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コリント人への手紙第一

私たちの賜物を正しく理解する?

この箇所を解釈するのは、非常に難しいです。私はさまざまな解釈を聞いてきたので、この箇所の意味を理解しているつもりですが、それが正しいのかどうかは分かりません。もしかすると、将来的に私の考えは変わるかもしれません。

前回の記事で述べたように、パウロは異言と預言の違いを説明し、教会においてなぜ預言がより重要なのかを教えています。

パウロはまず、こう語りました。

兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。(コリント人への手紙第一14:20)

コリントの人々はどのように幼子のように振る舞っていたのでしょうか。

彼らにとって、霊的な賜物、特に異言はまるで新しいおもちゃのようでした。彼らはその賜物を用いましたが、周囲の人々への影響をほとんど考えていませんでした。むしろ、彼らはただ賜物を使うことを楽しんでいたのです。

もしかすると、彼らはそれによる霊的な益を感じていたかもしれません(4)。

あるいは、ノンクリスチャンの前で自分の賜物を披露したいと考えていたのかもしれません。

そのため、パウロは彼らにこう言いました。

「悪事においては幼子でありなさい。けれども、霊的な賜物やその他の霊的なことについては、大人のように考えなさい。

自分のことだけを考えるのではなく、周囲のノンクリスチャンのことを考え、特に、あなたの行動がどのように彼らに影響を与えるかをよく考えなさい。」

コリントの人々はどのように考えていたでしょうか。もしかすると、彼らはノンクリスチャンに良い影響を与えていると思っていたかもしれません。なぜなら、何年も前、ペンテコステの時に異言を通して、多くのノンクリスチャンが信仰に導かれたからです。

けれども、コリントの人々は大切なことを忘れてしまいました。ペンテコステの日、エルサレムに集まった外国人たちは異言を理解しました。それは、使徒たちや他のクリスチャンが彼らの言葉で神の栄光を賛美したからです。

その一方、コリントの礼拝では、参加したノンクリスチャンたちは異言をまったく理解できませんでした。そのため、彼らは感動するどころか、むしろコリントのクリスチャンたちを奇妙に思ったのです。

そこで、パウロは彼らにこう言いました。「あなたがたは礼拝の際に異言で話し、ノンクリスチャンを感動させようとしているかもしれません。けれども、聖書の言葉をよく考えなさい。」

つまり、

「わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない」と主は言われる。(コリント人への手紙第一14:21)

この言葉は、イザヤ書 28:11ー12 から来ています。

その文脈では、イスラエルの人々は神の言葉を意味のないものとして扱いました。そこで、神は彼らにこう言われました。

「あなたが私の言葉をちんぷんかんぷんだと思うのなら、では、本当の意味の分からない言葉を示そう。あなたがたが他国へ追放されれば、その国の言葉はあなたにとって全く理解できないものとなる。それでもあなたがたは悔い改めないだろう。」

パウロはこの神の言葉を異言に当てはめています。

「分からないのですか。訳されていない異言はノンクリスチャンにとっては、確かにしるしです(22)。

ところが、そのしるしは彼らの悔い改めのためではなく、むしろ裁きのためのものです。彼らが理解できる言葉を拒絶した結果、神の言葉はすべて彼らにとって意味の分からないものとなり、彼らの心はさらに頑なになるのです。」

そこで、パウロは彼らにこう言いました。

ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。(23)

ペンテコステの日にも、異言を理解できなかったユダヤ人たちはそのように言いました。(使徒の働き2:13)

対照的に、預言は信じる者となる人々へのしるしです。(コリント人へ手紙第一14:22)

しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、心の秘密があらわにされます。

こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。(24-25)

認めなければならないことがあります。22節で、パウロは「信じるようになる人」とは言わず、「信じている人」と述べています。

しかし、24-25節を見ると、パウロは将来信じるようになる人について語っているようです。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コリントの人々は霊的な賜物とその目的を正しく理解できていませんでした。そこで、パウロは彼らに警告しました。

「あなたの賜物の使い方は、あなたの望む結果をもたらすのではなく、むしろ逆効果をもたらすでしょう。」

あなたはどうでしょうか。あなたは自分の賜物を正しく理解していますか。その賜物が誰のためであり、何のためであるかを覚えていますか。

その賜物を誤った方法で用いるなら、あなたはその結果に驚くことになるでしょう。

だから、心に留めておきましょう。賜物は主に私たち自身の益のためではありません。むしろ、それは神様の目的と栄光のためのものです。あなたはどのように自分の賜物を用いていますか。

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コリント人への手紙第一

忠実であると認められること

使徒ヤコブは次のように記しました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

私は聖書を教える立場にあるため、それは私にとって少し恐れを感じる言葉です。神様は私にみ言葉を与え、そのみ言葉を教える賜物を委ねてくださいました。だから、パウロの言葉は私の心に深く響きます。

その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。(コリント人への手紙第一4:2)

しかし、私たちすべてが神様から託されたものを持っています。神様は私たちに多くの資源や賜物、才能を委ねてくださいました。そして、神様はそれらを忠実に用いることを私たちに期待されます。

もし私たちがそうしなければ、神様の前で責任を問われることになります。

神様は私たちの裁き主であるため、私たちは他の人以上に神様を喜ばせようとしなければなりません。最終的には、牧師や教会の人々、周囲の誰かではなく、ただ神様だけを喜ばせることが求められるのです。

だからこそ、私たちは常に自分の心を探るべきです。私たちの動機は何でしょうか。私たちは正しい動機を持って神様に仕えているでしょうか。

私自身も、自分の動機について疑問を抱くことがあります。裁きの日にキリストが私に何を語るかを思うと、少し恐れを感じます。イエス様は何を言われるでしょうか。

パウロにはやましいことは何ひとつありませんでしたが、それでも彼は自分の動機について慎重に考えていました。彼は次のように語りました。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。

主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(3-5)

おそらく、パウロの要点の一つは、私たちが自分の心をプライドから守る必要があるということです。自分の動機は正しいと思うかもしれませんが、その自己評価が正しいとは限りません。

預言者エレミヤは次のように記しました。

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(エレミヤ書17:9)

主は次のように応答されました。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:10)

だから、どのようなことをするにしても、自分の心を探りましょう。また、主があなたの心を探ってくださるように祈りましょう。さらに、主が私たちの動機を明らかにしてくださるように祈りましょう。

そうすれば、私たちは謙遜な態度を保ち、神様から託されたものを忠実に用いることができるのです。

あなたはどうでしょうか。神様から託されたものを忠実に用いていますか。

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ローマ人への手紙

この世の人々も祝福すべきではないでしょうか

もしかしたら、前回の記事を読んで異議を持った人がいたかもしれません。なぜなら、私はこのように述べたからです。

「私たちがクリスチャンの交わりを必要とする理由の一つは、互いに必要な存在だからです。キリストのからだの中で、私たちはそれぞれに役目を持っています。だからこそ、神様から与えられた賜物を用いて、互いに仕え合う必要があります。」

とはいえ、ある人はこう言うかもしれません。 「教会の人々を祝福するだけでなく、この世の人々も祝福すべきではないでしょうか。」

もちろん、その通りです。それでも、忘れないでください。私たちが受けた賜物の多くは、まず教会のために与えられています。

例えば、エペソ人への手紙で、パウロはこう語りました。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。(エペソ4:11)

イエス様はなぜそのようにされたのでしょうか。

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(エペソ4:12-13)

伝道者の役割について少し考えてみましょう。彼らの使命は、特に教会の外にいる人々に向けられているはずです。

しかし、パウロの言葉に注目してください。伝道者の働きの目的は、聖徒たち(つまりクリスチャン)を整え、奉仕の働きへと導くことにあります。

伝道者はもちろん福音を宣べ伝えますが、それだけでなく、他のクリスチャンが福音を伝えられるよう励ます役割も担っています。

他のクリスチャンは、伝道者がこの世に与える影響を見て勇気づけられ、自らの友人に福音を述べ伝えようと決意するでしょう。そのうえ、伝道者は彼らに福音を伝える方法を教えることもあるかもしれません。

そして、パウロが挙げた人々がそれぞれの使命を果たすと、キリストのからだは建て上げられていきます。

もしかすると、あなたはこう思うかもしれません。 「でも、私は使徒や預言者、伝道者、牧師、教師ではありません。」

それは関係ありません。なぜなら、パウロはこう語りました。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(エペソ4:15-16)

私はもう一度、パウロの強調するポイントに目を向けます。

キリストのからだが完全に成長するまで、私たちはそれぞれの役割を果たし、互いに築き上げていくべきです。

だから、別の箇所でパウロはこう語りました。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ人への手紙6:10)

だから、私たちは賜物を用いて、この世の人々に仕えるべきです。とはいえ、同時に教会の兄弟姉妹にも仕えることが求められています。

イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13:34-35)

イエス様の言葉に目を向けてみましょう。

この世の人々は、どのようにして私たちがイエス様の弟子であることを知るのでしょうか。それは、私たちが互いに愛し合うことによってです。私たちが互いに愛し、仕え合うなら、人々はその姿を見て、キリストに惹かれるでしょう。

ところが、もし私たちが争ったり、自分勝手に振る舞ったり、プライドを持ったりするなら、彼らは問いかけます。 「クリスチャンは私たちとどう違うのか。結局、彼らは私たちと同じではないか。」

あなたはどうでしょうか。神様の民を愛しているでしょうか。それとも、避けているでしょうか。神様の民に仕えているでしょうか。もしかすると、あなたが受けた賜物を無駄にしているのではないでしょうか。

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ローマ人への手紙

救い:賜物?当然支払われるべきもの?(2)

多くの人々にとって、救いが本当に賜物というコンセプトを受け入れるのは難しいので、もうちょっとそのことについて話したいと思います。

イエス様の時代でも、多くの人々はそのコンセプトが把握することができませんでした。

福音書では、私たちはある若い金持ちについて読みます。彼はイエス様にこう訊きました。

先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。(マタイ19:16)

その人の質問を見ると、私たちはその人の仮定を見ます。それは、救いが神様の義務です。つまり、私たちがこれとこれとこれをするなら、神様は私たちに永遠の命を与えなくてはいけないことです。

最初は、イエス様はその人の仮定に反ばくせずに、「神様の戒めに従いなさい。」と答えました。

その人は答えました。「私はそれらすべてを守ってきました。」

だからイエス様は言いました。「本当ですか。では、あなたの服従を試してみましょう。あなたの財産を売り払って、貧しい者たちに与えなさい。そして私に従って来なさい。」

もし、その人が本当に心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神を愛していて、また、隣人を彼自身のように愛していたら、(その二つの戒めは律法の土台でした)、彼はすぐにイエス様の戒めに従ったでしょう。

でも、彼は自分のお金に執着しすぎました。彼は神様や隣人よりも、自分のお金に執着しました。

だから、神様の律法はその人を正当化せずに、裁いてしまいました。だから、神様の義務は、ただその人を裁くことです。

嘆かわしいことだけど、その人はイエス様が教えようとすることの半分だけが分かるようになりました。つまり、彼が救いを自分の努力で得ることができなかったことです。

彼は、「私はそれができません。私は神様の戒めに完全に従うことができると思ったけど、それは無理です。どうしたらいいでしょうか。」と言えば、よかったのに。

そう言っていたら、イエス様は微笑んで、こう答えたでしょう。

それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。(マタイ19:26)

でも、イエス様の助けを求めずに、その人は悲しく立ち去ってしまいました。

別の時、イエス様はたとえ話を通して、同じことを教えました。

そのたとえ話では、あるパリサイ人は自分の義を誇りました。彼は神様に基本的にこう言いました。「私は本当にいい人です。だから、あなたは私に永遠の命を与えなくてはなりません。」

でも、ある取税人(その時代、取税人はとても堕落していた人で、イスラエル人に嫌われる職業でした)は神様にこう祈りました。

神様、罪人のわたしをあわれんでください。(ルカ18:13)

イエス様はこう尋ねられました。

「神様の前で義と認められたのは誰でしょうか。パリサイ人ではありません。彼が自分の義を誇っても、神様の義と比べると、その義は不完全なものです。だから彼は裁かれるのです。それは彼自身の努力の『報』なのでした。」

その一方、収税人は神様の前で義と認められました。なぜでしょうか?彼はいろいろな良い行いをしたからですか?

いいえ、違います。彼は恵みによって赦されたのです。彼が神様の憐れみを願い求めたため、神様は賜物として彼に永遠の命を与えてくださいました。

最後に、十字架の出来事について考えてみてください。イエス様の隣で十字架につけられた罪人も、死刑に処されました。

彼は救いに値しませんでした。むしろ、自分の行いのゆえに、彼は死に値しました。けれども、彼がイエス様を信じると、イエス様は彼にこう言われました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)

その罪人は救いのために働いたのではなく、むしろ賜物として救いを受けました。

福音書の中で、私たちはこのテーマを何度も目にします。

私たちの努力によって得るものは何でしょうか。それは裁きです。しかし、救いは賜物です。その真理は決して変わることはありません。

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使徒の働き

私たちが行かないと

使徒の働きの三つの話では、神様が人を救うことを選ばれること、その人自身の選択、そして私たちが神様の証人として福音を伝える責任が、互いに働き合う様子を見ます。

多くの人々は、神様の選びと人間の選択がどのように関係しているのか疑問に思います。つまり、もし人々が神様の選びによってのみ救われるのであれば、神様が選ばれなかった人が裁かれるのはなぜでしょうか。

また、もし神様がすでにある人を選ばれているのなら、なぜ私たちはその人に福音を伝える必要があるのでしょうか。

私はすべての疑問に答えることはできません。しかし、この三つのことが真実であることは確かです。

この話の登場人物のひとりに、エチオピアの高官がいました。彼はイスラエルの神について聞き及び、神様を礼拝するためにエルサレムを訪れていました。

注意すべき点があります。ルカによれば、その人物は神様を信じて礼拝していました。けれども、神様は「彼はイエスのことを知らないが、それでも問題ない。私のことを知り、一生懸命に礼拝しているのだから、それで十分だ」とは言われませんでした。

むしろ、神様はピリポに天使を遣わされました。その天使はピリポに行くべき場所を示しました。そして、ピリポがそのエチオピア人を見たとき、聖霊様は「彼のもとへ行きなさい」と命じられました。

すると、ピリポはそのエチオピア人がイザヤ書53章を読んでいるのを耳にしました。特に、彼はイエス様についての預言を読んでいました。そこで、ピリポは彼に尋ねました。

「あなたは、読んでいることを理解していますか。」(使徒の働き8:30)

そのエチオピア人の答えは、私の心を深く打ちました。

導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか。(使徒の働き8:31)

それを読んだとき、私はパウロの言葉を思い起こしました。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。

聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。

宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(ローマ書10:14)

その答えはどうでしょうか?人々は聞くことも、信じることも、呼び求めることもできないのです。もちろん、そのエチオピア人にもできませんでした。そこで、彼はピリポを馬車に招きました。そして、旅の途中でピリポは福音を説明しました。

福音を聞いたそのエチオピア人は、イエス様を信じて洗礼を受けました。そして、彼は福音のメッセージをエチオピアへ持ち帰りました。

実際、現代のエチオピアのクリスチャンたちの起源は、このひとりのエチオピアの高官にまで遡ります。

ここで、三つの重要なポイントがあります。

1.救われるためには、人々は福音を聞き、信じる必要があります。もし神様を畏れる人が福音を聞く必要がないのであれば、神様はわざわざピリポをそのエチオピア人に遣わさなかったでしょう。

パウロも、この問いを投げかけました。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(ローマ10:15)

答えは前と同じです。彼らは宣べ伝えることができません。しかし、神様がピリポを遣わされたように、神様は私たちをも周りの人々のもとへ遣わしてくださいます。

2.神様は確かにそのエチオピア人を救うことを選ばれました。

ピリポが来るまで、彼は福音を聞く機会がなかったため、滅びの道を歩んでいました。けれども、神様は働かれ、福音を聞く機会を与えてくださいました。

もし神様がそうされなかったなら、彼は滅びていたでしょう。

3.その人は福音を信じることを選ばなくてはなりませんでした。彼が信じたからこそ、救われたのです。

では、この三つのことはどのようにともに働くのでしょうか。どのようにしてこの三つのことのバランスを取るのでしょうか。私には分かりません。しかし、神様はすべてをよくご存じです。だから私は、それを神様に委ねます。

では、私の要点は何でしょうか。

行きなさい。

そのエチオピア人と同じように、多くの人々は滅びの道を歩んでいます。そのエチオピア人と同じように、多くの人々はイエス様について聞く必要があります。そして、神様がピリポを遣わされたように、神様は私たちも遣わされます。

だから、イエス様の言葉を心に留めましょう。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)

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使徒の働き

賜物

多くの人々がキリスト教について理解していないことのひとつは、私たちが持っているすべてのものが神様からの賜物であるということです。私たちの持ち物だけでなく、命さえも神様からの賜物です。

しかし、私たちにとって最も素晴らしい賜物は、救いです。神様は私たちを罪の刑罰とその力から救い、聖霊様を通して私たちのうちに住んでおられます。

私たちがこの受けた恵みを実感すると、人生は完全に変わります。どんな状況に置かれていても、神様の愛を知り、自分がどれほど祝福されているかを理解することができます。

残念なことに、今日の話に登場するシモンという人物は、その教訓を決して学びませんでした。

ピリポが来る前、シモンは権力と名声を持っていました。彼は奇跡のような業を行っていましたが、その力は神様からのものではありませんでした。それでも、彼はその力を持っていたために、自分を偉大な人物だと誇り、サマリアの人々も彼をそう信じていました。

ところが、ある日ピリポがやって来ました。彼は一般の人でしたが、聖霊様に満たされていました。そして、シモンの業と比べると、ピリポの奇跡のほうがはるかに偉大なものでした。

そのため、サマリアの人々はシモンから離れ、ピリポの言葉に耳を傾け、最終的に主を信じるようになりました。

シモン自身もイエス様を信じるようになりました。とはいえ、彼が本当にクリスチャンになったのかどうかは分かりません。もしかすると、彼は本当にクリスチャンになったのかもしれませんが、彼の態度と行動を見ると、そうとは言い切れません。

控えめに言っても、彼は恵みについてまったく理解していませんでした。つまり、私たちは神様の恵みを得るために何かをすることはできません。ただ感謝をもって、その恵みを受け取ることができるだけなのです。

そのため、シモンはペテロとヨハネが手を置くことで御霊が人々に与えられるのを見たとき、自分もその力を求め、ペテロとヨハネに対してその力を買いたいと申し出ました。

しかし、ペテロは彼にこう答えました。

おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい。おまえが金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ。おまえは、このことに何の関係もないし、あずかることもできない。おまえの心が神の前に正しくないからだ。

だから、この悪事を悔い改めて、主に祈れ。もしかしたら、心に抱いた思いが赦されるかもしれない。おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ。(使徒の働き8:20-23)

私たちが神様の恵みを正しく理解できなければ、どうなるでしょうか。

1.私たちは傲慢になります。神様から受けたものは自分にふさわしいと考え始めます。そして、他のクリスチャンが自分にないものを持っていると、私たちは羨ましく思い、苦々しい気持ちを抱くようになります。

シモンはまさにそのような人物でした。ピリポが来る前、彼は有名人でした。けれども、ピリポやペテロ、ヨハネと比べると、彼は決して特別な存在ではありませんでした。

彼は再び名声を得たいと願い、名声を失ったことで苦々しい思いを抱き、ペテロ、ヨハネ、ピリポを妬むようになりました。そこで彼は、神様の賜物を買おうとしました。それは神様の栄光のためではなく、自分の栄光のためでした。

一部のクリスチャンも、シモンと同じ問題を抱えています。その一方、別のクリスチャンたちは正反対の問題を抱えています。

2.私たちは、自分に価値がないと思ってしまいます。自分の罪が深すぎるために、神様でさえ私たちを救うことができないと考えてしまうのです。また、神様の賜物を受けるに値しないと感じてしまいます。

もしシモンが本当にクリスチャンだったなら、ペテロに叱責された後、正反対の問題に陥っていたかもしれません。

ペテロの厳しい叱責を受けたことで、彼は直接神様のもとへ行き、赦しを願うことができないと感じたかもしれません。そのため、彼はペテロに「私のために祈ってください」と頼みました。

しかし、へブル人への手紙の著者はこう言いました。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:15-16)

神様の恵みに値する人は、誰もいません。だから、神様から受けた賜物によって誇ることなく、周りの人の賜物を妬まないようにしましょう。

けれども、同時に、私たちは神様の賜物を受けるに値しないにもかかわらず、神様は喜んで良い賜物を自分の子どもたちに与えてくださることを覚えておきましょう。

これから、恵みの意味を深く学んでいきましょう。