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出エジプト記のデボーション

私たちを区別するもの

その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。

わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。(出エジプト記12:13)

イスラエル人とエジプト人は、何が違ったのでしょうか。どうして神様の裁きはエジプト人に下ったのに、イスラエル人には下らなかったのでしょうか。

イスラエル人がエジプト人より道徳的に優れていたというわけではありません。

そうではなく、彼らのために流されたやぎや子羊の血のゆえに、イスラエル人は救われました。

イスラエル人と同じように、私たちも神様の裁きを受けるべき存在でした。

私たちは他の人々より道徳的に優れているわけではありません。

私たちを区別するのは、私たちがどれだけ良い人であるか、どれだけ忠実であるかではなく、むしろ、私たちのために十字架で流されたイエス様の血です。

その血によって、私たちは神様の裁きから救われました。

もしかしたら、ダビデはイスラエル人たちがヒソプの束を使って、血を鴨居と二本の門柱に塗り付ける場面を思い浮かべて、この言葉を歌ったのかもしれません。

ヒソプで私の罪を除いてください。
そうすれば私はきよくなります。

私を洗ってください。
そうすれば 私は雪よりも白くなります。(詩篇51:7)

神様はイスラエル人たちに、神様がその日に彼らのためにしてくださったことを思い出すように命じられました(24~27節)。

私たちも、イエス様が十字架で私たちのためにしてくださったことを思い出し、イスラエル人のようにひざまずいて礼拝しましょう。

It’s your blood that cleanses me.
あなたの血は私を清め、
It’s your blood that gives me life.
あなたの血は私にいのちを与え、

It’s your blood that took my place
あなたの血は私の代わりに流され、
in redeeming sacrifice.
私をあがなってくださいました。

And washes me whiter than the snow.
その血は私を雪よりも白くしてくださいます。
My Jesus, God’s precious sacrifice.
私のイエス、神様の尊いいけにえです。ーーマイケル・キリスト

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出エジプト記のデボーション

私は何者でしょうか

神はモーセに語り、彼に仰せられた。

「わたしは主(原語:ヤハウェ)である。

わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(原語:エル・シャダイ)として現れたが、主(原語:ヤハウェ)という名では、彼らにわたしを知らせなかった。(出エジプト記6:3)

天のお父さん、あなたはエル・シャダイ、全能の神です。あなたはヤハウェです。

あなたはアブラハム、イサク、ヤコブとともにおられた神様です。

あなたはモーセとともにおられた神様です。

そして、あなたは私とともにおられる神様です。

私は何者でしょうか。

どうして、あなたは私を愛し、心に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私のうめきを耳に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私を救い、購ってくださるのでしょうか。

どうして、私をご自分のものとしてくださるのでしょうか。

どうして、私を御国に導いてくださるのでしょうか。

どうして、私の神となり、あなた自身を私に現してくださるのでしょうか。

イエス様において、あなたはアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセでさえ知らなかった方法で、私にご自身を現してくださいました。

だからこそ、苦しむときにも、私はあなた信頼することを選びます。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセの時代に、あなたは忠実でおられました。今もあなたは忠実であり、そして永遠に、あなたは忠実な神様なのです。

アバ、あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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創世記のデボーション

私たちがだれのものであるかを心に留めておく

ヨセフは民に言った。「見よ。私は今、おまえたちとおまえたちの土地を買い取って、ファラオのものとした。」(創世記47:23)

「すると彼らは言った。「あなた様は私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなた様のご好意を受けて、ファラオの奴隷となりましょう。」(25節)

上の言葉を読むたびに、私はイエス様が私たちのためにしてくださったことを思い出します。

エジプト人たちと同じように、私たちは死にかけていましたが、イエス様は私たちを買い取って、ご自分のもの、また天の父のものとされ、救ってくださいました。(黙示録5:9;第一ペテロ1:18〜19)

そして、エジプト人たちが収穫の五分の一を納めたとき、ファラオのいつくしみを思い出していたように、私たちは献金を捧げるとき、神のいつくしみを思い出します。

でも、素晴らしい真理は、イエス様が私たちを神の奴隷ではなく、神の子供とするために買い取ってくださったということです。

パウロの言葉を借りれば、

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。。。

神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(ローマ8:15ー17)

だから、毎日、喜びをもって、私たちが誰のものであるかを心に留め、私たちの人生を神様に捧げましょう。

あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。

ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(第一コリント6:19ー20)