大勢の群衆がイエス様についていったとき、イエス様は彼らの心を探り、その動機を見抜こうとされたのではないでしょうか。
彼らはイエス様の奇跡を見るためについていったのでしょうか。それとも、イエス様の素晴らしい教えを聞くためについていったのでしょうか。または、彼らは本当にイエス様がメシアであることを信じたからこそ、ついていったのでしょうか。
おそらく、そのような理由でイエス様は彼らに挑戦されたのです。
わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14:26-27)
要するに、「あなたは本当に私の弟子になりたいと思っていますか。その代価は高いです。家族を失うことになるかもしれませんし、自分の命さえ失うかもしれません。」ということです。
イエス様は弟子たちに楽な人生を約束されることは決してありませんでした。むしろ、その逆を約束されたのです。
十字架を負うことは決して楽なことではありませんでした。そして、人々が十字架を地面に置いた後、その十字架で苦しみ、ひどい死を経験しました。
けれども、十字架を負うことを拒み、つまりイエス様のために試練を受けることを拒むなら、イエス様は「弟子になることはできない」と言われました。
それは受け入れやすい言葉でしょうか。決してそうではありません。
それでもイエス様は私たちに挑戦されます。「私についていきたいと思うなら、まず費用を計算しなさい。」
イエス様はその決断を塔を築くことに例えられました。ある人が前もって費用を計算せずに塔を建て始め、完成できなかったなら、周囲の人々にあざ笑われるでしょう。
同じように、もしあなたがイエス様についていき始めても、試練のせいで諦めてしまったら、あなたは恥をかくことになります。
とはいえ、もう一つ費用を計算しなければなりません。それは、イエス様についていかない場合の代価です。
また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。(31-32)
あなたには神様との平和があるでしょうか。それとも、神様と戦っているのでしょうか。
あなたは神様と戦っていないと思うかもしれません。しかし、もしイエス様をあなたの主として拒絶しているなら、実際には神様に反抗しているのです。
少し考えてみてください。聖書によれば、神様は私たちと和解をもたらすためにイエス様をこの世に送りました。それでは、なぜ私たちには神様との和解が必要なのでしょうか。それは、私たちが神様と戦っているからです。
だからこそ、イエス様は私たちに警告されました。「あなたが神様と戦っているなら、その代価を計算しなさい。たとえば、ある王がほかの王と戦おうとするなら、まず勝利できる可能性を考えます。もし勝利できないと思えば、平和を求めるでしょう。」
私たちもそのようにすべきです。実際には、神様はすでに私たちに手を差し伸べておられます。
けれども、神様との平和を望むなら、神様の条件を受け入れる必要があります。それは、イエス様の十字架の御業を信じ、イエス様を主として受け入れることです。
そうすることで、私たちは本当の命を知ることができます。しかし、もしイエス様を拒絶したまま亡くなるなら、神様との戦いがどれほど深刻なものであったかを知ることになります。
ですから、まだ時間がある間に神様との平和を求めましょう。
神様は私たちにこの世の塩となるよう呼びかけておられます。神様の光と愛を通じて、この世に影響を与えるよう求めておられるのです。役立たない塩にならないようにしましょう。
