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詩篇のデボーション

主をほめたたえよう!

先週末、かつて私が通っていたハワイの教会は、「懐かしい賛美ナイト」を開催しました。彼らは、25〜30年前の賛美の歌ばかりを歌いました。

それだけではなく、その当時の賛美のリーダーたちも、私の友達も戻って来ました。彼らの多くは、神様の導きによって何年も前に別の教会に通い始めましたが、そのイベントのために戻って来ました。

私も行きたかったのですが、残念ながら日本にいるので、参加できませんでした。私は、写真や録画を見ることしかできませんでした。

でも、それを見て、私が初めてイエス様を愛するようになった日のことを思い起こしました。

興味深いことに、彼らが歌った歌の一つは、この詩篇から来たものでした。そして、この詩篇は、そのイベントの意味をよく表しています。それは、「賛美」です。

「ほめたたえる」という言葉は、13回も出てきます。(「ハレルヤ」とは、「主をほめたたえる」という意味です。)

この世界は、さまざまなトラブルに満ちています。そして、私たちはそのトラブルに思い悩むのは、簡単なことです。

でも、もしかしたら、私たちがそのトラブルから目を離して、イエス様に向かうべき時なのかもしれません。

そして、イエス様に向かう良い方法の一つは、イエス様を賛美することです。

イエス様の大能のみわざのゆえに、また、その比類なき偉大さのゆえに、賛美しましょう。

特に、このイースターの季節に、私たちの贖いを買い取ってくださったイエス様の死と復活のゆえに、賛美しましょう。

歌や、フルートや、ギターで賛美しましょう。

そうすれば、私たちの周りのトラブルは、イエス様の光によって、取るに足りない影のように見えるようになります。

だから、どんなトラブルに遭遇していても、そのものから目を離し、イエス様に向かいましょう。そして、イエス様をほめたたえましょう。

ほめたたえましょう!

ほめたたえましょう!

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詩篇のデボーション

喜ぶように命じられた

私にとって、詩篇81篇4〜5節は興味深い箇所です。1〜3節でアサフは、「神様に喜び歌え」、「喜び叫べ」、「ほめ歌を歌え」と語っています。

そして、4〜5節でアサフはその理由を示します。神様への賛美は、神様からのおきて、定め、さとしなのです。

神様はイスラエル人をエジプトから救い出されたとき、神様にあって喜ぶように命じられました。

では、なぜ神様はそのように命じられたのでしょうか。それは、イスラエル人が、神様がどのように彼らを救ってくださったかを思い出すためです。

神様は彼らの重荷を除き、奴隷の生活から自由にし、荒野を通って約束の地へと導かれました。

神様は私たちにも喜ぶように命じておられます。なぜなら、神様は私たちの罪の重荷を除き、サタンの国における奴隷の生活から自由にしてくださったからです。

また、神様が私たちと共におられ、私たちを神の永遠の御国に導いてくださっていることを、私たちは喜ぶのです。

それを覚えていることが、なぜ大切なのでしょうか。それは、私たちが神様を信頼し、喜んで従うようになるためです。そして、私たちは神の御言葉に口を大きく開けるようになります。(10節、また、エレミヤ書15:16、エゼキエル書3:1〜3)

私たちはそれをするにつれて、神様の祝福を受けます。(16)

もし、神様が私たちを愛し、祝福したいと願っておられることを覚えていたら、今よりもどれほど私たちは神様を信頼し、従うでしょうか。

もし、神様の救いの御業を思い起こして喜ぶなら、今よりもどれほど私たちは神様の慈しみを覚えているでしょうか。

そういうわけで、聖餐式はとても大切なのです。聖餐式を行うとき、私たちは神様の救いの御業を思い起こし、喜びます。

このコロナのシーズン、多くの教会が聖餐式を行えない状況ですが、私はもう一度、聖餐式によって神様の民と共に、神様の救いの御業を思い起こして喜ぶことを楽しみにしています。

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詩篇

息のあるものはみな。。。

いよいよ最後の詩篇に入りましょう。詩篇150篇は、まことにふさわしい言葉で締めくくられています。

息のあるものはみな、主をほめたたえよ。(詩篇150:6)

どこで、私たちは神様をほめたたえるべきでしょうか。神様の天の聖所と、この地の聖所で賛美するべきです。

神様の聖所は教会の建物だけではないことを覚えておくべきだと思います。むしろ、クリスチャンとして、私たちは神様の聖所です。

神様が私たちの中に住んでおられるので、私たちは神様の聖所なのです。だから、私たちの人生は神様に対する賛美になるべきです。

どうして、私たちは神様をほめたたえるべきなのでしょうか。

一つ目の理由は、神様は偉大な方で、私たちの賛美に相応しい方であることです。

それに、神様は私たちの近くにおられ、私たちを愛しています。だから、神様はイエス様を私たちの罪のために死なせるために送ってくださいました。そして、自分の力によって、神様はイエス様をよみがえらせました。

それに、神様の御業はまだ続いています。今でも、神様は自分自身を表し、人々を救っています。

どのように神様をほめたたえるべきでしょうか。

大喜びをもって、ほめたたえましょう。トランペットや、弦の琴や立琴や、タンバリンや、フルートを演奏して、ほめたたえましょう。私たちの踊りでも、主をほめたたえましょう。

私はダビデのことについて考えます。彼が本当に張り切って、踊ったり歌ったりしたので、彼の奥さんは彼を責めました。

「あなたはバカのように踊った。全然王のようにふるまわなかった。」と言いました。

しかし、ダビデはこう返事しました。

私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見え【る】。(第二サムエル記6:21-22)

それが私たちの態度となるように。私たちはいつも神様を賛美し、賛美にふさわしい神様に向かって「ハレルヤ」と叫びましょう。

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詩篇

歌うとき、戦うとき

多くの人々にとって、詩篇149篇は気持ち悪く感じられる部分があるでしょう。特に6節以降は少し読みにくいでしょう。

この詩篇の前半では、詩人は人々に神様を賛美するように招きます。なぜなら、神様は私たちの創造主であり、私たちの神だからです。詩人は、楽器で神様を賛美し、また踊りをもって賛美しようと呼びかけます。

私は全然踊れませんが、人々が神様を踊りを通して賛美する様子を見ると、感動し、祝福されます。

また、神様を賛美するために人々が楽器を演奏するとき、私は神様に近づくことができます。私の教会では、プロのヴァイオリニストがよく演奏しており、その賛美の雰囲気は本当に素晴らしいです。

私自身、賛美の時間を楽しみますが、神様はもっと喜んでおられます。たとえ音痴でも、楽器が演奏できなくても、踊れなくても、あなたが賛美するときに、神様は喜ばれます。詩人はこう言います。

主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇149:4)

神様は私たちの才能よりも、私たちの心を喜ばれます。私たちが神様を愛し、賛美するとき、神様は喜ばれます。

また、私たちがへりくだって、神様に信頼するとき、神様は私たちを救いで飾ってくださいます。だから私たちは喜ぶべきです。私たちは神様から何も値しないのに、神様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。

けれども、この詩篇の後半は、少し気持ち悪く感じるかもしれません。なぜなら、詩人は私たちに神様を賛美するように招き、その後、神様のために戦うように招くからです。つまり、神様に反抗する人々と戦い、神様の裁きを行うことです。

イスラエル人がカナンに着いたとき、そうしなければなりませんでした。

神様はカナン人が悔い改めるために何百年も待っておられましたが、彼らはさらに悪化しました。だから、彼らの罪が満ちたとき(創世記15:16)、神様はイスラエル人を裁きを行うために遣わされました。

もちろん、私たちはそのイスラエル人ではありませんが、この詩篇は私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。

私たちは霊的な戦争に入っていることを覚えておかなければなりません。しかし、私たちの敵は人間ではありません。むしろ、霊的な力が人々を用いています。

だから、私たちは人々と戦わずに、その背後にある霊的な力と戦っています。

そして、私たちの武器は刀ではなく、神様のみ言葉です。そのみ言葉は、

生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(へブル4:12)

だから私たちは人々と戦わないのです。むしろ、彼らが救われるために私たちは戦います。

私たちのメッセージは裁きのメッセージであり、救いのメッセージです。

信じる人々に対し、私たちはイエス様の名前によって、神様の赦しを宣言する権利があります。

しかし、神様の言葉を拒絶する人々に対しては、私たちは裁きのメッセージを伝える権利があります。(ヨハネ20:23)

だから忘れないでください。もちろん、私たちは神様を賛美するように招かれました。けれども、私たちは戦うようにも招かれています。罪に迷った人々のために戦わなければなりません。

だから、戦いに走りましょう。

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詩篇

礼拝の招き

ワーシップ・リーダーのトミー・ウォーカーは、「All the Saints Join In

(すべての聖徒たちは参加しよう)という歌を歌っています。この歌は、詩篇148篇に基づいています。

詩篇148篇では、詩人がすべての被造物に神様を賛美するように呼びかけています。天使、太陽、月、鳥、地上の被造物、海の生き物、王たち、若者、年老いた人々までもが、神様を礼拝するように招かれているのです。

なぜでしょうか。

主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。(13)

つまり、神様はすべての栄光にふさわしい方です。もし神様の被造物に栄光があるのなら、神様にはどれほどの栄光があるでしょうか。だからこそ、神様は私たちの賛美にふさわしい方なのです。

しかも、

主は、その民の角を上げられた。主のすべての聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。(14)

聖書において、角は力の象徴です。ですから、私たちが打ち倒される時にも、神様は私たちのそばにいて、私たちを強め、救い出してくださいます。

ダビデ自身もそのような経験をしました。また、イスラエルの民がバビロンに追放された時にも、彼らは神様の救いを経験しました。

現代においても、神様はイスラエルの民に再び国を与えてくださいました。

最も良い例は、私たちが罪のゆえに地獄に値する者であった時、神様が私たちを愛し、救うためにイエス様を送ってくださったことです。イエス様は、私たちの救いの角なのです。(ルカ1:69)

イエス様はこの世におられた時、神様を現し、十字架の上で私たちの罪のための罰を受けてくださいました。ですから、イエス様の御業によって、私たちは赦され、新しい命をいただいたのです。

神様はまことに、私たちの賛美にふさわしい方です。ですから、すべての被造物と共に、神様を賛美しましょう。

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詩篇

神の神

134篇のように、この詩篇は私たちを神様を礼拝するように招きます。また、詩篇135篇は115篇に似ているところもあります。

この詩篇のテーマは、神様が偉大な方で、ほかの(偽の)神々が神様と比べられないということです。

5節で詩人はこう歌います。

まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。 (詩篇135:5)

そして、彼は神様がどのようにほかの神々よりも勝っているかを説明します。

つまり、神様は全能の主で、すべての被造物を支配しておられます。また、イスラエル人たちを救うために、神様はエジプトとその神々を倒し、さらに二人の王たちを倒してくださいました。

そして、詩人は神様を周りの国々の偶像と比べます。

神様はすべての被造物を造られましたが、偶像は人間の作品です。

偶像は目がありますが見ることができませんし、耳がありますが聞こえませんし、口がありますが息できませんし話せません。だから、詩人はその自分の手で作ったものを礼拝する人々をからかいます。

これを造る者もこれに信頼する者もみな、これと同じです。 (18)

そして、詩人はすべての人々をすべてを治める神様を礼拝するように招きます。

けれども、私が気に入ったところは4節です。

まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。 (4)

神様はヤコブとイスラエルを選び、ご自分のものとされ、またご自分の宝とされました。今でも、多くのイスラエル人たちがイエス様を拒絶しているけれど、神様は彼らを諦めていません。

パウロはイスラエルに関してこう言いました。

神の賜物と召命とは変わることがありません。 (ローマ11:29)

神様はイスラエルを捨てないが、神様はイエス様を信じる方々を見るとき、私たちに関しても、イスラエルに対する同じ言葉を言われます。

つまり、ペテロは私たちについてこう言いました。

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 (第一ペテロ2:9)

なぜ神様は私たちを選び、ご自分の民とされたのでしょうか。それは、私たちが周りの人々に神様の素晴らしいみわざを宣べ伝えるためです。

そうすれば、彼らも闇の中から出て、神様の驚くべき光に行くように招かれます。

だから、詩人は私たちにこう言います。

イスラエルの家よ。主をほめたたえよ。アロンの家よ。主をほめたたえよ。

レビの家よ。主をほめたたえよ。主を恐れる者よ。主をほめたたえよ。

ほむべきかな。主。シオンにて。エルサレムに住む方。ハレルヤ。(詩篇135:19ー21)

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詩篇

私たちの賛美と信頼にふさわしい方

この詩人の叫びは、私の心に響きます。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(詩篇115:1)

あなたは誰のために生きているでしょうか。何のために生きているでしょうか。お金を儲けるためでしょうか。栄光を得るためでしょうか。

もしくは、全ての栄光に値する方のために生きているでしょうか。神様の恵みとまことのために、主にあなたの人生を捧げるでしょうか。

この詩篇では、詩人は私たちが神様に信頼し、神様を賛美するように励まします。どうしてでしょうか。どうして、神様は私たちの信頼と賛美にふさわしいのでしょうか。

一つの理由は、神様は全能の主です。

詩人はこう言います。

私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。(3)

そのことを聞くと、恐れる人がいます。彼らは「神様が自分が望むことをことごとく行われるなら、神様は私をどのように取り扱われるだろうか」と思います。

けれども、神様を知っている人は、神様に畏敬の念を抱きます。なぜなら、この全能の神は私たちを愛しておられるからです。それに、私たちがどんなに不実でも、神様はいつも私たちに忠実です。

それに、神様は、口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、手があっても触れず、足があっても歩けず、のどがあっても声をたてることもできない偶像ではありません。

そのような「神」は自分自身を支えられないし、私たちをも助けられません。

むしろ、神様は私たちを見る時、私たちの叫びを聞き、応えてくださいます。また、神様は私たちを助けてくださいます。

だから、詩人は言います。

主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。(11)

そうすれば、どうなるでしょうか。

主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。(12-13)

あなたはどのように生きているでしょうか。あなたは自分の人生をコントロールしようとしているでしょうか。あなたがすべてのことをコントロールできないので、思い悩んでいるでしょうか。

神様に信頼してください。神様は全能の主なので、あなたがコントロールできないことを神様は掌握できます。

だから、詩人はこう歌います。

しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。(18)

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詩篇

私たちの賛美と信頼に値する神

私にとって、この詩篇は興味深いものです。なぜなら、この詩篇は賛美と大喜びで始まりますが、深刻な警告で終わるからです。

詩人の言葉を読むと、その詩人の喜びが聞こえます。彼は歌います。

さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。(詩篇95:1-2)

どうして、私たちは神様を賛美するでしょうか。

1.神様は大いなる方ですから。(3)

2.神様は王の王だし、すべての神々にまさるから。(3)

3.神様は私たちの創造者ですから。(4-5)

4.それなのに、神様は私たちを本当に愛しておられます。(実は、多分「神様はそのような方だから私たちを本当に愛する」と言った方が良いです。)(7)

だから、詩人は私たちを招待します。

来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。(6)

けれども、最後に、彼は私たちに警告します。

主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、

メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。

わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。

それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。(7-11)

イスラエル人が砂漠を渡った時、水が見つけられなかった時が二回ありました。その時、彼らは神様を信頼せずに、文句を言いました。神様がそこまで彼らのニーズに備えられたのに、彼らは神様を信じませんでした。

その時だけではなく、何回も彼らは文句を言って、神様を信頼しませんでした。彼らは神様が彼らに与えると約束した土地に入ることを拒絶し、エジプトに帰りたがりました。(申命記13-14章)

だから、神様は彼らに言われました。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない。」

だから、詩人は私たちに警告します。「彼らのようにならないでください。あなたの心を堅くしないでください。神様の前にへりくだってください。なぜなら、神様は私たちの賛美と信頼に値する方ですから。」

あなたはどうですか。神様に信頼しますか。神様の道を行っているでしょうか。もしかしたら、自分の道を行っているでしょうか。

もし神様に信頼すると、あなたは神様からの喜びと安息と平和を知ります。しかし、自分自身に信頼すると、それらを失います。

あなたは誰に信頼しているでしょうか。

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詩篇

勝利と祝福がどこから来るか思い出す

何かがうまく行かない時や思い通りにならない時、私たちはすぐに神様について考えます。

けれども、勝利の時、また、祝福の時はどうでしょうか。その時、私たちはすぐに神様をほめたたえるでしょうか。もしくは、私たちは誇って、自分の偉さについて考えるでしょうか。

ダビデにも、その罠で倒れる時もありました。(第二サムエル記11-12章;24章)

しかし、詩篇21篇で、ダビデは勝利と祝福がどこから来るかを思い出しました。だから、彼はこう歌いました。

主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。

あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを、退けられません。セラ

あなたは彼を迎えてすばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます。

彼はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました。

御救いによって彼の栄光は、大きい。あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。

あなたは、とこしえに彼を祝福し、御前の喜びで彼を楽しませてくださいます。(詩篇21:1-6)

それに、ダビデは、どうして神様が彼を祝福してくださったか思い出しました。

まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。(7)

勝利の時、あなたの考えはどこに向くでしょうか。

自分の力と知恵について自慢するでしょうか。もしくは、神様をその御業のために賛美するでしょうか。

あなたは、おもに自分の力と能力に頼るでしょうか。もしくは、おもに神様とその力に頼るでしょうか。