

でも、その人は、そのようなクリスチャンではありません。」

使徒ペテロの態度は私を驚かせました。ほかのクリスチャンたちに書いたとき、こう言いました。

私たちの信仰と対等の信仰を受けた方々へ」(第二ペテロ1:1、別訳)

ペテロは、「私は使徒ですから、私の信仰があなたのよりも優秀なものだよ。だから、私を尊敬をしなくてはならない。」と言いませんでした。

むしろ、ペテロはこう言いました。「神様の目には、あなたの信仰は私たちの信仰と対等なものです。」

どうして、ペテロはそう言ったのでしょうか。なぜなら、ペテロは、自分が根を支えずに、根が自分を支えてくださっていることが分かったからです。

彼の救いは、自分の義によるものではなく、むしろ、キリストの義によるものだと分かりました。(第二ペテロ1:1b)

だから、その謙遜な態度を取りましょう。ほかのクリスチャンたちを見下さずに、私たちの信仰と対等な信仰を受けた人たちとして考えましょう。

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箴言のデボーション

和解への道

時々、私たちの人間関係が壊れてしまい、私たちは和解への道を見つけることができません。

そういうわけで、ソロモンはこう言いました。

堅固な城を攻め落とすより、けんかした友人と仲直りするほうが大変です。

怒った相手は、頑としてあなたを受けつけません。(箴言18:19、リビングバイブル)

和解を望むなら、私たちは一つのことを学ばなくてはなりません。それは、相手の話をちゃんと聞くことです。

ソロモンはこう言いました。

よく聞かないで返事をする者は、愚かであり、恥を見る。(13節)

どれだけ、相手が話すとき、私たちはちゃんと聞かずに、むしろ、自分が次に何を言おうと考え始めるでしょうか。

私もそうやったことがあります。

もちろん、私たちがいつも相手の言葉に同意するとは限りません。なぜなら、相手が実際に悪かったかもしれないから。

でも、私たちが彼らの言うことをちゃんと聞かないと、彼らの城壁はもっと高くなるでしょう。

それに、相手ではなくて、私たちの方が実際に悪かったかもしれません。

だから、ソロモンはこう言いました。

最初に訴える者は、相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。(17節)

私たちは、自分の方が正しいと思うかもしれません。でも、相手の話をちゃんと聞くなら、自分が悪かったと分かるようになるかもしれません。

もちろん、和解は双方向の関係でなければなりません。

しかし、私たちは相手の反応をコントロールすることはできません。私たちにできるのは、自分自身の行動を整えることだけです。

もし、私たちが謙遜な態度をもって、相手の話をちゃんと聞くなら、彼らは私たちの話を聞いてくれるかもしれません。そして、和解への戸は開かれるかもしれません。

主よ。私に謙虚な心を与えてください。自分が正しいと思うときにも、私は相手にちゃんと耳を傾けるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ15章 マルコの福音書 マルコ7章

根気、謙虚、信仰

イエス様はこの女性と話された時、何を考えておられたのでしょうか。また、どのようなトーンで話されたのでしょうか。

ユダヤ人と向き合われた後、イエス様はイスラエルを離れて、ツロとシドンへ行かれました。その場所はイスラエルの北にあり、海岸の近くに位置しています。

イエス様はひっそりとそこに行かれましたが、すぐに人々はイエス様がおられることを聞きつけました。その中に一人の女性もいました。彼女はギリシャ人で、その地域で生まれ育った人でした。

(マルコの福音書によれば、彼女はカナン人とも呼ばれていました。)

彼女の娘が悪霊に取りつかれていたため、イエス様に助けを求めに来ました。

主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。(マタイ15:22)

通常、イエス様は人々に思いやりをもって話されましたが、この場合はそうされませんでした。イエス様は彼女の願いを聞かれましたが、彼女を無視されました。

それでも、彼女はあきらめず、必死に叫び続けました。「主よ、私の娘を助けてください。」

だから、主の弟子たちはイエス様にこう言いました。

あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。(マタイ15:23)

それを聞いて、イエス様はその女性に向かって、こう言われました。

わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。(マタイ15:24)

イエス様はどのようなトーンでその言葉をおっしゃったのでしょうか。少し苛立たれた声だったのでしょうか。それとも、少し謝罪するような優しい声だったのでしょうか。

「ごめんね。助けたいけれど、私はユダヤ人たちのために遣わされているのです」と。

イエス様がその言葉をどのように言われたのかは分かりませんが、彼女はまだあきらめませんでした。それどころか、彼女はイエス様のもとに近づき、ひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と懇願しました。

それでもイエス様は、もう一度、少し厳しい言葉で彼女を拒まれます。

子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです(マタイ15:26)

イスラエルでは、誰かを犬と呼ぶことは侮辱とされていました。しかし、イエス様は「子犬」と言われました。彼らの言語では、「小」を付けることで、相手を少し可愛がるニュアンスが生まれます。

それでも、多くの人がその言葉を聞いたならば、感情を害されたかもしれません。

ところが、彼女は怒ることなく、イエス様の言葉を用いてこう言いました。

主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。(マタイ15:27)

つまり、彼女はこう言いました。「あなたがユダヤ人のために遣わされていることは分かっています。でも、彼らが食卓から落とすパンくずを、私たちがいただいてもよいのではないでしょうか。」

それを聞いて、イエス様は意外な言葉で彼女を褒められました。

ああ、あなたの信仰はりっぱです。(マタイ15:28)

イエス様が相手の信仰を褒められることは本当に珍しいことでした。それはたった二回だけ記録されています。そして、その二人目も異邦人でした。(マタイ8:5-13)

とにかく、イエス様はその女性の信仰を見て感動され、その娘を癒されました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか?

時には、私たちが祈るとき、神様が沈黙されているように感じることがあります。無視されているように思うかもしれません。けれども、この女性のように、私たちは根気強く祈り続けるべきです。

もちろん、私たちはイエス様に命令することはできません。(時々、ある牧師たちはそのように教えることがありますが、それは誤りです。)

しかし、謙虚な態度をもって、イエス様が私たちを助けることができると信じるならば、多くの場合、イエス様はその願いを叶えてくださいます。

ですから、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。

1.神様が良い方であり、私たちを愛しておられることを信じますか?

2.神様がその願いを叶えられても、断られても、その答えが私たちの益のためだと信じますか?

3.神様が答えられるまで(「はい」でも「だめ」でも)、私たちは祈り続けるでしょうか?

では、あなたはどうでしょうか?根気をもって祈り続けますか?神様を信頼しますか?神様があなたの願いを断られたとしても、謙遜にその答えを受け入れるでしょうか?