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使徒の働き

私たの責任を果たす

パウロが常に行ったことは、福音を述べ伝えることでした。どこへ行っても、パウロはイエス様がキリストであることを伝えました。

(覚えておいてください。「キリスト」とは名前ではなく、肩書です。ユダヤ人にとって、「キリスト」とは「救い主」や「王」を意味します。)

なぜ、パウロは福音を述べ伝えたのでしょうか。その理由の一つは、イエス様がパウロにそう命じられたことです。そして、イエス様は一度だけ命じたのではありません。パウロが救われたとき、イエス様は彼に使命を与えられました。(使徒の働き9:15)

そして、この箇所でも、イエス様はもう一度パウロにこう言われました。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(使徒の働き18:9)

しかし、パウロには、福音を伝える理由がもう一つありました。彼は、預言者エゼキエルに対する神様の言葉を覚えていました。

わたしが、悪いものに「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:18-19)

そのため、コリントでユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶したとき、パウロはこう言いました。

あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。(使徒の働き18:6)

その後、パウロはエペソの長老たちに、似たことを語りました。(使徒の働き20:26-27)

私のポイントは?

私たちは、知っている人に福音を述べ伝える責任を持っています。

彼らの反応は私たちの責任ではありませんが、私たちは彼らに真理を伝える使命があります。そうしないと、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます。

イエス様は、かつてパウロに語られたように、私たちにも語られます。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(使徒の働き18:9)

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マタイの福音書 マタイ27章

イエス様の血が私たちの上に

全ての福音書を読むと、ユダヤ人たちの「十字架につけろ」という叫びは、私の心を深く揺さぶります。

イエス様はその言葉を聞いて、心から悲しまれたことでしょう。なぜなら、イエス様はその人々を本当に愛していたにもかかわらず、彼らはそのようなひどい言葉を叫んだからです。

ピラトはその言葉を聞き、無力を感じながら、群衆の前で手を洗い、こう言いました。

この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。(マタイの福音書27:24)

その群衆はそれを聞き、こう答えました。

その人の血は私たちや私たちの子供らの上に。

最終的にユダヤ人たちはその行為のゆえに苦しむことになりました。

彼らが自分のメシアを拒絶したため、西暦70年にローマの将軍タイタスがエルサレムを破壊し、多くのユダヤ人とその子供たちが殺されました。もちろんタイタスがその剣を振るいましたが、それはユダヤ人に対する神様の裁きでした。

けれども、ピラトと群衆の言葉について考えると、二つのことが私の心に強く響きます。

一つ目は、私たち全員がイエス様の死の責任を負っているということです。イエス様は私たちのために死なれたからです。

もし私たちが神様を拒絶しておらず、罪を犯していなかったならば、イエス様が死ぬ必要はなかったでしょう。したがって、イエス様の血はその時代のユダヤ人だけではなく、私たち全員の上にあるのです。

パウロはこのように書いています。

全ての人は罪を犯し「ました」。(ローマ3:23)

だから、ピラトとは違って「私には責任がない」と言える人は誰もいません。私たち全員がその責任を負っているのです。

とはいえ、「イエス様の血は私たちの上に」という言葉には、もう一つの重要な意味を見いだせると思います。(これが私の二番目のポイントです。)

もちろん、群衆が意味したのは「イエス様の死は私たちの責任だ」ということでした。

けれども、皮肉なことに、イエス様の血は私たちを覆い、私たちの罪を清めてくださるのです。私たちがイエス様を信じるなら、その血は私たちの罪を覆い、神様の目において私たちは義と認めてくださいます。

へブル人への手紙の著者は次のようにイエス様について書いています。

また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、体をきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:12-14)

だから、私たちの救い主に叫びましょう。

「あなたの血が私たちの上にあります。私たちは罪を犯したので、あなたの死の責任を負っています。

けれども、どうかあなたの血が私たちを覆ってください。あなたの恵みと憐れみによって、私たちを清め、赦し、完全にしてください。」

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ダニエル書3

自分の罪によってあなたの人生が壊れた時

ペルシアがバビロンを打ち破った後、ダニエルはエレミヤの預言を思い出しました。それは、イスラエルの追放が70年間続くというものでした。その70年が過ぎたとき、ダニエルは神様の前に跪き、祈りを捧げました。

実際、他のイスラエル人と比べると、ダニエルは正しい人でした。彼は一貫して神様に忠実であり、それほど悔い改める必要がありませんでした。

それでもなお、イスラエル人のために祈るとき、ダニエルは「私は正しい人だからイスラエル人のために祈ります」とは言いませんでした。むしろ、自分の罪を認め、神様の恵みの必要性を訴えました。

ダニエルはこの祈りを通して、私たちの人生が罪によって壊れたとき、どのように祈るべきかを教えてくれます。

第一に、ダニエルは言い訳をせず、正直に自分の罪を告白することです。彼はこのように祈りました。

私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。

私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。(ダニエル書9:5-6)

第二に、ダニエルはユダヤ人が抱えるトラブルの原因を神様のせいにせず、彼ら自身の責任を認めることです。

イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。

神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。(ダニエル書9:11-12)

第三に、ダニエルはイスラエル人ではなく、神様こそが正義の方であることを認めることです。

私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。(ダニエル書9:14)

最後に、ダニエルはユダヤ人の良い行いに基づくのではなく、神様の恵みに基づいて赦しを願うことです。

私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。

主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。(ダニエル書9:18-19)

私たちの人生が罪によって壊れるとき、私たちはしばしば自分自身を責めるのではなく、周りの人々を責めます。

時には神様さえも責めることがあります。「あなたは不公平です。どうして私の人生はこんなにもめちゃくちゃになったのですか?」と文句を言うこともあります。

たとえ自分が悪かったと認めたとしても、私たちはよく自分の行動を弁解しようとします。

しかし、そのような態度を持ち続けるなら、私たちの人生は壊れたままで、神様の赦しを知ることは決してありません。むしろ、苦々しい心だけを抱くことになるでしょう。

もし赦しと癒しを知りたいなら、ダニエルのように祈るべきです。言い訳をせず、正直に神様に「私は悪かった。私は罪を犯しました」と告白することが必要です。

また、「神様、あなたは不公平です。だから私の人生はめちゃくちゃになったのです」と言うのではなく、自分の責任を認めることが大切です。

さらに、神様の判断が正しいと認めるべきです。

そして、神様の憐れみによってのみ、神様の赦しを願うべきです。私たちは神様の赦しに値する存在ではありません。神様の憐れみを得るために何かをすることはできません。ただへりくだって神様に頼ることしかできません。

そうすれば、神様がイスラエルの人々を触れて癒されたように、私たちの人生にも触れて癒してくださいます。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によって、あなたの人生は壊れているのですか。神様を責めていますか。他の人々を責めていますか。

今こそ、自分の責任を認め、罪を告白する時です。そうすれば、神様の赦しと癒しを知ることができるでしょう。

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エゼキエル書

神の御前に申し開きするとき

この箇所では、私たちは重要な真理を学ぶことができます。すなわち、私たち全員がいつか神の御前で申し開きをしなければならないということです。

エゼキエルの時代、イスラエルの人々はこのことわざを引用して、文句を言いました。

父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(エゼキエル18:2)

つまり、「私たちは先祖の罪のために苦しんでいます。どうして私たちは、彼らの罪のために罰されているのでしょうか。」

けれども、神様は彼らにこう答えられました。

わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。

見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(3-4)

時々、私たちは両親の罪や他の人の罪によって被害を受けることがあるかもしれません。それでも、私たちすべての人間は、自分の行動に対して責任を持たなければならないのです。

例えば、両親に虐待された人がいるかもしれません。その両親の行動によって、彼らは肉体的にも精神的にも苦しむことになります。

とはいえ、それに対する反応は自分自身の責任です。彼らは自分の子供に対して両親の罪を犯し続けるでしょうか。それとも、その罪を止めるでしょうか。

神様はイスラエルの人々に対して多くの仮定の質問をされました。

「もし、正しい人に悪い息子がいたら、私はその息子を正しい人として認めるでしょうか。違います。私はその息子を父の行動のために祝福せず、彼を罰します。」(5-13)

「しかし、悪い人に息子がいる場合、その息子が父の罪を見ても、彼はその罪を拒絶して正しい人生を歩むなら、私はその息子をその父の罪のために罰するでしょうか。

違います。その父は自分の罪のために死にますが、その息子は生きます。」(14-18)

また、「もし悪い人が悔い改めて正しいことをし始めたなら、その人は以前の罪のために死ぬでしょうか。違います。私はその人を赦し、哀れみます。」(21-22)

けれども、「正しい人が義の道から離れてしまったら、その人は生き続けるでしょうか。違います。その人は死にます。」(24)

ユダの王たちの歴史を見ると、このパターンをよく目にします。

例えば、アサ王は義の道から離れ、罪を犯し始めたため、苦しみの中で死にました。

しかし、彼の息子ヨシャパテは父の罪から離れ、良いことを行ったので、神様に祝福されました。

けれども、ヨシャパテの息子ヨラムは父の義の道から離れたため、苦しみの中で死を迎えました。

また、別の王であるマナセは、良い父を持っていましたが、罪を犯したために罰を受けました。しかし、彼は悔い改めたので、神様に赦されたのです。

神様のポイントは何でしょうか。

――神である主の御告げ――

悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。

あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。

イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ――

だから、悔い改めて、生きよ。(30-32)

つまり、神様はこう語られているのです。

「自分の行動に責任を持ちなさい。自分の罪を認めなさい。他の人をあなたの罪の責任者として責めるのはやめなさい。

彼らもそれぞれ、自分の罪について申し開きをしなければなりません。けれども、あなた自身もまた、自分の罪について申し開きをしなければならないのです。

ですから、彼らをあなたのトラブルの原因として責めるのではなく、悔い改めなさい。そして、私に新しい心と新しい霊を求めなさい。

なぜなら、私は誰かが死ぬことを喜ぶ神ではないからです。」

その前に神様はこう言われました。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――

彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(23)

あなたはどうでしょうか。あなたのトラブルを他の人のせいにして責めていませんか。あなたの罪の結果について相手を責めていませんか。

確かに、彼らにはある程度の責任があるかもしれません。とはいえ、神様の御前で彼らを責めることは、あなた自身を助けることにはなりません。

ですから、自分の心を見つめ、自分の罪に目を向けましょう。そして、悔い改めましょう。そうすれば、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

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エゼキエル書

相手が聞こうが聞くまいが

ああ、良かったですね!これは年代順に書かれている本なのですね。😊

エレミヤ書は本当に大変です。いつもあっちこっちに飛ばなくてはならないですから。

さて、エホヤキン王(最後から二番目のユダの王)が捕囚として連れ去られてから5年目に、エゼキエルは預言し始めました。

エゼキエルは、エホヤキンと他のユダ人たちと共にバビロンに追放されました。エゼキエルは祭司の息子で、30歳になり祭司として仕えるはずでしたが、神様は彼を預言者として召されました。

エゼキエルは最初に「ケルビム」という天使を見たようです。

ケルビムは4つの顔を持っていました。それらは人間の顔、獅子の顔、牛の顔、そして鷲の顔です。多くの聖書学者たちは、それらの顔がイエス様を象徴すると考えています。

  • マタイの福音書では、イエス様はユダの獅子として表されました。つまり、イエス様は王です。
  • マルコの福音書では、イエス様は牛として表されました。つまり、イエス様はしもべです。
  • ルカの福音書では、イエス様は人間として表されました。つまり、イエス様は人の子です。
  • ヨハネの福音書では、イエス様は鷲として表されました。つまり、イエス様は神の子です。

ケルビムは神様の全知を象徴しています。(4つの顔が別々の方向を向いていたため、何でも見ることができたのです。)

またケルビムは神様の偏在をも象徴していました。(1つの輪が他の輪の中にあり、どこにでも行くことができました。)

そして、神様が現れ、エゼキエルに語られました。

まず、神様はこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。

彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。

あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。

人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。

たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。

彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。

彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。(エゼキエル書2:3ー7)

神様はエゼキエルに二つのことを言われました。

1つ目は、神様がエゼキエルをイスラエル人に遣わされるということです。

2つ目は、イスラエル人がエゼキエルのメッセージを聞こうが聞くまいが、エゼキエルはそのメッセージを伝えなければならないということです。

神様は私たちにも同じことを言われます。

神様は私たちを周りの人々に遣わしておられます。私たちが神様のメッセージを伝える時、聞く人もいれば、聞かない人もいます。

けれども、彼らが聞こうが聞くまいが、私たちはそのメッセージを伝えなければなりません。

そして、神様はエゼキエルにこう言われました。

あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。(エゼキエル書2:8)

神様はエゼキエルに巻物を与えられました。しかし、その巻物に幸いな言葉は書かれていませんでした。むしろ、「哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」(2:10)のです。

つまり、それらの言葉は裁きの言葉でした。なぜなら、イスラエル人たちが罪を犯していたからです。

エゼキエルがその巻物を食べると、その言葉は蜜のように甘かったのです。

私たちも神様の言葉を受け入れるべきです。そして、その言葉を味わうべきです。けれども、その言葉を自分のためだけに保つのではなく、周りの人々にシェアしなければなりません。

もちろん良い言葉もシェアすべきですが、警告の言葉もシェアすべきです。なぜでしょうか。

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

わたしが悪者に、「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。

もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。

それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。

しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17ー21)

神様は何を言われているのでしょうか。

私たちは神様の見張り人です。だから、人々に「罪を悔い改めなさい」と伝える責任があります。

彼らが聞いて悔い改めれば、救われます。もし聞かなければ、滅びます。いずれにせよ、その場合、神様は彼らの血の責任を私たちに問われません。

しかし、もし私たちが彼らに警告しないなら、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます。

私たちは周りの人々が神様のメッセージにどのように反応するかをコントロールすることはできません。

とはいえ、彼らが聞こうが聞くまいが、神様は私たちにそのメッセージを伝えるように命じておられます。

私たちは友達、同僚、そして家族にこのメッセージを伝えるべきです。そのメッセージを聞いて救われる人もいれば、そのメッセージを聞かずに滅びる人もいます。

しかし、自分自身にこの質問をしてみてください。「私は神様が命じられたことを行っているでしょうか。私は周りの人々に神様の裁きと救いについて伝えているでしょうか。」

あなたはどうですか。

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列王記第二 歴代誌第二

たった一つの悪い選択

選択。それは神様からの贈り物です。けれども、選択することは責任を伴います。私たちは日々、数多くの選択を迫られています。

深刻ではない選択もあります。たとえば、朝食に何を食べるか、通勤にバスと電車のどちらを使うべきかといった選択です。

しかし、もっと重要な選択もあります。それは、今日神様に従うか従わないか、また、この瞬間に神様に従うかどうかという選択です。

ヨシヤ王は、基本的に神様に従う生涯を送りました。

王として、さまざまな賢明な決断を下し、ユダを導きました。

他のユダやイスラエルの王たちと比較すると、ヨシヤは本当に優れた王でした。

ところが、ある日、神様の声を無視したことで彼は命を落としました。

エジプトの王が他国と戦おうとしていたとき、ヨシヤは彼を止めようとして出向きました。その際、エジプトの王はヨシヤにこう語りました。

ユダの王よ。私とあなたと何の関係があるのですか。

きょうは、あなたを攻めに来たのではありません。私の戦う家へ行くところなのです。

神は、早く行けと命じておられます。

私とともにおられる神に逆らわずに、控えていなさい。さもなければ、神があなたを滅ぼされます。(歴代誌第二35:21)

神様の命令によって、エジプトの王はそう語りました。(歴代誌第二35:22)

けれども、ヨシヤは神様の声に従いませんでした。

どうしてだったのでしょうか。ヨシヤのプライドが原因だったのでしょうか。

たとえば、彼自身の軍隊についてのプライドや、自分の作戦に対するプライドがあったのかもしれません。(彼はその戦いのために変装していました。)

あるいは、ヨシヤはプライドから神様が外国の王に語りかけるはずがないと思っていたのかもしれません。

ヨシヤの考えを正確に知ることはできませんが、確かなのは、彼がその日に命を落としたということです。そして、ユダの没落は間もなく始まりました。

時には、正しいと分かっていても、あえて悪い選択をしてしまうことがあります。

ときに、自分の行動を正当化しようとすることもあります。あるいは、言い訳さえせずに悪を行ってしまうこともあるのです。

ヨシヤの人生から、この大切な真実を心に刻みましょう。

「たった一つの悪い選択が、私たちの人生を壊してしまう可能性がある。」

たとえば、一つの悪い選択によって、不倫をしてしまい、結婚生活を崩壊させることがあります。

一つの罪によって、自分のミニストリーを破壊してしまうこともあります。

もちろん、罪を犯したとしても、悔い改めるならば神様は赦してくださいます。

神様はヨシヤを赦されました。

ヨシヤは天国に入りました。

それでも、彼の治世と命はそこで終わってしまったのです。

だからこそ、毎日毎日、一瞬一瞬、神様に従うことを選びましょう。

さらに、主の祈りを心に留め、祈り続けましょう。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)