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士師記のデボーション

大切なのは。。。

力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。(士師記6:12)

主よ、私が霊的な弱虫ではなく、あなたのための力ある勇士となるようにしてください。

大切なのは、私の力や素性ではありません。

大切なのは、あなたが私とともにおられることです。

そして、自分の愛している者たちを敵であるサタンから解放するために、私を霊的な戦いに遣わしておられるのです。

あなたの働きを成し遂げる資格が私にはありません。それはあなたから与えられるものです。(第二コリント3:5)

さらに、あなたの力は私の弱さのうちに完全に現れるのです。(第二コリント12:9-10)

だから、その大切なことを覚えていて、戦場に走るように導いてください。

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ルカの福音書のデボーション

資格がある?資格がない?

今日の箇所には、人々が自分自身をどのように見なしていたかについて、興味深いことが記されています。特に、自分がイエス様にお付き合いいただく資格があると思っていたかどうかが注目されます。

百人隊長について見ると、ユダヤ人たちは、彼にはイエス様の助けを受ける資格があると考えていました。なぜなら、彼は多くの良いことをしていたからです。

しかし、百人隊長自身はそうは思いませんでした。だからこそ、彼はイエス様にこう言いました。

あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。(ルカの福音書7:7)

その反面、シモンは、自分が資格を持っていると思っていました。もしかしたら、彼は、イエス様がシモンの家に入る資格がないと思っていたかもしれません。

さらに、シモンは、罪深い女性が偉い先生に付き合う資格はないと思っていました。

でも、実は、私たち皆は資格のない者です。なぜなら、私たち皆は返すことができない罪の借金を持っているからです。でも、私たちがへりくだって、イエス様のもとに来ると、イエス様は私たちに言います。「あなたの罪は赦されています。」

そして、恵みによって、イエス様は私たちを受け入れてくださいます。

だから、感謝に満ちている心をもって、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づきましょう。(へブル4:16)

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コリント人への手紙第二

私のような人でも、人々に影響を与えられるだろうか?

時々、私たちは前回の記事のような聖書の箇所を読んで、「私たちはキリストの香り」や「私たちは神様の祭司」といった言葉に出会います。

それを読むと、私たちはこう疑問に思うかもしれません。

「私はどのようにして神様の祭司になれるのだろうか。どうすればキリストの香りを放つことができるのだろうか。私は特別な資格を持っていないし、神学校に通ったこともない。牧師でも宣教師でもない。ただの普通のクリスチャンなのに。」

実際のところ、キリストのために人々に影響を与える資格を持っている人は誰もいません。

たとえ神学校で学び、ミニストリーの豊富な経験を持っていたとしても、その教育や経験が人の心を変える力を与えるわけではありません。

人の心を変えることができるのは、ただ神様だけです。パウロ自身も、そのことを理解していました。

パウロは、私たちが周りの人々にとってキリストの香りであると語った後、こう問いかけました。

このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(コリント人への手紙第二2:2:16b)

その答えは明白です。その務めにふさわしい人は誰もいません。なぜなら、自分の知恵と力だけでは、人々の心を変えることはできないからです。私たちにできることは、ただパウロの模範に従うことだけです。

誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。(2:17b)

私たちにできることは、それしかありません。神様から与えられた大宣教命令を果たさなくてはなりません。誠実をもって周りの人々に語るべきです。なぜなら、私たちは神様の前で責任を問われるからです。

そして、私たちはその結果を神様の御手に委ねます。私たちが自分の役割を果たせば、神様もご自身の役割を果たされます。

だから、パウロはこう書きました。

私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。

何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。

神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。

文字は殺し、御霊は生かすからです。(4-6)

パウロは、はっきりと語ります。私たち自身には、人々に影響を与える資格はありません。むしろ、その資格は神様から与えられるものです。

私たちが神様に仕えるとき、神様は私たちに必要な資格を与えてくださいます。

だからこそ、私たちは確信を持つことができるのです。私たちは自分の賜物や能力に頼るのではなく、それらを与えてくださった神にこそ頼るのです。神様だけが、最も頑なな心を変えることができます。

この真理を心に留めましょう。私たちは人の心を変えることはできません。しかし、神様はそれをなされます。

そして、私たちが神様の命じられたことを忠実に行うならば、私たちは人々に影響を与えることができるのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

イエス様への道を指し示す

多くのクリスチャンは、家族や友達にイエス様について話すことを恐れることがあります。

一つ目の理由は、彼らが自分にはその資格がないと思っていることです。また、相手の質問に答えるために、聖書についてすべてを知っていなければならないと感じることもあります。

もちろん、その知識があれば役に立ちます。そして、私たちがクリスチャンとして成長するにつれて、イエス様に関する知識が増えるべきです。

とはいえ、私たちの責任は相手を説得することではなく、イエス様への道を指し示すことです。この箇所から、その真理を学ぶことができます。

その最初の例として、バプテスマのヨハネが挙げられます。

祭司たちやレビ人たちがヨハネのところに来た時、彼らはヨハネに資格を問いただしました。「あなたはキリストですか。あなたはエリヤですか。あなたは神様が約束された預言者ですか。」(申命記18:15)

ヨハネが「違います」と答えると、彼らはさらに尋ねました。「では、あなたは誰ですか。」

その時、ヨハネはどのように感じたでしょうか。宗教的なリーダーたちが彼を尋問している時、ヨハネは少し緊張したのでしょうか。

その以前に、ヨハネはパリサイ人やサドカイ人を厳しく責めたので、緊張しなかった可能性もあります。それでも、こうした「資格のある人々」に尋問されるのは大変なことだと思ったかもしれません。

これは私の想像にすぎませんが、その瞬間ヨハネは、砂漠から戻ってきたばかりのイエス様を見たのではないでしょうか。なぜなら、ヨハネがこう答えたからです。

私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。

その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。(ヨハネの福音書1:26-27)

要するに、「私の資格は別に重要ではありません。私の後から来られる方は、私よりもはるかに偉大な方です。実は、彼は今ここにおられます。私はその方のしもべになる資格すらありません。」

時々、人々は私たちの資格を疑うかもしれませんが、私たちが自分自身に注意を向けさせる必要はありません。私たちが述べ伝えているのはイエス様であり、私たち自身の偉大さではありません。

だから、人々があなたの資格を疑ったとしても、彼らの心を自分に向けさせるのではなく、イエス様に向けるようにしましょう。

その翌日、ヨハネはもう一度人々にイエス様を指し示しました。そのため、ヨハネの弟子たちのうち二人がイエス様について行きました。

私たちは自分の弟子を作るのではなく、イエス様の弟子を作ることを心に留めておきましょう。そのため、私たちは彼らが私たちに頼ることを教えるのではなく、イエス様に頼ることを教えています。

ヨハネもそのようにしました。だから、彼の弟子たちがイエス様についていった時、おそらくヨハネは喜んだことでしょう。

その弟子たちはすぐにヨハネを見習いました。つまり、彼らはペテロをイエス様に紹介しました。(ペテロは、イエス様について行く弟子アンデレの兄であり、アンデレはもともとヨハネの弟子でした。)

さらに、イエス様は彼らの友人であるピリポを招かれました。そして、ピリポは彼の友人ナタナエルをイエス様に紹介しました。

けれども、ナタナエルはイエス様のことを聞いた時、ピリポの話を疑いました。

ナザレから何の良いものが出るだろう。(46)

イエス様の出身地であるナザレは、良い評判がない町でした。特に、預言者や偉大な霊的リーダーがナザレから出ることはほとんどありませんでした。

しかし、ピリポはナタナエルと議論することはしませんでした。むしろ、彼はこう答えました。

来て、そして、見なさい。(46b)

ピリポはナタナエルをイエス様のところに連れて行きましたが、ナタナエルを説得したのはイエス様でした。

もちろん、私たちはできる限り人々の質問に答える努力をすべきです。けれども、質問に答えたからといって、彼らが必ずしもクリスチャンになるわけではありません。

議論によって人々を天国に導くことはできません。人々の心を変えることができるのはイエス様だけです。

だからこそ、彼らの質問に答えた後は、ピリポのように「来て、そして、見なさい。」と言うべきです。

どうでしょうか。あなたは周りの人々をイエス様に指し示していますか。