多くのクリスチャンは、家族や友達にイエス様について話すことを恐れることがあります。
一つ目の理由は、彼らが自分にはその資格がないと思っていることです。また、相手の質問に答えるために、聖書についてすべてを知っていなければならないと感じることもあります。
もちろん、その知識があれば役に立ちます。そして、私たちがクリスチャンとして成長するにつれて、イエス様に関する知識が増えるべきです。
とはいえ、私たちの責任は相手を説得することではなく、イエス様への道を指し示すことです。この箇所から、その真理を学ぶことができます。
その最初の例として、バプテスマのヨハネが挙げられます。
祭司たちやレビ人たちがヨハネのところに来た時、彼らはヨハネに資格を問いただしました。「あなたはキリストですか。あなたはエリヤですか。あなたは神様が約束された預言者ですか。」(申命記18:15)
ヨハネが「違います」と答えると、彼らはさらに尋ねました。「では、あなたは誰ですか。」
その時、ヨハネはどのように感じたでしょうか。宗教的なリーダーたちが彼を尋問している時、ヨハネは少し緊張したのでしょうか。
その以前に、ヨハネはパリサイ人やサドカイ人を厳しく責めたので、緊張しなかった可能性もあります。それでも、こうした「資格のある人々」に尋問されるのは大変なことだと思ったかもしれません。
これは私の想像にすぎませんが、その瞬間ヨハネは、砂漠から戻ってきたばかりのイエス様を見たのではないでしょうか。なぜなら、ヨハネがこう答えたからです。
私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。
その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。(ヨハネの福音書1:26-27)
要するに、「私の資格は別に重要ではありません。私の後から来られる方は、私よりもはるかに偉大な方です。実は、彼は今ここにおられます。私はその方のしもべになる資格すらありません。」
時々、人々は私たちの資格を疑うかもしれませんが、私たちが自分自身に注意を向けさせる必要はありません。私たちが述べ伝えているのはイエス様であり、私たち自身の偉大さではありません。
だから、人々があなたの資格を疑ったとしても、彼らの心を自分に向けさせるのではなく、イエス様に向けるようにしましょう。
その翌日、ヨハネはもう一度人々にイエス様を指し示しました。そのため、ヨハネの弟子たちのうち二人がイエス様について行きました。
私たちは自分の弟子を作るのではなく、イエス様の弟子を作ることを心に留めておきましょう。そのため、私たちは彼らが私たちに頼ることを教えるのではなく、イエス様に頼ることを教えています。
ヨハネもそのようにしました。だから、彼の弟子たちがイエス様についていった時、おそらくヨハネは喜んだことでしょう。
その弟子たちはすぐにヨハネを見習いました。つまり、彼らはペテロをイエス様に紹介しました。(ペテロは、イエス様について行く弟子アンデレの兄であり、アンデレはもともとヨハネの弟子でした。)
さらに、イエス様は彼らの友人であるピリポを招かれました。そして、ピリポは彼の友人ナタナエルをイエス様に紹介しました。
けれども、ナタナエルはイエス様のことを聞いた時、ピリポの話を疑いました。
ナザレから何の良いものが出るだろう。(46)
イエス様の出身地であるナザレは、良い評判がない町でした。特に、預言者や偉大な霊的リーダーがナザレから出ることはほとんどありませんでした。
しかし、ピリポはナタナエルと議論することはしませんでした。むしろ、彼はこう答えました。
来て、そして、見なさい。(46b)
ピリポはナタナエルをイエス様のところに連れて行きましたが、ナタナエルを説得したのはイエス様でした。
もちろん、私たちはできる限り人々の質問に答える努力をすべきです。けれども、質問に答えたからといって、彼らが必ずしもクリスチャンになるわけではありません。
議論によって人々を天国に導くことはできません。人々の心を変えることができるのはイエス様だけです。
だからこそ、彼らの質問に答えた後は、ピリポのように「来て、そして、見なさい。」と言うべきです。
どうでしょうか。あなたは周りの人々をイエス様に指し示していますか。