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ローマ人への手紙

私たちよりも優れた神

神様と議論する機会があれば、神様を言い負かすことができると思う人がいます。けれども、それは非常に愚かな考えです。

それでも、多くの無神論者はこう言います。

「もし神様が実在するなら、私は神様に対して、自分が神様の存在を信じなかった理由を説明できる。だから、神様を言い負かすことができるはずだ。」

けれども、この箇所でパウロは、そのような考えの虚しさを示しています。

ローマ書10~11章では、パウロは、神様がどのようにユダヤ人の不従順を用いて異邦人を救われたかを説明します。そして、異邦人の救いがどのようにユダヤ人の救いへとつながるのかを解説します。

パウロは、神様の計画を次のようにまとめます。

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。

それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。

神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。(ローマ人への手紙11:30-32)

この話を通して、私たちは神様の予知と予定説の関係を見ることができます。

神様は、ユダヤ人がイエス様をどのように扱うかをあらかじめ知っておられ、異邦人を救う計画を立てられました。とはいえ、神様は異邦人の救いによってユダヤ人が神様との関係を切望することも知っておられました。

そのため、神様は異邦人を救う計画を通して、あるユダヤ人がイエス様を受け入れ、救われることをも確かに知っておられました。

簡単に言うと、この宇宙のチェスボードにおいて、神様はどのようにご自身の目的を達成されるかを完全に理解されています。

神様はすでに私たちの選択を知っておられ、その選択にどのように応じるかもご存知です。

だから、私たちが何をしようとも、神様の御心は必ず成就します。そのように、人々は自由意志を持ちますが、神様もご自身の自由意志を持っておられます。

このことを考えたとき、パウロは圧倒されました。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。(ローマ人への手紙11:33-34)

要するに、神様の知識と知恵に匹敵する者は誰もいません。なぜなら、神様はすべての知識と知恵を持っておられるからです。その一方で、私たちはただの人間であり、私たちの知恵と知識には限界があります。

だからこそ、もし神様がご自身の計画を明かされなければ、私たちはその計画を理解することができません。そして、たとえ神様がご自身の計画を示されたとしても、その計画の深さを完全に把握することはできないのです。

例えば、多くの人はこう言います。

「もし神様が本当に良い方なら、どうしてこの世には悪が存在するのですか。」

けれども、彼らの議論は自身の無知から来ています。彼らは神様が知っておられることを知らないのです。そのため、彼らの議論は無意味となってしまいます。

それにしても、彼らはまるですべてを知っているかのように議論します。まるで神様が彼らの議論を論破できないかのように、自信満々に語るのです。

しかし、彼らが神様の御前に立つとき、神様は彼らの動機を明らかにされます。神様は彼らが知っていたことも、知っていたはずのこともすべて示されます。そして、神様は彼らの誤った考え方や仮定を暴き、真実を明らかにされます。

そのとき、すべての口は閉ざされ、全世界が神のさばきに服するのです。(ローマ書3:19)

神様を驚かせて、「私は知らなかった」と言わせるような言葉は、私たちには何一つありません。

また、私たちは神様にこう言うことはできません。

「私の行いを見てください。私は天国に入る資格があります。」

パウロの言葉は、まさに正しいのです。

だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。(35-36a)

私たちの持ち物のすべては神様から来ました。すべてのものは神様から発し、すべてのものは神様に帰されます。やがて、私たちも神様の御前に立ち、裁かれるのです。

だから、私たちには二つの選択があります。パウロのように、私たちはこう言うことができます。

この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(36b)

それとも、私たちは裁きの日まで神様に反抗し続けることができます。

ところが、その日が来ると、私たちの口は閉ざされ、神様の前で裁きを受けることになります。

あなたはどうしますか。あなたはどの道を選びますか。

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ルカの福音書 ルカ14章

議論を通して、人を救う?

イエス様は優れた教師であるだけでなく、優れた論者でもありました。この個所では、イエス様は再びパリサイ人たちと、安息日に人を癒すことが合法的かどうか議論されています。

パリサイ人たちの反応は少し興味深いものです。イエス様が彼らに対して、安息日に癒すことが正しいか、そうでないかを問われたとき、彼らは黙ってしまいました。そこで、イエス様は水腫を患っている人を癒されました。

その後、イエス様はパリサイ人たちにこう問いかけられました。

自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。(ルカの福音書14:5)

彼らの答えは?

彼らは答えることができなかった。(6)

もしかすると、彼らはこのことわざを思い浮かべたのかもしれません

「あなたが黙っていて、周囲の人々に馬鹿者だと思われる方が、あなたの言葉によって、周囲の人々が馬鹿者だと明確に理解するよりも良い。」

けれども、ここで再び重要な真理が明らかになります。

パリサイ人たちは何度もイエス様と議論を試みました。そして最終的に、彼らはイエス様の議論に対して何も答えることができませんでした。イエス様はその議論に勝利されました。

では、パリサイ人たちはイエス様の教えを信じるようになったでしょうか。安息日に人を癒すのが正しいことだと認めたでしょうか。

残念ながら、そうではありません。むしろ、彼らはイエス様を殺そうと企むようになりました。

つまり、単なる議論によって人々をイエス様に信じるよう導くことはできません。あなたが議論を通じて、イエス様を信じるべき理由や聖書を信じるべき理由、そしてキリスト教が正しい理由を説明することは可能です。

あなたはその議論に勝つことがあるかもしれません。相手がパリサイ人たちのように黙るかもしれません。それでも、どれだけ議論をし、証拠を示しても、イエス様を拒絶する人は必ずいます。

かつてラジオ番組で、あるクリスチャンが哲学者と議論を交わしました。その哲学者はこう言いました。

「クリスチャンたちは聖書の真実性を証明しようとするとき、いつも聖書を引用します。それは循環論法ですよ。証明したいことを最初から仮定してはいけません。」

そのクリスチャンはこう反論しました。

「あなたはなぜ聖書が一冊の本だと思うのですか。実際には聖書は66冊で構成されています。さらに、著者は40人以上に及び、1000年以上をかけて書かれました。

ですから、一人の著者の言葉を使って別の著者の言葉を検証することは循環論法ではありません。全く異なる出所を利用しているのです。」

哲学者は「違う、違う、違う」と言い続けました。

そして、クリスチャンはこう尋ねました。「なぜ違うと言うのですか。私の議論に答えることができますか。それとも単に信じないだけですか。」

哲学者は「私はそれを信じない」と断言しました。

その哲学者は答えることができませんでした。彼はパリサイ人たちのように沈黙しました。とはいえ、おそらく彼は他のクリスチャンたちと話すときでも、同じ議論を繰り返していたことでしょう。

では、私たちはノン・クリスチャンと議論を交わすべきではないのでしょうか。彼らの疑問に答えない方が良いのでしょうか。そうではありません。

ペテロはこう記しました。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(第一ペテロ3:15)

答えを心から求めている人もいるでしょう。そして、もしあなたがその答えを与えるなら、彼らはクリスチャンになるかもしれません。しかし、単なる議論によっては、誰も神の国に入ることはできません。

人々の心を開くことができるのは聖霊様だけです。ですから、人々と話すとき、彼らの質問に答えるだけでなく、彼らのために祈りましょう。

そうすることで、聖霊様が彼らの心を変え、彼らは救われるかもしれません。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

イエス様への道を指し示す

多くのクリスチャンは、家族や友達にイエス様について話すことを恐れることがあります。

一つ目の理由は、彼らが自分にはその資格がないと思っていることです。また、相手の質問に答えるために、聖書についてすべてを知っていなければならないと感じることもあります。

もちろん、その知識があれば役に立ちます。そして、私たちがクリスチャンとして成長するにつれて、イエス様に関する知識が増えるべきです。

とはいえ、私たちの責任は相手を説得することではなく、イエス様への道を指し示すことです。この箇所から、その真理を学ぶことができます。

その最初の例として、バプテスマのヨハネが挙げられます。

祭司たちやレビ人たちがヨハネのところに来た時、彼らはヨハネに資格を問いただしました。「あなたはキリストですか。あなたはエリヤですか。あなたは神様が約束された預言者ですか。」(申命記18:15)

ヨハネが「違います」と答えると、彼らはさらに尋ねました。「では、あなたは誰ですか。」

その時、ヨハネはどのように感じたでしょうか。宗教的なリーダーたちが彼を尋問している時、ヨハネは少し緊張したのでしょうか。

その以前に、ヨハネはパリサイ人やサドカイ人を厳しく責めたので、緊張しなかった可能性もあります。それでも、こうした「資格のある人々」に尋問されるのは大変なことだと思ったかもしれません。

これは私の想像にすぎませんが、その瞬間ヨハネは、砂漠から戻ってきたばかりのイエス様を見たのではないでしょうか。なぜなら、ヨハネがこう答えたからです。

私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。

その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。(ヨハネの福音書1:26-27)

要するに、「私の資格は別に重要ではありません。私の後から来られる方は、私よりもはるかに偉大な方です。実は、彼は今ここにおられます。私はその方のしもべになる資格すらありません。」

時々、人々は私たちの資格を疑うかもしれませんが、私たちが自分自身に注意を向けさせる必要はありません。私たちが述べ伝えているのはイエス様であり、私たち自身の偉大さではありません。

だから、人々があなたの資格を疑ったとしても、彼らの心を自分に向けさせるのではなく、イエス様に向けるようにしましょう。

その翌日、ヨハネはもう一度人々にイエス様を指し示しました。そのため、ヨハネの弟子たちのうち二人がイエス様について行きました。

私たちは自分の弟子を作るのではなく、イエス様の弟子を作ることを心に留めておきましょう。そのため、私たちは彼らが私たちに頼ることを教えるのではなく、イエス様に頼ることを教えています。

ヨハネもそのようにしました。だから、彼の弟子たちがイエス様についていった時、おそらくヨハネは喜んだことでしょう。

その弟子たちはすぐにヨハネを見習いました。つまり、彼らはペテロをイエス様に紹介しました。(ペテロは、イエス様について行く弟子アンデレの兄であり、アンデレはもともとヨハネの弟子でした。)

さらに、イエス様は彼らの友人であるピリポを招かれました。そして、ピリポは彼の友人ナタナエルをイエス様に紹介しました。

けれども、ナタナエルはイエス様のことを聞いた時、ピリポの話を疑いました。

ナザレから何の良いものが出るだろう。(46)

イエス様の出身地であるナザレは、良い評判がない町でした。特に、預言者や偉大な霊的リーダーがナザレから出ることはほとんどありませんでした。

しかし、ピリポはナタナエルと議論することはしませんでした。むしろ、彼はこう答えました。

来て、そして、見なさい。(46b)

ピリポはナタナエルをイエス様のところに連れて行きましたが、ナタナエルを説得したのはイエス様でした。

もちろん、私たちはできる限り人々の質問に答える努力をすべきです。けれども、質問に答えたからといって、彼らが必ずしもクリスチャンになるわけではありません。

議論によって人々を天国に導くことはできません。人々の心を変えることができるのはイエス様だけです。

だからこそ、彼らの質問に答えた後は、ピリポのように「来て、そして、見なさい。」と言うべきです。

どうでしょうか。あなたは周りの人々をイエス様に指し示していますか。